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パレスチナ・レポート
*掲載にあたって、
太字や改行などの編集をした。
「二つのインティファーダにみる
パレスチナの対立構造」
・・人文学科31期 梅澤 光代
1.はじめに
パレスチナ問題と聞いて
一般に思い浮かべるのは、
イスラム教徒対ユダヤ教徒の因縁の争い
ということではないだろうか。
だが実際はそうではない。
パレスチナで問題になっているのは、
つき詰めれば領土問題であり、
それをめぐっての争いが泥沼化して
今日のような紛争が起こっているのである。
その結果パレスチナ住民の生活に対する不満が募り、
一般市民を巻き込む争いが日常化しているのだ。
解決策を考えるには、
対立の構造を正しく理解することが重要だ。
私は、対立の構造を知る上で
重要な手がかりとなるのが
インティファーダ(民衆蜂起)であると考える。
というのは、インティファーダは、
長い間抑圧された生活を送ってきた
パレスチナ住民の不満が爆発したものであって、
宗教的、民族的な理由によるものではないからである。
1987年、2000年に起こった
2つのインティファーダを通して、
パレスチナにおける対立構造を明らかにしていきたい。
2.第一のインティファーダ
事の発端は1987年、
当時イスラエルの占領下にあったガザで、
イスラエル軍用トラックと
パレスチナ人を乗せた車とが正面衝突し、
乗っていたパレスチナ人4人が死亡したことであった。
それに対して怒りを爆発させたパレスチナ住民は
イスラエル側に投石活動を開始した。
これがインティファーダ、
別名「石の革命」といわれる所以である。
イスラエル当局は
当初すぐに鎮圧できるものと考えていた。
しかし予想に反して
インティファーダは各地に広がり、
その勢いを増していった。
イスラエル側の過剰な報復攻撃により、
最初の1年間だけで
パレスチナ人の死者は240人を超え、
またイスラエル側の犠牲者も、増加していった。
そのような中、
インティファーダは数年間勢力を衰えさせることなく
続いていったのである。
共に犠牲者を多数出しながらも
パレスチナ人が捨て身でイスラエル側に抵抗する。
そのエネルギーはどこから来ていたのだろうか。
それは第三次中東戦争により、
占領されて以来、20年以上、
イスラエルの占領下に置かれている
パレスチナ住民の怒りのエネルギーにほかならない。
収束までの数年間の内に犠牲者を多数出したものの、
インティファーダは
その後の中東和平の進展を大きく動かすものとなった。
それというのは、
第一に、イスラエルに占領政策の難しさを実感させ、
和平推進の考えに方向転換させるのに
大きな効果をもたらしたということである。
第二にPLO(パレスチナ解放機構)が
和平交渉を推進させる要因になったことである。
PLOとはパレスチナを
独立国家にすることを目的とした組織で、
インティファーダ以前は
軍事的にも政治的にもパレスチナにおいて
強いリーダーシップを執っていた。
しかしインティファーダはPLOとは関係なく、
民衆が、
言ってみれば「勝手に」起こしたものであった。
しかもそれはかつてないほどの注目を世界から集めた。
そのためPLOは自らの存在意義に危機感を覚え、
再びパレスチナ問題の中心者になろうと
和平交渉のテーブルにつくことを決心したのである。
以上二点から、
いかに民衆の怒りが力を持っているかが窺える。
無力とも思われる民衆の行動が
かくも多大な影響を及ぼした。
このような意味において、
第一のインティファーダは
非常に重要な役割を果たしたと言えるだろう。
その後、インティファーダは
1993年歴史的なオスロ合意を境に収束へ向かっていった。
インティファーダを収めるきっかけとなった
このオスロ合意とはいかなるものであったか、
次にみていきたい。
3.オスロ合意
1993年8月ノルウェーの首都オスロで
世界を驚嘆させる発表がなされた。
それはイスラエルとパレスチナの代表が
オスロでパレスチナ問題について秘密裏に交渉を進め、
