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旅の余話
1999年~2001年に
旧HPに掲載した。日付は掲載日。
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11・28
2000年 7・29
2001年 貝殻(コキヤージュ)とは
9・11 11・3
1999年
4・2
98年暮れから99年初めにかけてイタリアに旅行して、
そのときに、はやりのデジカメを買った(今や旧型)。
その後、イタリア旅行中に撮った
300点の画像(残念ながら散失)を見ながら、
数点を加工ソフトで修正し、年賀状に使用してみたところ、
案外、普通紙の年賀状できれいに印刷でき、満足した。
印刷すると、写真というよりも
絵葉書によくある風景画といったほうが良いかも知れない。
デジカメで撮った画像が生きるのは、
印刷するか画像ビューアで楽しむか、
またはE-mailで相互に交換するか、
そして、ホームページに載せるか、ということ。
結局、自分の<ホームページを持とう>
という気分になった。
4月18日(日)にホームページを立ち上げた。
「まあ、記念すべき日かな」と思いつつ、
案外、さっぱりした気持ちになれた。
さっそく職場の身近な人に言い、アクセスを頼んだ。
早速アクセスしてくれたアクセス第1号が
塚本さんである。
9・26
香港の旅行を<お忍び>で行った。
香港は、国際金融都市であると同時に、
植民都市(海外から流れ込む人々)、
また、現地中国人からなる都市、
一言でいえば、「混沌とした都市」という印象で、
狭い地域 に人口が密集して雑居している。
香港市街は、日本でいえば、新宿・銀座の目抜き通りが
一面に広がっているようなもので、
その周囲に20階~30階以上の高層建築(ア パート)が、
文字通り、林立している。
10・3
イタリア旅行記の一部を写真貼付で公開した。
まだ、ミラノの部分だけだが、
自分でデジカメで撮った写真を貼り付けいるわけで、
紀行文だけの旅行記より、
何となく「webページらしくなったかな」と。
結局、私のホームページが続いている理由は、
「新諸国物語」と銘打った私の「海外旅行記」が
続いているということになる。
メインテーマが旅行なので、
何とかやりくりしてページ作りは続行される、
というようだ。
そのうち別のメインテーマを発見したいと思うのだが。
11・28
実をいうと、私自身は、イタリア旅行の際にデジカメを買って
「写真を撮るという気持ちになった」というだけで、
それ以前には<ほぼ全く>写真を撮る興味のなかった人間だった。
(よく言うように、「魂を抜かれる」と潜在的無意識が働いた?)
結局、私の同行者(妻)が撮ったものを利用せざるを得ない。
そこで利用しようと思った私の同行者の撮った写真は
「人物中心」であって、実際のところ
ホームページに利用する価値がない。
観光スポットを「ああ、ここがそうなのか」と
見るには邪魔なのは人物像だから。
同行者に「おまえのとるのは利用できないよ」というと、
「記念なんだからいいのよ」と意に介しない。
そういうわけで、ロシア・サンクトペテルブルグ紀行の
「ラスコーリニコフの下宿」の写真は
右半分の私の部分は削除して、
ホームページに掲載することになった。
これはまあ、もともと、この旅行当時には
「ホームページ作成」の企画を私自身になかったわけで、
同行者が「好きなように撮っていた」のだから致し方がない。
ただ、以前から、私は、同行者が
「妙に写真を撮ることに夢中」になっていて、
自分自身の目で景色・風景・景観を見ることを
忘れていると注意したことがある。
例えば、国内旅行で北海道に行き、
かの有名な「摩周湖」を見学したとき、
素晴らしい晴天の中で「深く静かな深青色」の摩周湖の湖面を
じっと見ていたい気分になっていた私の隣で、
カメラを構えて写真を撮る様子を見ると、
「自分の目で見るのが先だろ」と言わざるを得ない。
……という私も、
