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      名産  ウイスキー  キルト



  スコットランドの歴史

 1743年のスコットランド
 クレアのタイムスリップした時代と場所


 歴史1

 イングランド女王エリザベス1世には
  *)ヴァージン・クイーン:ヴァージニア植民地の名称の由来
 世継ぎなく、女王の遺志により、
 宿敵であったスコットランド女王メアリー・スチュアート
  *エリザベス女王暗殺の陰謀に加わったかどで処刑される。
 彼女の息子のジェイムズ6世が、
 ジェイムズ1世としてイングランド国王も兼ねることになった。
 1603年、両国は同じ王を戴く<同君連合>となる。
 イングランドのスチュアート王朝の始まり。

 その後、
 クロムウエルの率いる市民軍による清教徒革命(1642年)、
 共和制樹立(1649年)、王政復古(1660年)、
 名誉革命(1688年)と続き、
 1707年には、ハノーヴァー朝が成立。

 ハノーヴァー朝は、
 スチュアート朝のジェイムズ1世の長女エリザベスの娘で、
 ドイツのハノーヴァー選帝侯に嫁いだゾフィーの
 その息子のゲオルグが
 ジョージ1世としてイングランド王位を継いだ。

 英語をしゃべらないゲオルグがイングランド国王になり、
 かくしてグレート・ブリテンが誕生した。
  *)イングランド、ウェールズ、スコットランドの総称

 スチュアート王朝は途絶えて、
 以後現在のエリザベス2世まで
 ハノーヴァー朝が継続している。
 1917年になって、、
 第1次世界大戦の敵国ドイツの地名を冠することから、
 王宮所在地の名をとってウィンザー朝と改称する(現在)。


 1715年、第1次ジャコバイトの反乱
 スコットランドはイングランドと同君連合になったものの、
 イングランドからは見れば、
 経済も産業技術も文化もすべての面で遅れている
 野蛮な国と見られ、差別されていた。

 スコットランド内部もクラン(氏族)同士の抗争、
 あるいは宗教対立、
  *ハイランド(高地)はカトリック、
   ローランド(低地)は長老派プロテスタントが多い。
 農業も牧畜も改良がみられず貧しい国のまま取り残されていた。
 富める国イングランドを妬む気持ちが
 スコットランド人にあって当然、
 ジャコバイト反乱の下地にあった。

 <ジャコバイト>とはスチュアート王朝復活を願う人々で、
 名誉革命でフランスに亡命したジェイムズ2世(7世)の
 息子のジェイムズ(スコットランド王位を継げば8世)を擁立、
    *)彼を大僣称者オールド・プリテンダーという。

 武装蜂起したのは
 もっぱら貧しいハイランドや西南部の人々であって、失敗。
 ジェイムズはフランスからローマに移住する。
 ここで彼はポーランド国王の孫娘マリア・クレメンティナと結婚、
 ポニー・プリンス・チャーリーが生まれる。
 このチャーリーが第2次ジャコバイトの反乱(1745年)を引き起こす。
   *)父に対して小僣称者ヤング・プリテンダーと呼ばれる。

 <クレアとジェイミーが阻止しようとしたのは、
  この第2次ジャコバイトの反乱>



 歴史2

 スコットランドに
 プロテスタント勢力による宗教改革が起こり、
 教会組織の運営を聖職者ではなく
 長老による集会がとりしきる「長老主義教会」が成立、
 1690年に国教と定められた。

 だが、独自の氏族(クラン)体制をとっていて、
 独立心が旺盛なハイランドでは
 カトリック信仰を捨てない者も多かった。

 イングランドでも、ヘンリー8世が、
 自らの離婚問題をきっかけにローマ・カトリック教会と断絶し、
 イングランド国教会を作っていた。
 イングランド国王は
 スコットランドにこれを押しつけようとする。

 こうして、イングランドとスコットランドでは、
 長老主義教会とイングランド国教会、
 カトリックが三つ巴で争い、
 これに大貴族の権力争いが絡み合い、
 非常に不安定な状態が続いていた。


 <清教徒革命>
 イングランドでは、
 1642年クロムウエル率いるピューリタン革命が起こり、
 1649年、時の国王チャールズ1世を断頭台に送って
 共和制が成立したが、
 これが10年余りで瓦解し、
 1660年、チャールズ2世の即位によって王政復古となる。

