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  敦煌・莫高窟の旅

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    美なる菩薩像  莫高窟と法隆寺  
    旅の印象


 敦煌の町のシンボルは<反弾琵琶>を弾く天女、
 莫高窟にはこうした天女・飛天が描かれている。
 頭の後ろに琵琶を持つ姿の立像が町の中心にもある。
 

 上の写真、大きすぎて上下・左右にスライドしなければならないけど、
 天女の顔の表情などよく分かるのでこのままに。

 「反弾琵琶」とは、上の画像のように。
 天女が背中に琵琶を負い、琵琶をつま弾く姿だが、
 まさに天女、人間業ではない。

 下
 莫高窟112窟の天女の舞が素晴らしい。

 


 次は敦煌の店で私が撮った写真。

 二枚目、額入りの同じ天女の舞



 敦煌といえば莫高窟
 ただ、残念ながら莫高窟では写真撮影禁止。
 一応、資料館でスライドを用いた解説を聴いたが、
 今や私の記憶は定かではない。

 「莫高窟」とは、
 鳴沙山の東の断崖にある600余りの洞窟の総称で、
 元代に至る約1千年2千4百余りの仏画・仏像があるという。

 この間、多様な民族・国家の栄枯盛衰があったにもかかわらず、
 仏教信仰は失われなかったことを莫高窟の存在が示している。
 私のような信仰なき者にとってもその尊さが分かった気になる。


 美なる菩薩像

 菩薩画・像といえば、
 45窟57窟の美しくふくよか(しかも艶めかしい)な菩薩たち。
 しかし、元来、菩薩とは仏陀となる以前の修行者で、男であったはず。
 やがて観音信仰が盛んになり、女性形になった。

 先ずは、45窟・57窟の<菩薩(美人)>たちを観なくては。

 @45窟の脇侍菩薩
 こちらは画像ではなく塑像で、釈迦如来の二脇侍菩薩の一人。
 いかにも、
 一人の美人が<艶めかしいポーズ>をとって立っている、という風情。

 


 また、次の<七尊像>の釈迦如来の
 左二番目にいる脇侍菩薩が、
 <上の美しい菩薩>。

 七尊像


 A57窟の観音菩薩
 阿弥陀仏の「樹下説法図」の脇侍、観音菩薩。
 <上まぶたや両頬にうっすらと紅をさす>という。
 そうでなくとも、思わず見とれてしまう美しさ。
 描かれた当時だったら、なおさら鮮明に。


 



 莫高窟と法隆寺

 法隆寺金堂壁画の復元に携わった平山郁夫画伯は、
 莫高窟の220窟に描かれた唐代の菩薩画を観て、
 そこに法隆寺壁画の菩薩を発見する。

 「指先の表現や、衣紋や瓔珞の色彩は、
  法隆寺壁画より小振りであるが、原型は同類である。」
  (『敦煌石窟』文化出版局)と。
 画伯の想いは、唐の長安から西の敦煌へ、
 東の奈良へと馳せる。


 「220窟壁画
 平山郁夫画伯によって莫高窟と法隆寺が繋がった画期的な壁画(部分)。

 


 さらに、
 西の莫高窟と東の法隆寺を結ぶ壁画がある。
 莫高窟332窟の「阿弥陀経変」と
 法隆寺金堂6号壁画「阿弥陀浄土図」。
 6号壁画は焼損前の模写の復元で、
 332窟壁画と比べると構図が良く似ているという。


 下、332窟阿弥陀経変

 


 下、法隆寺金堂6号壁画「阿弥陀浄土図

 


 莫高窟壁画は
 時代によって元絵に上塗りされているものがある。
 平山画伯の発見した220窟の壁画も
 宋代のものが剥落して、唐代のものが現れていた

 しかし、こうした剥落ではないのに、
 不謹慎にも壁画を剥ぎ取る人物もいた。
 これでは文字通り<追い剥ぎ>になってしまう。
 (莫高窟以外にも多々あるようだ)


 ところで、ネットで見つけた珍しい画像があった。
 おそらく元の時代の<密教窟
 (ラマ教を信仰していた)

 元代密教窟


 旅の印象

 この旅で印象深いのは、
 鳴沙山付近の観光地<月牙泉>で、
 私はラクダに揺られて気分は上々であったこと。

 駱駝に揺られて

 また、確か陽関では、
 観光客向けの楽団で<琴を弾く少女>に出会ったこと。

 

 さらに、嘉峪関では、
 アースマラソン中の間寛平さん一行と出会ったことや、

 嘉峪関で

 万里の長城の最西端の断崖の観光スポットで、
 眼下に急流を覗いたことなど。

 *ロシア革命の際、
  赤軍に追われた白軍兵士たちが洞窟内に住んだ跡が残っていて、
  そこあった壁画は彼らの焚き火の煤でくすんでいた
  ・・この話は、
  私の曖昧な記憶に残る<莫高窟発見の由来>を伝える話なのだが、
  本当かどうか確かめる手立ては?


 また、陽関では、
 詩人王維の石像と詩碑を見た。

 

 詩碑の漢詩を調べてみると、王維の漢詩「送元二使安西」。
 内容は、酒を酌み交わしながら、友人・元二を見送る、という。
 *漢詩を読める人は良いですね、私はダメ。

 漢詩 

 調べたところ以下。
 「渭城(いじょう)の朝雨 軽塵(けいじん)を?(うるお)す
  客舎(かくしゃ) 青青 柳色新たにす
  君に勧む 更に尽くせ一杯の酒
  西のかた 陽関を出づれば故人無からん」
 訳は以下
 「渭城の朝の雨が道の埃を落ち着かせ、
  旅館の柳も青々と生き返ったようだ
  さあ君、もう一杯やりたまえ。
  西方の陽関を出てしまえば
  もう酒を交わす友もいないだろう」


 私も敦煌を出て、東に、東京に帰ることにしよう。


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