今年夏の中欧(東欧)旅行中に、
デジカメで撮っている私に対して、
添乗員の女性が「写真ばかりで……」という。
私は「ちゃんと目で見、耳で聞き、写真を撮っているよ」と
答えたのだが、今現在、「本当にそうなのか」と反省している。
カメラを持っていると、つい「撮らなくちゃ」という気持ちになるのは
仕方がないのだろうか。
2000年
1・8
とうとうミレニウム(Millennium)2000を迎えた。
例の「コンピュータ2000年誤作動問題」(Y2K)にもかかわらず、
私と妻はギリシア旅行に99年12月29日から
2000年1月7日まで出かけたのであった。
世間では2000年問題で大騒ぎをしていたが、
私は大したことあるまいと「たかをくくって」いて、
私の予想通り結果として大きな問題にはならなかった。
もちろん、古いコンピュータプログラムの中には
日付で動作する部分があり、
それを見逃すということは大いにあるだろうし、
各企業や官公庁のプログラミングの専門的技術者が
どんどん変わっているならば、
自分の分野・部署のプログラムをどのくらい理解しているか
分からないということもあるだろうから、
問題は皆無とはいえない。
それで何かあったとしても、
「水や食糧の備蓄を勧める宣伝」に至ると、
政府・官公庁の<お墨付きの便乗商法>と考えざるを得ない。
一般消費者の不安に乗じたこのような商法は
容認できないところだけれど、
「ミレニウムが同時に世紀末を表象する」という
無意識的な衝動が我々にあるということかも知れない。
旅行中に私の知らなかった出来事で重要なのは、
昨年12月31日の
ロシア・エリツィン大統領の辞任のニュースであった。
この日はギリシア・メテオラの修道院見学ということで
期待していたところ、日中はギリシアでは予想外の雪に見舞われ、
修道院は閉ざされてしまった。
夜は、翌日の夕方にはロードス島へ飛ぶ(2000年1月1日)という
不安をかかえながら、宿泊地のカランバカの宿で、
テレビでアテネ・アクロポリスのカウントダウンの中継を
見ながら過ごしたのであった。
というわけで、<エリツィン辞任>という
世界を駆けめぐったであろうニュースは知らず、
昨日(7日)帰ってから新聞を見て知った。
思い起こせば、98年夏、
私のロシア旅行中にロシアで金融不安が起こった。
(ロシア国内の米ドルとルーブルの交換停止)、
<注>詳しくは、私のロシア旅行記を参照、
それ以来、ロシアの経済危機は深刻であって、
エリツィンの権威は地に落ちていたようだ。
ロシアの偉大な改革者であったエリツィンの支配は
2000年を迎えずに終わった。
モスクワ・「赤の広場」のミレニウムを迎えようとしている
民衆の前で、拡大スクリーンのテレビ画面で辞任を発表する
エリツィンに対して、
人々はウラー(万歳)の叫び声で歓迎したという。
ともかく、
後の世代によってエリツィンの功罪は測られるであろうが、
89年から91年にかけての世界の激動を
(冷戦終結~ソ連邦崩壊)
注目していた私たちの世代にとっても、
きわめて印象深いこととなった。
7・29
私の旅行記に注目してくれる人には、
何とかしようと思いつつ、今回更新できたのは、
イタリア二部、フィレンツェ編の中途まで(-_-;)。
実は、この間に、5月半ばに人間ドッグに入ったとき、
手頃の読書のため買った文庫本
『ハンニバル』(トマス・ハリス著)に引きづられて、
フィレンツェの細部について私の記憶と著者の記述とを
ヤスリにかけていたりしていた。
ただ、この小説の舞台設定にある主人公の住むカッポーニ宮は、
残念ながら私の行かなかったアルノ川左岸にある。
また、サンタ・クローチェ教会にも行っていない。
主舞台の一つであるヴェッキオ宮殿の中の「百合の間」も見ていない。
というわけで、残念ながら「無いない尽くし」でもあるが、
今回はニャミスということ。
トマス・ハリスが『ハンニバル』を書くのが遅すぎた。
ところで、このトマス・ハリスは
寡作家で、前作『羊たちの沈黙』で一躍有名になったらしい。
映画『羊たちの沈黙』を見て、