 ところが、チャールズ2世の弟ジェイムズは
 カトリック信仰を公然と表明し、
 兄の跡を継いでイングランド国王ジェイムズ2世、
 スコットランド国王ジェイムズ7世として即位すると、
 イングランド国教会を排してカトリックの復興を企てようとした。

 <名誉革命
 だが、ヨーロッパ最大のカトリック国である
 フランスと対抗していたイングランドでは、
 国内に強いカトリック・アレルギーがあったため、
 1689年、ジェイムズ2世は退位を余儀なくされ、
 オランダからウィリアム3世と
 その妻メアリー2世(ジェイムズ2世の娘)が呼ばれて王位につく。
 カトリックの国王から
 プロテスタントの国王へと、無血革命が成功する。


 第1次ジャコバイトの反乱(1715年)

 ジェイムズ2世はフランスに亡命、
 自らがイングランドとスコットランド両国の正統な国王であると
 主張し続け、ルイ14世の後押しを受けて亡命政権を樹立する。
 彼に忠誠を誓う勢力が、
 ジェイムズのラテン名をとって「ジャコバイト」と呼ばれる。

 このジャコバイトとカトリック、
 それにフランスが手を組んで起こしたのが、
 1715年のジャコバイトの反乱だった。
  *)一五・フィフティーンと呼ばれる。

 この時ジェイムズ2世はすでに亡く、
 遺児のジェイムズを担ぎ出しての反乱。
 首謀者はスコットランドの名門の出であるマー伯爵
 その下でハイランドの首長たちとの連絡係を務めたのが
 ロブ・ロイ(ハイランドの英雄)で、
 彼はハイランドのクランの首長の息子に生まれ、
 勇猛果敢、堂々たる体格でいやでも目立つ赤毛、
 若い頃からまわりの人間に一目置かれる存在だった。
  *)ジェイミーのモデル?

 この反乱軍はスコットランドのパースを占領、
 そのままエディンバラに向かえば
 反乱軍の勝利に終わっていたかもしれないのに、
 フランスからジェイムズがやってくるのを待った。
 ところがこのジェイムズ、
 優柔不断を絵に描いたような人物でなかなか腰をあげない。
 反乱軍の主力をなしていたハイランドの族長たちは、
 待たされている間に戦意を喪失、故郷に帰る者が続出する。
 ジェイムズはやってくるにはきたが、
 時すでに遅しでこの反乱は失敗に終わる。

 それから30年後、
 ジェイムズの息子のチャールズが
 「わが父こそは正統な国王なり」と宣言して、
 ジャコバイトと組んで起こすのが、
 後に「四五・フォーティファイブ」と呼ばれる
 2度目のジャコバイトの反乱。



 歴史3 フランス

 イングランドでは、
 ヘンリ8世が1534年イングランド国教会を作る。
 同じ頃フランスにも宗教改革の波が押し寄せ、
 36年間にわたって
 カトリックとプロテスタントが戦争を繰り返していた。
  *)ユグノー戦争

 宗教改革といえばマルチン・ルター
 16世紀の初頭、
 彼は、贖宥状(免罪符)とは堕落もはなはだしい、と
 ローマ・カトリック教会を批判して破門される。

 ルターは聖書に書かれていることだけを信じ、
 聖職者を介さずに神と直接対話しよう、
 と教えてルター派教会を作る。
  *)ルターは「神は人間を交わりのために創られたのであって、
   孤独のために創られたのではない」と言い、
   自らも脱走修道尼と結婚している。
   しかもビールが好きで
   妻のポーラはビール造りに長けていた。
  *)エールにまつわることわざ
  「上等のエールは猫をもしゃべらせる」

 フランスでルターの教えに帰依した一人、
 ジャン・カルヴァンは、
 国王フランソワ1世の弾圧から逃れてスイスに居を定め、
 カルヴァン派の教会を作って
 フランスの宗教改革の担い手となった。
 このカルヴァン派プロテスタントが
 のちにユグノーと呼ばれ、
 フランス各地でカトリックと衝突し、ユグノー戦争に発展、
 歩み寄りと対立を繰り返しながら36年間続く。

