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イタリア・ルネサンス
アルプスを越えた北方ルネサンスについては割愛した。
北方ルネサンス(イタリア・ルネサンスの影響下に広まった)は、
それ自体興味のある歴史的事象であり、
ちょうど宗教改革の時期と重なり、
エラスムスとルターや、ラブレーとカルヴァンの思想的対立、
また、ボルドー市長として新旧両派の闘争を実体験して
やがて隠棲するモンテーニュなど、
こうした宗教家・思想家群像と
宗教改革・反宗教改革の動向の複雑さについては
考察に値するものであるが。
<全般的に言って>
世界史の各時代の動きについてはなかなか理解しづらい。
例えば、簡単な例で言えば、
神聖ローマ皇帝(ドイツ)の「イタリア政策」について、
①皇帝はイタリア政策に熱心で、
ドイツ(地域的名称と取る)国内の統一はできていない。
また、イタリア(これも地域的名称)では、
ギベリン(皇帝派)とゲルフ(教皇派)の対立。
②15世紀末~16世紀半ばまでのイタリア戦争(1494~1544)
③フランク王国の分裂。
ヴェルダン条約、次いでメルセン条約による3分裂。
以上の記述から、
③の3分裂によりロタールが王位を継ぎ、
次いでメルセン条約でロタール領は
北イタリア(旧ロンバルド王国領)に限定されたこと、
やがて東フランクのオットー1世が
北イタリアを支配したことがわかり、
①の皇帝がイタリア政策に熱心であった理由は、
単に北イタリアの繁栄と富(ルネサンスを出現させた)を
ねらうばかりでなく、
宗主権を主張していたこと。
その結果、皇帝の保護を必要としなくなった教皇は、
ルネサンスの担い手となる富裕な商人・市民と提携し、
皇帝と対抗する。
これがゲルフとギベリンの党争である。
②のイタリア戦争(狭義には1521~44)は、
神聖ローマ皇帝に対抗して、
絶対王政を築きつつあったフランス・スペインが
イタリアに介入することによって、
*)当時の列強の勢力均衡・勝利を目的とした動き。
結果として、
北イタリア(イタリア・ルネッサンス)の衰退の原因の一つでもあった。
また、西欧列強ばかりでなく、
東方のオスマントルコの西欧進出の動向による
各国の政策への影響も無視できない。
イタリア・ルネサンス
14世紀以降の北イタリア諸都市で
ルネサンスが始まる原因として、
<第1に>、
東方との地中海貿易(レパント貿易)の独占による
巨額の利益とそこから生じる富の集積があげられる。
香辛料(特に胡椒)による利益というのは、
冷蔵庫のない時代の肉料理(肉食)に腐臭消しや防腐剤として
必要不可欠として使用された。
ただし、肉料理は、王侯貴族や富裕な市民層で一般的であって、
庶民や農民階層にも及んでいたというわけでない。
<第2に>、
当時の国際的状況について、
西アジアから北アフリカ、イベリア半島に及ぶイスラム圏の存在と
ビザンツ帝国の衰退とがあげられる。
特に、当時の文化的な先進地域としてのイスラム圏の文化や、
古代以来のギリシア・ローマ文化を継承していたビザンツ文化が、
イタリア・ルネサンスの人文主義運動に深い影響を与えたこと。
<第3に>、
当時の北イタリアが多くの都市共和国(国家)を
形成していたことがあげられる。
すでに12世紀には都市自治政府(コムーネ)が形成され、
また、13世紀には
神聖ローマ皇帝のイタリア政策に対抗する都市同盟の結成などによって
自治権を獲得して都市共和国が成立した。
これが14世紀には、
帝権と教権の衰退に乗じて
各都市では富豪や豪族が実権を得て、
専制君主(シニョリア)となる。
もちろんその代表がフィレンツェのメディチ家であり、
コシモやその孫のロレンツォが有名である。
また、ロレンツォは自ら詩人として
芸術家や文学者のパトロンとなって
ルネサンスの最盛期を演出する。
さらに、その子ジョヴァンニは教皇レオ10世として
サンピエトロ聖堂の建築に精力を注ぎ、
ラファエロやミケランジェロ(『最後の審判』)をつかう。
そして、この建築 費用を捻出するために、
ドイツで贖宥状販売を行わせたことが
ルターの宗教改革の誘因となった。
なお、各都市の独立性は、
ルネサンスというたぐいまれな文化運動を引き起こし、
*もちろん、教皇やシニョリアたちがパトロンとなった貴族的な文化。
個性豊かな芸術家や文学者・知識人の活躍の場を提供した。
しかし、同時に、各都市間の対立・抗争は、
やがて絶対王政を築いた列強(特にフランス)の介入を招き、
先に述べた、イタリア戦争によって北イタリアの荒廃と
ルネサンスの衰退を招くことになるのである。
その他、
一般に中世封建制社会は停滞した社会という評価が行われるが、
イタリア・ルネサンスの人文主義運動・文芸復興運動という視点からみれば、
「12世紀ルネサンス」も注目すべきものである。
古典古代のギリシア文化は、イスラム・ビザンツに継承され、
新たな発展を遂げていた。
特にイスラム圏では、組織的なアラビア語への翻訳が行われ、
数学や医学など科学的知識や哲学が蓄積されていたのである。
スペインのカタルーニャとトレド(当時イスラム圏)、
イタリアのシチリア島とヴェネツィアやピサで、
ギリシアやアラビアの文献をラテン語に翻訳し、
ヨーロッパの知識水準を高める役割を果たしていた。
こうした中世期の古典復興運動の延長線上に
イタリア・ルネサンスを位置づけることができる。
そして、哲学上では、
新プラトン主義の哲学の影響が重要である。
例えば、ボッティチェリの『ヴィーナス誕生』や『春』は、
ギリシア神話を題材としているが、
その思想は新プラトン主義の神秘主義思想であり、
ボッティチェリのパトロンであった
ピエル・フランチェスコ・デ・メディチは、
新プラトン主義者のマルシーリオ・フィチーノの弟子ともいわれる。
この間の事情については、
中世カトリック教会のスコラ哲学的神学に対する
アンチテーゼとして新プラトン主義の神秘主義思想が
魅力となっていたと思われる。
また、例えば、地動説以降の天文学者・科学者たちの思考にも
神秘主義的宇宙論が基礎にあり、
今日でいう実証的な科学者というイメージと違うことも
指摘することができる。
イタリアの各都市では、
今日もなおドゥオーモ(聖堂)が中心にあり、
多くの大きな寺院があって、
一般に公開されている(当然であるが、ミサも行われている)。
美術館等は有料であるが、これらのドゥオーモ・寺院は無料であって、
日本の有名寺院と違う。
日本とイタリアの宗教観の相違がこれだけを取っても分かる。
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