私もすっかりジョディ・フォスターが気に入って、
原作も読んだ訳であった。
<人食いハンニバル>ハンニバル・レクター博士シリーズは
(アンソニー・ホプキンスの演じる)
前前作の『レッド・ドラゴン』から。
(ウイリアム・ブレイクの詩集をテーマとする)
第1作『ブラック・サンディー』もある。
(パレスチナゲリラの工作活動を描く)
というわけで、現在、都合4著作しか出版していない。
2001年
8・29
8月10日、成田を発って北スペインの旅に出発した。
この旅も掲載予定だが、
まだ、中欧旅行ドイツ編までしか掲載していない、。
またまた、エール・フランス機で、
機中、雑誌をめくっていたら、
「コキヤージュ」という記事をたまたま目にして、
その記事だけ切り取って、懐に収めた。
それというのも、
昨年暮れにエジプト旅行をした際に、
機中の雑誌のなかに、
アレクサンドリアの海中に埋もれた都市の記事があったので、
この雑誌を戦利品としてもらおうと思っていたら、
(もともと機中の雑誌類は乗客が欲しければくれるはず)
わが同行者(妻)がお節介にも、
「後でもあるでしょ、荷物になるから」と置いて来てしまった。
その後、<同じナンバーの雑誌>はなかった!。
そういうわけで、今回の<犯行>に及んだ次第。
この記事に目を留めたのは、
中欧旅行中、サンスーシの新宮殿で、
(フリードリヒ大王の夏の離宮)
「洞窟の間」を見ていたことから。
紀行文で私は、見所は、
貝殻細工の装飾を施した「洞窟の間」で、
フリードリヒが、おそらく、
陽光輝く地中海に想いを馳せて造形したのだろう。
貝殻のモザイクで海の生物を表現したものなど
見事な装飾になっている。
この宮殿はバロック様式で建てられている
と、記した。
この記事によれば、
やはり、ルネサンスの<洞窟趣味>に由来し、
(フランス語「グロット」、イタリア語「グロッタ」)
その後、17世紀のバロックで開花、
18世紀のロココ、ネオクラシックから、
19世紀のアールヌーボー、
今日まで受け継がれているという。
今日でも、ランブイエ城の裏庭にある
(フランス大統領の夏の離宮)
わらぶき屋根の四阿(あずまや)に
「貝殻サロン」があるという。
このサロンは、18世紀後期、
パンチエーヴル公爵が義理の娘ランパル大公妃のために
造らせたもので、
かのマリー・アントワネットがここを訪れ、
感動したという。
その後、ルイ16世が城を買い取り、
この四阿のそばに、マリー・アントワネットのために
酪農場を造り、この奥に砂岩の<人工洞窟>を建て、
貝殻サロンに対抗したという。
したがって、おそらく、フリードリヒは、
18世紀フランス文化の「コキヤージュ趣味」に倣って、
自分の「洞窟の間」を造ったのであろう。
貝殻(コキヤージュ)とは
貝殻(コキヤージュ)は、
私たちも年少の頃、海辺できれいな貝殻を拾いつつ、
海の彼方に想いを馳せた記憶があるのだが、
そうした淡い記憶とは違って、
洞窟趣味はグロテスク趣味でもあった。
(上記の、グロット、グロッタから派生)
ヨーロッパ的感性からすると、
貝殻には相反する二面性があるらしい。
記事によれば、
ヴァレリーは
「貝に内在する相反する二面性」を指摘している。
「堅い殻の内部にひそむ柔らかな流動性」、
「ザラザラした外側と表裏一体となった
内側のツルツルのエナメル質」、
「ゆるやかな曲線・曲面と鋭いエッジ感」、
「生命を失ってなお生き生きとした美しい死骸(殻)」
現代の代表的なデザイナー・デコレーターの
トマス・ブーグは、
これを「永遠と儚さが同時に存在する」と総括している。
かくして、ルネサンス以来、
貝殻のコラージュによる
「高貴なグロテスク」が追求されていたらしい。
そういえば、今回の旅行は、
北スペインを中心としたヨーロッパ中世の巡礼の旅、
ロマネスクとサンチャゴ・デ・コンポステーラへの巡礼であった。
サンチャゴ・デ・コンポステーラへの巡礼の目印となったのは、
「ホタテ貝」であった。
中世以来の巡礼者はホタテ貝を目印に身につけて、