それが成功したことを知らせるものであった。
交渉内容は主にイスラエル軍を占領地から撤退させ、
そこにパレスチナ人の自治区をつくるということで、
候補地となったのはガザ地区と
ヨルダン川西岸に位置するエリコだった。
14回にわたる交渉の末、
イスラエルは
これらの地域でパレスチナに暫定自治を認め、
イスラエル軍を撤退させるという案を示し、
パレスチナ側もこれを受け入れた。
そして1993年9月、舞台はアメリカに移され、
オスロ合意はホワイトハウス前庭で、
「暫定自治に関する原則宣言」として署名された。
ここでイスラエルのラビン首相と
PLOのアラファト議長が世界の注目の中、
歴史的な握手を交したのである。
この原則宣言は
その後のパレスチナ問題交渉の際に基礎となる
重要な合意文書である。
これに基づいて署名後、
具体的内容について交渉が始められた。
その結果、1994年5月、
「ガザ・エリコ先行自治実施協定」として署名された。
そして同月、
イスラエル軍の撤退と暫定自治が実行に移され、
合意通りに権限がパレスチナ側へと
移行していったのである。
またその後も交渉が進められ、
1995年には、パレスチナ自治区を
ガザ、エリコ以外にも拡大していくという
内容の「暫定自治拡大合意」(オスロⅡ合意)も
署名された。
この交渉以前は、
イスラエルの代表とパレスチナの代表が
顔を合わせて交渉することなどは
考えられなかった。
オスロ合意は
このように非常に意義深く、画期的なものであった。
インティファーダが
合意に向けての大きな原動力となったのは間違いなく、
またオスロ合意によってインティファーダは
収束に向かっていったのである。
4.アル・アクサのインティファーダ
(第二のインティファーダ)
2000年9月28日、
イスラエルのリクード党シャロン党首(当時)が
イスラム教の聖地、
神殿の丘(ハラム・アッシャリーフ)を訪れたことを
きっかけに、パレスチナの地は再び抵抗運動、
インティファーダの渦が沸き起こることとなる。
オスロ合意により収束したかに思われた
インティファーダであったが、
なぜ第二のインティファーダは起こってしまったのであろうか。
(アル・アクサのインティファーダ)
オスロ合意後の7年間、
パレスチナ人は自治を獲得し満足したようにみえるが
実際は占領時代と変わらない生活が続いていたのである。
ヨルダン川西岸のパレスチナ自治区は
西岸全体の40%しかなく、それもまとまっているのではなく
点在しているのである。
イスラエルは
これらパレスチナ自治区周辺をたびたび封鎖する。
封鎖というのはイスラエルが
イスラエルの入植地の道路を
パレスチナ人に使用させなかったり、
パレスチナ人居住区の入り口を
塞いだりするものである。
これが実施されると、
自治区は外界から完全に切り離され、
パレスチナ人は学校や会社はおろか、
病院すら行くことができなくなってしまうのだ。
また、雇用の大部分を占領時代の名残りで
イスラエルへの出稼ぎに依存しているパレスチナ経済は、
封鎖により大打撃を受けることになる。
さらにイスラエルの入植活動も収まることなく、
日々拡大を続けている。
それはパレスチナ人の住居が奪われ、
農地が取り上げられるということを意味している。
オスロ合意後の7年間、
合意内容は正しく実行されず、
パレスチナ住民の生活に対する不満は募る一方であった。
彼らの怒りは
その矛先を求め続けていたのかもしれない。
以上のような生活環境のなか、
現在のイスラエル首相で、
当時の右派最大政党リクード党
党首アリエル・シャロンが
イスラム教聖地
アル・アクサのドームのある神殿の丘を
訪問したのである。
しかもシャロンは1982年に行われた
レバノンのサブラ、シャティーラ両パレスチナ難民キャンプの
大量虐殺事件を指揮した人物として、
パレスチナ人に深い恨みを持たれている。
彼らにとっては挑発的とも思える行動に対し、
パレスチナ人の怒りは再び頂点に達したのである。
大規模な投石運動が開始された。
イスラエルの当時の首相バラクは
この投石運動を、過剰な武力の行使で対応した。