 この戦争に終止符を打ち、国王の座についたのが、
 十字軍遠征で名高い聖王ルイの血筋を引くブルボン家の当主で、
 プロテスタント軍を率いて国王軍と戦っていたアンリだった。

 彼は、アンリ4世として即位するにあたり、
 カトリックへの改宗を余儀なくされたが、
 こうしてフランスにブルボン王朝が誕生し、
 息子のルイ13世、14世へと受け継がれる。


 ルイ14世

 彼は、太陽王と呼ばれ、芸術を擁護し、
 ヴェルサイユ宮殿を造営(完成に25年)して
 フランスをヨーロッパ随一の文化国家とした。
 また、プロテスタントの弾圧も行っている。
 信仰の自由を奪い、牧師を国外に追放、
 プロテスタントの学校を閉鎖し、教会堂を取り壊した。
 亡命も禁じ、捕らえられたらガレー船送りと財産没収、
 それでも20万人のプロテスタントがフランスから脱出した。

 彼の治世は、
 5歳で即位してから1715年(第1次ジャコバイトの反乱)
 76歳で死ぬまで72年に及ぶ。
 そのあいだに、王位継承者である息子と孫を次々亡くして、
 継承したルイ15世はひ孫で、やはり5歳で即位。

 <ルイ15世>
 ブルボン王朝の王で最もハンサム、
 大の狩猟好き、射撃もうまくスポーツマン。
 11歳で婚約した(させられた)相手は
 スペインのフェリペ5世の娘で当時3歳、
 フェリペ5世とルイ15世の父親はルイ14世の孫で兄弟、
 11歳と3歳のいとこ同士にあたる。

 幼い王女は婚約した翌年フランスに来て
 フランス流のしつけを施されることになった。
 しかし、子供を産める年頃になるまで10年以上、
 結局、この婚約は数年後フランス側が一方的に破棄し、
 フェリペ5世は激怒してフランスとの外交関係を絶つ。

 15歳の15世の王妃に選ばれたのが
 6歳年上のマリ・レクゼンスカヤ
  *)父親は元ポーランド国王だが、いまや貧乏貴族。
 彼女にとって玉の輿の結婚だったが、
 しょせん世継ぎを生む道具にすぎなかった。
 11年間に男子2人を含め10人の子を産んだ。

 ルイ15世の時代、パリは商業と文化の都として花開いた。
 聖職者や大貴族がパリに豪勢な館を構え、
 最高法院の高等法院や会計法院、租税法院があって、
 高級官吏である法服貴族も数多く住んでいた。

 法服貴族は、
 高級官職を2世代以上にわたって継承し、貴族号を得た人々で、
 伝統と格式を誇る領主貴族からはばかにされていた。
 彼らよりもさらに新しい貴族が金融貴族で、
 国王に金を貸し付けたり、税金の徴収を請け負う金融業家が、
 この官職を大金で手に入れて貴族の仲間入りを果たした。
 さらに、植民地貿易やさまざまな商工業に投資して
 富を築いた銀行家や貿易商といった大実業家も
 パリに集まっていた。

 パリにはパリ大学もあったし、
 アカデミー・フランセーズや王立音楽アカデミー、
 自然科学の教育・研究機関である科学アカデミーもあった。
 文化施設が揃っているうえに
 パトロンとなる富豪が大勢住んでいたのだから
 芸術が栄えるのは当然だ。
 大貴族や金融貴族の奥方は、自宅の客間(サロン)に友人知人を招き、
 音楽会や詩の朗読会を開いた。
 これがサロンで、この時代に大流行した。
 絵画や音楽や建築には
 繊細さや優雅さ、軽快さが求められ、
 ロココ様式と呼ばれるようになる。

 ルイ15世の愛妾は多数いた。
 自ら求めたというよりあてがわれた。
 貴族の中には国王に取り入るため
 平気で妻を差し出し者もいたというが、
 そんな愛妾たちのなかでも有名なのが

