広開土王陵碑文

 広開土王(好太王)陵碑は、中国吉林省集安市のその王陵の近くに位置し、
 高さ約6.3メートル、幅約1.5メートルの角柱状の石碑である。
 その四面に総計1802文字が刻まれ、碑文は漢文での記述となっている。
  【第一面】(11行41文字) 、【第二面】(10行41文字)、【第三面】(14行41文字)
  【第四面】(9行41文字)
 碑文は風化によって判読不能な箇所も存在する。

 高句麗の第19代の王(在位:391年 - 412年)で、
 姓は高、名は談徳、尊号は永楽太王、諡号は「國岡上廣開土境平安好太王」。
 この碑は、彼の業績を称えるために、
 息子の長寿王が、414年(甲寅年九月二十九日)に建てたものである。

 広開土王は、『三国史記』「年表」で、「広開土王談徳」と記され、
 「中国史書」では「句麗王安」などと記述される。

 この碑文は、4世紀から5世紀にかけての北東アジア(朝鮮半島と日本)の状勢を、
 朝鮮民族が自ら記した同時代的史料である。
 当時の高句麗の視点という一面的な情報だが、この時代の貴重な同時代的情報である。

 当時、主に同時代的情報は、中国人の視点による中国文献が主流である。
 また、母国語の文字を持たなかった日本や朝鮮では文字(漢語、漢字)で記述された。

 まとまって現存する文献は、主に7世紀以降となる。
 これらの点から見ても貴重な歴史的文献と言える。
 しかも、書写による誤謬や書き変えなどが無い製作当時の姿を残す金石文でもある。

 日本(倭)関連の記述
 2006年に、中国社会科学院の徐建新により、
 1881年に作成された現存最古の拓本が、
 日本陸軍の持ち帰った拓本と完全に一致していることが発表された。

 ①「百殘新羅舊是屬民由來朝貢而倭以辛卯年來渡海破百殘□□新羅以為臣民」

 上文の訳
 「百済と新羅とは、もとこれは(高句麗の)属民であって、もとから朝貢していたのである。
  しかるに倭は、辛卯の年(391年)に、海を渡って来て、百済・□□・新羅を破って、臣民としてしまった。」

 更に、日本(倭)関連の記述
 ②「九年(399年)己亥に、百済は、(高句麗との)誓いにそむいて、倭と和を通じた。」
  「九年己亥百殘違誓與倭和通」

  (広開土)王は、平壌に巡下した。
  そこで新羅は、使者を遣わして、王に申しあげて、
  「倭人は、新羅の国境に充ちあふれ、城や池を打ち破り、(百済の)奴客を民としてしまいました。
  王に帰属しまして、仰せを承りたいと願っております。」と言った。
  「王巡下平穰
  而新羅遣使白王云
  倭人滿其國境潰破城池以奴客為民
  歸王請命」

 ③十年(4004年)庚子に、歩騎五万を派遣し、前進させて新羅を救援させた。
  男居城より新羅城に至るまで、倭は、その中に充ちあふれていた。
  「十年庚子教遣步騎五萬往救新羅
   從男居城至新羅城倭滿其中」

  官軍が、まさにやって来ると、倭賊は、退却した。
  「官軍方至倭賊退」

  倭は充ちあふれ、倭は潰滅した。
  「倭滿大潰」

 ④十四年(404年)甲辰、倭は、不法にも帯方の界に侵入した。
  「十四年甲辰而倭不軌侵入帶方界」

  倭寇は、潰滅し、斬り殺した者は、数えきれなかった。
  「倭寇潰敗斬殺無數」


 なお、碑の全文へのリンク
   *私には到底読解できないが。