聖ヤコブ(サンチャゴとは、サン・ヤコブの意味)の聖遺物が
発見されたサンチャゴ・デ・コンポステーラに向かったのであった。
海の産物が、
結構重要な役割を果たしていることが、今回印象に残っている。
なぜホタテ貝が巡礼の目印になったのかは、
いろいろ説があるらしいが、
私の解釈では、貝の姿から光の放射を象徴していると思う。
ロマネスクの教会建築の初期のものには、
中庭の回廊の柱頭などに、
空想上の生物(怪物)の装飾が多かったが、
「人魚」の装飾も少しあった。
当時、今と違って、人魚は海の魔物であったらしい。
ひょと思い出したのだが、
J・P・サルトルの戯曲のなかに、
未来への問いかけとして「貝」出ていたように思う。
今思い出すと、かつて私の読んだ印象では、
牡蠣(カキ)のようであったが、
上記のトマス・ブーグによると、
「人間には貝殻の好きな人と
嫌いな人の2種類しかいない。中間はあり得ない」という。
そうすると、ホタテ貝のような割合規則的な貝殻と、
カキの不規則・グロテスクな貝殻との対比。
ここにも、ヨーロッパ的感性が窺えるのではないだろうか。
9・11
この日、日本では、昼、
台風15号の都心直撃のニュース、テレビ報道がなされていた。
また、午後、
「成田エクスプレス」が運転再開したという
ニュースを受けて、旅行の同行者(妻)が喜んでいた。
実は、この日、わが同行者は、私を見捨てて、
単独旅行、豪華客船によるベニス~ギリシアの旅に
(スワロスキーの企画)
出発する予定であった。
午後9時頃、
成田から予定どおり出発するというTELを受け、
今後2週間の独身生活(数10年振り?)を満喫しようと
計画を練っていた矢先、
フッとテレビをつけるやいなや、
ニューヨーク国際貿易センタービルの映像が飛び込んできた。
このツインタワービルに突っ込む
飛行機の映像を繰り返し見ていると、
(第2撃の、サウスタワーに突っ込む映像)
やがて米国防総省(ペンタゴン)ビルにも飛行機が突っ込んだ、
他にも墜落した飛行機があるらしいという
テレビ情報に接していると、
ニューヨーク在勤の義弟からも国際電話で、
「ニューヨークのセンタービル、ペンタゴンもやられた」と
緊急情報が伝えられた。
テレビ映像が繰り返し伝える旅客機の
サウスタワー激突の様子を見て、
私は「神風特攻機」の敵艦船激突のイメージと
二重写しになった(ダブった)。
わが特攻機は
敵艦船の弾幕をかいくぐりながら的中するという<暗さ>
(もちろん多数は的中せず)
それに反して、今回の映像は何か「映画の特撮シーン」を
見ているような<明るさ>。
その後
ブッシュの「報復だ!戦争だ!」という発言には、、
どうやら、ブッシュ・マフィアがシナリオを作ったらしいが、
(側近の選対グループ)
チョット待てよ、と私は言いたい。
「報復」(リベンジ)より
「反撃」(カウンターアタック?)の方がよい。
また、国際テロに対する「ウォー(戦争)」というなら、
宣戦布告が必要。
(米国議会にこの決議案が諮られたらしいが、その後は?)
今回は、国際テロ(同時多発テロ)というよりも、
オサマ(ウサマ)・ビン・ラーディンを指導者とする(?)、
「複数か(あるいはアルカイーダか)のグループ」による
合衆国に対する「ゲリラ戦」と言った方が良いのでは。
報復なのか反撃なのか?、テロに対する戦争とは?。
ーーこうした瑣末なことも、なぜか私は気がかりになる。
11・3
ところで、ロシア旅行記を通して、
アメリカ在住のたかはしさんや、
ロシア旅行をきっかけとして画家となったという
Wagamamaようこさんとその娘さんなど、
新たな知己を得た。
他にも、イタリア旅行記ではメールを送ってくれた人など、
HPを介して世界が広がるという実感が分かります。
最近、地方的なこのHP(数少ない友人にしかURLを知らせていない)
にもアクセス件数が多くなり、
どんな人がアクセスしてくれているのかナァ~と
半ば期待・半ば不安という気分。
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