映画「死と乙女」

 クリムトの作風に興味を持っていた私は、都美術館「クリムト展」を観た後に、
 映画「クリムト」を見て、映画からエゴン・シーレにも興味を抱いた。

 それで、国立新美術館「ウィーン・モダン展」に行って<1911年の署名がある自画像>などの作品を観たが、
 まだシーレを知るには物足りなさが残っていた。
 1911年の署名の自画像

 探してみると、映画「死と乙女」が以前上映されたことを知った。




 映画「死と乙女」はエゴン・シーレの伝記を主とし、
 冒頭にスペイン風邪に罹った妻エーディトを看病しながら病に伏せるエゴンを描き、
 彼を看病する妹ゲルティ(ゲルトルーデ)の回想から始まる。
  *)スペイン風邪、A型インフルエンザ。世界的に2~4千万の死者を出し、
    シーレ夫妻の死を招いた第二波、1918年の大流行では日本でも7万人弱の死者を出した。
  *)現在の<新型コロナウイルス>は、パンデミックの脅威として同様におそろしい。

 映画では、妹ゲルティがエゴンを何としても治そうと、
 宝石類をキニーネと物々交換するシーン(現金ではダメ)があり、
 これはこの時代を感じさせるシーンであった。
 
 シーレの父は梅毒で狂気に陥り紙幣や有価証券類を燃やして死ぬ。
 エゴン・ゲルティ兄妹の生活は、後見人となった叔父に支えられる。叔父はエゴンの借金や浪費の肩代わりをしてやる。

 エゴン・シーレは大きな鏡の前にモデルを立たせ、モデルの前と後ろの姿をデッサンする。
 鏡の前に立つエゴン

 初めのうちは妹ゲルティをモデルとして、様々なポーズで彼女のヌードを画く。
 ゲルティの肖像  
 エゴンとゲルティ(映画)  近親相姦的な感情を象徴?

 次いで、褐色の肌の踊り子モアをモデルに。
 モアの肖像
 
 やがて、クリムトのモデルであった17歳のヴァリーを知り、
 シーレは彼女と同棲、彼が結婚するまでモデルとする。
 彼女こそシーレの私生活と芸術に最も貢献したといえる。
 ヴァリー・ノイツィルの肖像
 両膝を立てたヴァリー

 ヴァリーとエゴン(映画から)
 
 ヴァリーは、13歳の少女誘拐事件(家出した少女とエゴンが一夜を共にした)の裁判で、
 シーレと少女の間に何もなかったと証言、シーレの無罪を得る。

 しかし、裁判では、誘拐事件は無罪となるが、
 押収したシーレの作品を猥褻画と見なし、作品を没収し禁固刑とした。
 シーレは自分の作品を<エロス芸術!>と主張するが通らない。

 ウィーンに戻ったシーレとヴァリーは、通りの向かいに住むハルムス家のアデーレとエーディト姉妹と知りあう。
 シーレは戦争に召集されると、姉のアデーレと関係を持ちながら、妹エーディトと結婚する。
 姉アデーレ

 エゴンとエーディト
 抱擁(座る夫婦) *エゴンとエーディト

 ヴァリーは結婚しても付き合うというシーレの申し出を拒絶して彼と別れる
 彼女はその後、従軍看護婦となる。
 
 第1次大戦中、シーレは戦場に送られず、後方で芸術家として活動することが認められた。
 戦争が画家エゴン・シーレに自由活発な創作を齎したのは、彼にとって幸運であった。

 かくして、シーレの大胆で独創的な画風は次第に受け入れられ、
 1918年(2月クリムトの死)、3月に開催された第49回ウィーン分離派展ではシーレが主役となり、
 彼の50点以上の新作が一挙に公開される。

 映画では、展覧会場のクリムト「ベートーヴェン・フリーズ」の正面壁下に「死と乙女」が掲げられている。
 (実際は違うと思うが、14回分離派展は1902年)。
 また、この時、ヴァリーの死を知らされたシーレは、画題を「男と乙女」から「死と乙女」に変える。

 エーディトは妊娠6カ月、10月28日に死去。シーレも3日後の10月31日に死す。

<コメント>
 この映画では触れてないが、実はシーレにはサディスティックな面があったようで、
 映画「クリムト」によると。 女性に対する複雑な感情があり、もっと陰影ある人物だったのかもしれません。