 ポンパドゥール夫人

 平民の出のポンパドゥール夫人を
 正式な愛妾としてヴェルサイユ宮殿に迎えるために、
 ルイ15世は領地と貴族の称号を与え、
 ポンパドゥール公爵夫人と名乗らせた。
 彼女が国王の寵愛を受けた20年のうち、
 ベッドを共にしたのは最初の5年だけで、
 (原因は彼女の不感症!)
 あとの15年は信頼のおける友人、よき相談相手だった。
 国王とベッドを共にしたくないけれど、
 寵愛は失いたくないから「鹿の苑」を造って、
 国王好みの若い娘を集めてお相手させた。
 「王様はお考えにならず、お感じにもならず、
  あくびばかりしていらっしゃいます」と
 ポンパドゥール夫人が嘆いた。


 そのように、ルイ15世は政務に身を入れず、
 読み物といえばパリ警視総監が提出する
 スキャンダル報告書と秘密検閲で開封する私信だけ。
 狩りに出られないときは刺繍か料理をしていたとか。
 才色兼備のポンパドゥールが政治に口出すようになったのも無理ない。
 彼女はまた、芸術の庇護者で
 マイセン焼きに劣らない高級磁器をフランスでも造ろうと
 セーブル焼きの完成に貢献した。
  *)セーブル焼きのバラ色は
   「ポンパドゥール・ローズ」ともいわれる。


 歴史4

 プリンス・チャールズ(ポニー・プリンス・チャーリー)
 1720年12月31日、父ジェイムズ3世の亡命先、
 イタリア・ローマで産声をあげた。
 正式の名前は、
  <チャールズ・エドワード・ルイス・ジョン・カシミール
   ・シルベスター・セヴェリーノ・マリア>。
 皇太子に授けられる称号、プリンス・オブ・ウェールズに除された。
  *イングランド国王ジェイムズ2世は名誉革命でフランス亡命したので、
   父子とも僣称者プリテンダー。

 母はポーランド国王の孫娘マリア・クレメンティナ、
 待ちに待った嫡子の誕生に
 ヨーロッパ中のジャコバイトたちが歓声の声をあげた。
 ローマでは噴水からワインが流れ、夜空に花火が打ち上げられて、
 サン・タンジェロ城からは祝砲が轟いた。

 スチュアート王朝再興を夢見るジャコバイトたちにとって、
 いずれはグレート・ブリテン(連合王国)を統治する
 チャールズ3世となるであろう希望の星の誕生だった。

 しかし、4年後に弟のヘンリーが生まれたころには
 両親の仲は冷え切っていた。
 王妃として華やかな生活を夢見て
 17歳で結婚したマリア・クレメンティナにとって、
 新婚生活は単調で息の詰まるものであった。
 しかも、この結婚はイングランド国王ジョージ1世の妨害にあっている。
 ヨーロッパの名門ソビエスキ家とスチュアート家が結びつくのを恐れた
 ジョージ1世の圧力で、輿入れの一行はインスブルックで捕まり、
 アンブラス城に軟禁され(彼女にとっては快適な虜囚生活))た。

 半年後に、助けにきたジェイムズの忠臣に伴われて城から脱走、
 イタリアまでの200マイル、
 いつ追っ手に捕まるかわからないスリル満点の逃避行の後、
 ようやく結婚にこぎつけたのだから平穏な日々が
 退屈きわまりないものと感じられるのも当然だろう。

 夫のジェイムズは政務に忙しくかまってくれない。
 胸にたぎる情熱を二人の息子に注げばいいのに、
 若くわがままな彼女にはそれができず、
 ジェイムズが息子たちを可愛がるのを見て
 嫉妬を覚えるほどだったようだ。
 そしてのめり込んだのが
 宗教・カトリック信仰だった。

 ジェイムズが息子たちに
 プロテスタントの家庭教師と世話係につけると、
 当然ながら彼女は激怒する。
 未来の臣民(イングランドとスコットランドの民)である
 プロテスタントのことを
 よく知っておくことが大切というジェイムズの意見に、
 彼女は聞く耳を持たずの態度で、ヘンリーを産んで半年後、
 夫も息子たちも捨てて聖セシリア修道院に入ってしまう。
 このスキャンダルはヨーロッパ中の話題をさらった。