HDIP(健康・開発・情報・政策協会)の報告によると、
アル・アクサのインティファーダ発生(2000年9月28日)から
2001年1月5日までで、
パレスチナ人の死者は341名、
このうち89%が一般市民、41%がデモや衝突には不参加、
35%が18才以下であるという。
しかし、これらについて
イスラエル側は調査を行っておらず、
軍の免責と違法行為が容認されている
というのが現状である。
また、「集団懲罰」というパレスチナ人に対する
イスラエルの政策も注目しなければならない。
これは住民全体に罰を与えることで、
抵抗運動やテロ活動を押さえ込もうという性格をもつ政策だ。
前述した、経済に大打撃を与える「封鎖」もそのひとつである。
封鎖はインティファーダ発生後
頻繁に実施されるようになり、
これによって、
国連の定める貧困ライン(1日1ドル)以下の生活をしている人は、
封鎖が実施されてから4ヶ月で50%増加し、
100万人に達した(世界銀行の統計による)。
こうした政策が
更に憎悪を生み出すことは明らかであり、
本当にインティファーダを収めたいと考えるなら、
イスラエルは平和的な政策を
具体的かつ早急に示さなければなるまい。
しかもその政策は必ず実行されるという
保障がなされなければならない。
第二のインティファーダは
オスロ合意が正しく履行されず、
生活が一向に改善していかなかったために
発生したからである。
インティファーダは現在も続いており、
犠牲者は増加の一途をたどっている。
5.パレスチナの対立構造と
パレスチナ問題のこれから
以上見てきたように、
インティファーダは
不当な圧政を強いられる
パレスチナ人の権利回復のための闘争である。
パレスチナ問題は
イスラム対ユダヤという民族の対立ではない。
彼らが長い時をかけて培ってきた憎しみの根源は、
家族や友人をテロやその応酬で失ってきたことであって、
異なる民族だからではない。
パレスチナで問題になっているのは、
占領しているイスラエルと、
それにより抑圧された生活を強いられている
パレスチナ人との争いである。
事実、イスラエルが建国する前までは、
日常での小競り合いはあったものの、
彼らは共存していたのである。
しかし、イスラエル建国をきっかけに
周辺アラブ国家の領土をめぐる利害が表面化し、
当事者であるはずのパレスチナ人の存在は
忘れ去られてしまった。
そして不当な占領地政策に抵抗しようとすると、
今度は、
「民族の対立だから根が深すぎて解決は困難だ」、
「ただでさえ困難なのに
暴力に訴えては尚更難しくなってしまう」。
このような現状を理解しない論調で
国際世論の批判を受けてしまうのだ。
このような批判ももっともであるように聞こえるが、
単なる民族対立であるという捉え方することこそ
解決を遠ざけているのではないか。
パレスチナ人は
自分たちの土地で人間らしい生活ができない
イスラエルの政策に腹を立てているのであり、
ユダヤ民族に恨みを持っているから抵抗するのではない。
それが<民族対立>という構図に誤解されると、
本質が見えなくなってしまう。
インティファーダは日々死傷者を生み出すもので、
早急に解決を必要としている問題である。
対立構造を正しく捉え、
パレスチナ人が何を求めているのかを理解することが、
パレスチナ問題解決へ向けての第一歩ではないだろうか。
=== 了 ===
以下は、松任谷了(私)による資料。
<参考までに>
パレスチナ年表
レポートへの私の感想
以下に、私なりのパレスティナ問題の感想を書きます。
参考になれば良いのですが。
ア)歴史的に、ユダヤ教(徒)と
イスラム教(徒)との対立抗争があったのか?。
答え ほとんどない? したがって、宗教対立はない。
注)「十字軍」運動は、
キリスト教(徒)とイスラム教(徒)の対立抗争を引き起こし、
現在でもその記憶が、無意識にか意識的にか、
浮上する。
例の昨年9月の「同時多発テロ」で
米大統領ブッシュの「十字軍」発言。
アラブ諸国の反発を招いた。
イ)現在のパレスティナの対立は、
第2次大戦以降のことか?