 3年後の1728年、マリア・クレメンティナは
 夫のもとに戻ってくるものの、
 息子たちに関心を向けることなく、
 1日中侍女たちと暗い部屋に閉じこもったきりで、
 外出するのは教会や修道院のミサに出席するときだけだった。
 そして、1735年幻滅と失意のうちに33歳の生涯を閉じた。

 父からたっぷり愛情を注がれたものの
 母親の愛情を知らずに育ったチャーリーが、
 フランス・パリで
 ルイーズ・ド・ラ・トゥール・ド・ロアン公爵夫人と
 恋に落ちた気持ちはわからないでもない。
 ルイーズは
 「ぽっちゃり型で、不器量な部類」だけれど
 「活気に満ちあふれ、人を惹きつける」おおらか。
 母親に甘えるように甘えられたのだろう。


 1745年、ポニー・プリンス・チャーリーは挙兵し、
 ジャコバイトの反乱が起こった。
 チャ-ルズの軍はイングランドに攻め入り、
 ロンドンから200キロのダービーにまで進んだ。
 ここまで割合すんなり来られたので、
 チャーリーはすっかり舞い上がり、
 ロンドンに入るときはどんな服装にするか考えて
 一人ご満悦だったという。
  *)クレアによると、
   「彼は愚かだった。大酒飲みで、優柔不断なばか男」

 だが、チャーリーが求めた栄光の陰で、
 多くの無名の人々が命を落とした。
 荒れた土地を懸命に耕してきたハイランドの農民が、
 斧や大鎌で武装してジャコバイトの反乱に加わった。
  *)クランの首長の命令で仕方なく。
 そして1746年4月16日(カローデンの戦い)、
 疲労と飢餓ですでに力尽きていた彼らは、
 なお戦場に駆り立てられ、
 カンバーランド公爵率いるイングランド軍の
 砲弾とマスケット銃弾の前に次々と倒れていった。



 カローデンの戦い以後

 カローデンの戦いでイングランド軍を指揮したカンバーランド公爵は
 <惨殺者(ブッチャー)>のあだ名どおりの残忍非道ぶりを発揮する。
 戦いの直後、
 「至るところで負傷者が射殺され、
  銃剣で突き殺され、あるいは殴り殺された。
  多くの外人傭兵からなる政府軍兵士は、
  殺戮に狂って互いに犠牲者の血を浴びせあった。
  ……翌日にはさらに周辺の土地を洗うべく偵察隊が派遣され
  ……見つかった者は銃で殴り殺された
  ……スコットランドが
  二度とスチュアート王家を支持などしないように、
  いや、二度とロンドンの利益に刃向かうことがないように、
  徹底的に思い知らせようとしたのだ」
  (ナイジェル・トランター著『スコットランド物語』)

 1747年に発布された『武装および衣装禁止法』によって、
 スコットランドでは先の丸いナイフ以外持つことを禁止され、
 キルトやプレードの着用
 およびクランの象徴であるタータン柄を使うことが禁止された。
 違反者は6ヶ月の投獄、再犯者は7年の流罪だった。
 クラン姓の使用も禁止され、バグ・パイプの演奏も御法度。
 ジャコバイト派の首長たちは、その領土と財産を没収された。
 ハイランダーが再びキルトの着用を許されるのは
 35年後の1782年。


 歴史5

 大航海時代 壊血病

 15世紀後半から。
 海賊より恐れられていたのが壊血病。
 たとえばバスコ・ダ・ガマが
 インド航路を発見した航海(1497~8年)では、
 160人の乗組員のうち100人がこの病気で死んでいる。
 症状としては体のだるさ、歯茎からの出血、歯が抜ける、
 古い傷口が開く、気絶、下痢など。

 さらに症状が進むと
 肺や腎臓に出血性の障害が起こり命を落とす。
 1747年、イギリス海軍医ジェイムズ・リンドが
 オレンジやレモンなどの柑橘類を食べることで
 予防できることを発見。
 その後、イギリス海軍では
 水兵に毎日ライム・ジュースを飲ませることにしたため、
 イギリスの水兵は
 今でも<ライム・ジューサー>と呼ばれているそうだ。

 本書でも、
 ライム・ジュースは船医が用意するものだ、とジェイミーが言う。
 同じころ、キャプテン・クックが世界一周の航海に成功したのは、
 船医が壊血病患者にレモンを与えたおかげだといわれる。
 しかし、壊血病がビタミンCの不足によって起こることが
 解明されるのは20世紀に入ってから。


 <西インド諸島の歴史

 1492年10月12日、
 コロンブスはバハマ諸島にひとつ、
 サン・サルバトル島(ウァトリング島)に上陸。
 12月5日にはイスパニョーラ島(コロンブスが命名した)に到達、
 サント・ドミンゴに新大陸最初の町を造り、
 ここを基点に新大陸制覇にのりだすが、
 西欧列強の攻撃や海賊の横行で頓挫する。
  *バハマ諸島のナッソーには、
   1700年代前半に2千から3千人の海賊が住んでいたそうだ。

 以後、コロンブスか開いたスペイン=バハマ航路を通り、
 スペイン、イギリス、フランス、ポルトガルから多くの人々がやってくる。
 かくしてカリブ海に浮かぶ島々は、
 次々と西欧列強の植民地となり、
 先住民たちは強制労働や疫病で死に絶える。

 代わって労働力として送り込まれたのがアフリカの黒人で、
 この大西洋黒人奴隷貿易により、
 19世紀後半までの400年間に、
 千2百万ないし千5百万人が
 商品として強制的に海を渡らされた。

 奴隷たちは船に積み込まれる前に毛髪を剃られ、
 全裸で男女別々の船倉に押し込まれた。
 女と子どもは出帆後に鎖をとかれることが多かったようだが、
 男は普通二人一組で足首に鎖がかけられた。
 一人あたりのスペースはわずか畳半分ほど、まさにすし詰め状態だった。
 航海中の死亡率は
 17世紀で15~16%、18世紀前半で10%、
 18世紀後半でも7~8%だったそうだ。
 死因はいろいろ、
 給水不足による脱水死、赤痢や天然痘などの疫病、壊血病。
 絶食や舌を噛み切る、海中に飛び込むなどの自殺者も出た。
 乗組員が退屈な船旅の気晴らしにリンチを加え、
 海に放り込むことさえあったという。

 航海を何とか生き延びて目的地に着いても、
 彼らを待っているのは
 プランテーションでの苛酷な労働だ。
 身の丈の2倍以上もあるサトウキビを、
 灼熱の太陽の下、裸同然で刈り取るのだ。
 刈り取ったサトウキビは裁断され、
 圧縮機にかけて糖汁を引き出し、
 煮沸、攪拌して濃縮し、粗糖と糖蜜に分離する。
 この作業がまた猛烈に暑かった。

 コロンブスが命名したイスパニョーラ島(スペイン領サント・ドミンゴ)は、
 1697年に西側3分の1がフランス領となり、
 サン=ドマングと命名される。
 クレアとジェイミーがやってきた1767年当時、
 サン=ドマングは世界最大の砂糖生産地だった。
 世界で消費される砂糖の40%、
 コーヒーの実に60%がここで作られた。
 それを支えていたのが
 総人口の9割近くを占める黒人奴隷だったが、
 苛酷な労働に耐え切れず逃亡する奴隷は後をたたなかった。

 国土の5分の4が山地であるサン=ドマングは
 逃げ込む場所にことかかない。
 逃亡奴隷は山間僻地に共同体を作り、
 リーダーを選び、土地を耕し家を建てバリケードを築き、
 そこを拠点に襲撃や略奪を繰り返した。
 捕らえられると、1ヶ月以上逃亡した奴隷は
 両耳切除と片方の肩にユリの花の烙印刑。
 再犯者は膝裏の腱切断ともう一方の肩へのユリの花の烙印刑、
 再々犯者は死刑とされた。

 1791年8月22日、
 プランテーションを脱出した黒人奴隷が一斉に蜂起し、
 年末までに蜂起に合流した黒人奴隷の推定数は5万人ともいわれる。
 これがハイチ革命の発端であり、
 1793年には奴隷解放宣言、
 1804年1月1日ハイチ独立宣言、
 1806年に制定された新憲法で共和制が採用され、
 世界史上最初の黒人共和国誕生となるの。