答え イエス。 そう考えるしかない。
注)歴史的にヨーロッパのキリスト教圏では、
ユダヤ教徒への迫害が、またロマ人(ジプシー)へも、
各地で起こっている。
それを国家的・組織的に起こしたのが、
ヒトラー(ナチス)による「ホロコースト」であった。
他方、ユダヤ人側でも、「シオニズム」運動が盛んとなり、
パレスティナ帰還(ユダヤ国家建設)が目標となっていた。
ウ)第2次大戦後、
パレスティナへのユダヤ人大量移住。
パレスティナを統治していたイギリスの容認によって、
シオニズムを背景にユダヤ人の大量移住が始まり、
戦前のパレスティナにおける
ユダヤ人・アラブ人の混在状況が激変。
アラブ側の危機意識が高まり、
第1次中東戦争となった。
欧米の支援もあってユダヤ(イスラエル)が勝利。
パレスティナ難民(アラブ人)の大量発生、
それがパレスティナ問題の起源。
エ)1973年の第4次中東戦争以降、
アラブ各国の対イスラエル政策の結束がゆるみ、
パレスティナ問題は
当事者のPLOとパレスティナ難民の抵抗運動に
任されてしまった。
こうして、
PLO各派のうち
(アラファト議長の主流派と反主流派の対立を抱える)
主として反主流各派のゲリラ闘争が、
(ハイジャック事件など)
これ以後の対イスラエル抵抗闘争の主役となる。
日本赤軍の参加もあった。
オ)1993年のオスロ合意
イスラエルにとって
パレスティナ問題は同国の不安定要因。
ソ連崩壊後の旧ソ連各地から
ユダヤ人が大量帰還。
人口増による入植地(「キブツ」)増加の必要など
経済的変動もあって、国益を損なわない範囲で
「オスロ合意」がイスラエル側の和平派(ラビン首相、後、暗殺)
にとっても必要となった。
また、パレスティナ側でも、
自治政府成立から<パレスティナ国家>樹立への願望を
表現するものとなった。
カ)現在
右派リクード党の好戦的なシャロンの登場は、
イスラエル国内で強硬派や
(帰還したロシア系ユダヤ人なども含む)
経済的に恵まれない層の支持が
多数となったことによる。
また、シャロンは、
昨年の「同時多発テロ」以来の
米ブッシュ大統領の「テロ撲滅」宣言から
自己の政策の「正当性」(対テロ戦争)を引き出して、
全く自制することなく「ジェニン虐殺」を引き起こしている。
ほとんど国家としての基盤を持たない
パレスティナ自治政府への侵略・攻撃自体が
シャロン(イスラエル国家)の野蛮さを示している。
キ)対国家抵抗闘争について
国家・軍隊による侵略には
常に住民による抵抗闘争が起こる。
日本の中国侵略、ベトナム戦争など歴史が示している。
抵抗闘争には、
武装ゲリラによるゲリラ戦から
一般住民の抗議行動に至る諸段階がある。
それが、今日のパレスティナでは
PLO各派のゲリラ闘争から
住民のインティファーダに至る
抵抗闘争として示されている。
以上のように、
手元に資料も用意せずに書いたので
間違っていることがあるかもしれません。
それよりも、今私が一番疑問に思うのは、
現在のイスラエルの政策です。
何故なら、ヒトラー・ナチスによる民族絶滅の
「ホロコースト」を経験したユダヤ人が、
パレスティナ住民(難民)に対する「虐殺」という
蛮行を行っているからです。
最近の報道によっても、
住民に対する無差別銃撃・爆撃を行っていることは明らかです。
(おそらく、報道されない事件も多いでしょう)
これまで、イスラエル政府は、
もっと自制・抑制のとれた行動をしていたと思うのですが。
(もちろん、あなたの文章にあるように、
これまでさまざまな住民の被害が出ていたとしても)
シャロンは、ゲリラや自爆テロリストとの銃撃戦の際に、
<住民が巻き添え>になってしまった、というでしょう。
住民の抵抗闘争に対する
侵略的国家・軍隊の軍事行動では、
常にこうした合理化が行われます。
一般に、ゲリラと住民との区別がつかないのが実態。
何故なら、抵抗闘争は住民の闘争だからです。
(ゲリラは住民から出て、住民を基盤とする)
シャロンが侵略をやめない限り、
イスラエルが「オスロ合意」の和平に戻らない限り、
「住民虐殺」が続くのでしょうか。
未成年の少女が自爆テロを行う事態は、
パレスティナの危機を象徴しています。
米国がイスラエル寄りの政策を転換し、
シャロンに圧力をかけない限り、
パレスティナの平和は達成されないのでしょうか。
また、イスラエル国内でも、
侵略に抗議する若者たちの「徴兵拒否」や、
現役軍人・兵士の占領地での「軍務拒否」の運動が
起こりつつある、と報道されています。
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