 一方、イスパニョーラ島の東側3分の2を占める
 スペイン領サント・ドミンゴは
 1822~44年までハイチの支配下におかれ、
 独立してドミニカ共和国になるのは
 1844年のことだ。


 ゲール語他
 モ・デルニア mo duinner 
 クレアの呼び名、
 <茶色(の髪)の人>栗色の髪のクレア
 発音はイギリス人女優ジェラルディン・ジェイムズの朗読したCDから採った。
 ところが、
 アウトランダー・シリーズのガイドブック(The Outlandish Companion)では、
 <モ・ニアン・ドウン>(mo nighean donn)だったが、
 (my brown-haired girl)に訂正された
  *)『時の彼方の再会』から。
   ゲール語のエキスパートから助言されたからだそうだ。



 スコットランド名産

 <料理、ハギス

 「ヒツジの心臓・肺臓・肝臓、
  それに玉ネギをみじん切りにしたものをオートミールに混ぜ、
  塩・コショウ・スエット(脂肪)で調味し、
  ヒツジの胃袋に詰めて中味が出ないように能く縫い合わせる。
  こうして大きな袋詰めになったものを
  *中の空気が逃げられるように小針で穴をいくつかあけて。
  湯の中で5時間ほどゆっくり煮込んでできあがる。
  1個のハギスは、数人から数十人分に小分けして食べるのが普通だから、
  かなり大形のもので、薄茶と薄紫のまじった色合いで湯気を立てて取り出され、
  大皿にのったときの不気味な姿は、まずわれわれの目を驚かすに充分である」
  (東浦義雄著『スコットランドⅩⅠの謎』)


 『ハギスのために』
 ロバート・バーンズ(1759~96年)
 スコットランドの詩人

 正直なおまえの笑顔に幸いあれ!
 腸詰め一族の偉大な王よ、
 おまえはその連中の上にどっかと腰を下ろしている、
  胃袋や腸や内臓の上に。
 おまえはおれの長い腕くらい
  長ったらしい食前の祈りにふさわしい立派な食べ物だ。
 
 皿せましとどっさり山のように盛られているおまえ、
 おまえの尻はまるで遠くに見える山のようだ。
 おまえの焼き串、まさかのときには、
  粉挽機の修繕に大活躍だ。
 やがて、おまえの毛穴から滴がしたたり落ちる、
  琥珀色の玉のような滴が。
 
 哀れなやつを見ろ! つまらぬものばかり食べているやつめ。
 しなびた草のように弱々しい。
 脚はクモのように細長く、お上品な鞭みたいだ。
  握り拳はせいぜいクルミの大きさ。
 血なまぐさい戦場に突進するなんて
  どだい無理なこと。
 
 それにひきかえ、ハギスで育った田舎者を見ろ。
 歩むたんびに大地は震え、こだまする。
 その大きな握りこぶしに剣を持たせてみろ。
  ぐるぐる振ってひゅーひゅー風を起こし、
 敵の脚も腕も頭もスパリスパリと切りまくる、
  まるでアザミの穂先を切るように。

 ああ、天使様。あなたは人類を庇護したまい、
 献立表を見せてくださる。
 古き良きスコットランドに水っぽい食べ物など用はない、
  器の中でじゃぼじゃぼ音のするような。
 しかし、天使様、あなたが感謝の祈りをお望みなら、
  スコットランドに、与えたまえ、ハギスを!



 <ウィスキー
 シングル・ウィスキーとブレンデッド・ウィスキー。
 シングルにもモルト・ウィスキーとグレーン・ウィスキーの2種類があり、
 モルトが大麦の麦芽だけを使うのにたいし、
 グレーンには大麦麦芽のほかに、
 ライ麦やオート麦、トウモロコシといった穀類(グレーン)が使われている。

 ブレンデッド・ウィスキーは、何種類かのウィスキーを混合したもので、
 ブレンドする原酒は各蒸留所で独自のものを製造していて、
 その種類は50種をくだらないそうだ。

 麦芽を乾燥する際の燃料の一つがピートで、
 この煙がスコッチ・ウィスキーに独特の味わい、<薫煙風味(スモーキー・フレーヴァ)>を付ける。
 舌に残るいがらっぽいような、なんともいえない味わいだ。
 ピートはアシ、スゲ、苔、ヒースなどが枯れて堆積し、
 部分的に分解炭化して土壌と混じったものだ。
 色はだいたい黒褐色、厚いところでは5,6メートルの層を成している。
 これを長方形に切り取って燃料とする。

 ところで、もともとはこのピート、フレーヴァを付けるためより、
 麦芽を乾燥させるための燃料とするのが主だった。
 イングランドの役人がウィスキーに高い税金をかけたため、
 スコットランドでウィスキーの密造が盛んとなった。
 役人の目を逃れるためには、燃焼の際、石炭より煙を出さないピートの方が好まれた。
 こうして最初は密造酒を造るための燃料として使ったピートが、
 独特の風味を添えてくれることがわかり、使用目的が変わった。
  (東浦義雄著『スコットⅩⅠの謎』)


 『スコットランドの酒よ』
 ロバート・バーンズ

 おまえは、老いぼれ学者の頭を研ぎ澄ましてくれる。
 おまえは、打ち沈む不安な心を勇気づけてくれる。
 おまえは、疲れ果ててつらいときでも、
  苦しい仕事の中で神経を緊張させてくれる。
 おまえは、陰気な中に微笑を浮かべ、
  暗い絶望を明るく輝かしてくれる。

 おお、ウィスキーよ! 遊びと戯れの真髄よ!
 吟遊詩人の心からの感謝を受けとめてくれ!
 おまえが居ないと、わしの哀れな詩は、
  調子外れて、絶叫に堕してしまう!
 おまえさえ居てくれれば――わしの詩は配列順序見事に、
  それぞれ、位置を整然と占めてくれるのだ!

 あの呪われた収税役人のくそ豚野郎どもめ、
 あいつらがウィスキー蒸留器を戦利品として略奪していきやがる!
 魔王よ、おまえの手を貸してくれ! それ一、二の、三だ!
  それ、密告野郎を捕まえろ!
 地獄に落とされてしまった哀れなわしの酒飲み仲間のために、
  あいつらを硫黄づけのパイに焼き上げてしまえ。



 <かつらと髪粉> 
 1764年『かつら百科辞典』には、
 何と150種類もの男性用かつらが載っており、
 どれも「高価で、蒸し暑く、不快だった」という。
 かつらの材料となる人毛の供給量には限りあるから、
 代用品であることを隠すため髪粉が用いられるようになった。

 自前の髪にももちろん髪粉をふりかけた。
 髪粉化粧を施すのは大仕事で、貴族や富豪の屋敷にはそれ用の特別室があった。
 下僕が粉を天上に向かって投げると、霧雨のように降ってきて頭を平均に白くする。
 もちろん、目と鼻と口をしっかり閉ざしていないと大変なことになる。



 <キルト

 スカート風のキルトができたのは17世紀半ばすぎ。

 16世紀頃まで、ハイランダーは
 サフラン・シャツ(サフランの黄色い染料で染めた、長袖の膝下まであるシャツ)を着ていた。
 腰にはベルトを巻き、夜になると防寒用に一枚の毛織り地を肩からまとう。

 17世紀になると、サフラン・シャツはすたれ、
 代わりに大きな一枚の毛織り地をまとうようになる。
 この布地をプレードと呼び、
 初期には無地のサフラン色のものだったが、次第に格子柄に代わっていく。
 長さ5メートル40センチ、幅は1メートル50センチの大きさのものが標準だった。
 これを折りたたんで体に巻きつけてベルトで縛り、
 余った部分は左肩にかぶせてバックルかピンで留めた。
 腰から下はスカート風になる。
 プレードを一枚着れば、夜間にはベッドとテント代わりにもなる。

 17世紀半ばころから、上半分をおおった部分が切り離され、
 ベルトの付いたスカートが残った。
 これが現在のキルトの原形。
 上半身をおおっていた部分は、長さも幅も短くして肩から掛けるようになり、
 プレードという呼び名はそのまま残った。

 キルトの下には何も穿かない。
 少なくとも第2次大戦までは何もつけないのが当たり前だったという。
 今でもこの習慣をかたくなに守っている人がいるようで、
 そういう人はいすにこしかけるとき、
 必ずキルトの前の部分を手刀で切って、深い溝を付けるそうだ。


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