インド古代史



 1、インド亜大陸の地勢・地政
  プレート・テクトニクス理論によれば、
  インド亜大陸はユーラシアプレートに激突して
  ヒマラヤ山系などの世界の屋根をつくった(現在もつくっている)。
  この結果、地勢的なインド亜大陸の安定性も生じた。

  インド亜大陸の総面積は449平方キロで、日本の約12倍、
  ロシアを除くヨーロッパの面積にほぼ等しい。
  古代インドの歴史の中で亜大陸のほぼ全域(南端部を除く)を支配したのは
  マウリア朝だけであった。
  また、インド亜大陸は大きく南北に分けることができる。
  南北の境は、亜大陸の中央を東西に横切るヴィンディヤー山脈とナルマダー川で、
  ヴィンディヤー山脈の西側には
  マルーワー台地を南下しデカン方面や西海岸に向かう交通路が古くから通じていた。

  北インドでは、北方はヒンドゥークシュ山脈、カラコルム山脈、
  ヒマラヤ山脈という世界の屋根の山脈群に守られ、
  西はスレイマン山脈、東はアラカン山脈に限られたいる。
  この中で、インダス川流域は亜大陸の中で外部世界に開かれた地域であり、
  ここには、先史時代から、カイバル峠などの峠道を越えて
  中央アジアやイラン高原からさまざまな民族や文化がインドに流入し、
  逆にインドの文化が伝えられた。

  インド史の激動は、このインド北西部が起点となって起こっていることが、
  最も重要な歴史理解のための視点であることがわかる。

  他方、ガンジス川流域は、インダス川流域の外来民族の侵入という
  直接的な衝撃から守られていた。
  また、北方と東方の山岳地帯には峠道があり、
  チベット・中国・ミャンマーなどとの交渉が古くからあった。
  そして何よりも、この地域は、肥沃かつ天然資源に富む地域として、
  今日に継承された「インド的」文化が発達した。

  南インドは、地勢的に北インドに対して比較的安定しており、
  ここに興亡した諸国家は、北インドからそのつど新しい文化を受容し、
  独自の文化を発展させた。


 2、インドの多様性
  上記の地勢的特徴からもまた、インドの多様性が浮かび上がる。
  例として、現在の「インド共和国」の言語の多様性から理解することができる。

  現在、18の言語が公式に認められている。
  そして、多くの州が言語別に編成されていて、
  州境が変われば、言語が変わり文字もしばしば変わる。
  例えば、ドラヴィダ語系のタミル語を話すタミルナードゥ州のマドラスから、
  同じドラヴィダ系のカンナダ語を話すカルナータカ州に入ったとたん、
  言葉も文字も違ってしまう。
  同じドラヴィダ語系でも、方言の違いというよりも言語が違うということを理解する必要がある。

  インドの公用語とは国際語(ヘレニズム時代のギリシア語コイネーのように)という性格がある。
  皮肉なことに、インド全域では、知識階級を中心として通用するのは
  植民地時代の英語で、準公用語として認められている。

  北インド中部で話される「ヒンディー語」が最大人口(共和国全体の公用語)で、
  インド・アーリア系の言語が人口の約70%、ドラヴィダ系24%、
  モン・クメール及び同系統のオーストロアジア系の言語が
  山岳・丘陵地帯の少数部族によって、
  また、チベット・ビルマ系の言語が亜大陸の北と東北の辺境地帯で、話されている。
  この後者の両系統の言語を話す人々が、亜大陸に最も早く住んでいた民族の子孫といわれる。


 3、インダス文明の起源と滅亡
  プレ・ハラッパー文化の存在が知らるようになった。
  そして、都市文明が誕生するが、
  この文明はかなりの速度で周辺に波及し、
  各地に共通な特徴をもつ大小の都市を成立させたという。
  さらに、遺跡の分布は、東西1500キロ、南北1100キロに及び、
  同時代のエジプト・メソポタミア・黄河文明の及んだ範囲よりはるかに広い。

  こうした都市文明が、前1800年頃から衰退、のちに消滅したのだが、
  この消滅の原因について、他の文明地域と比較して大きな違いがある。

  他の文明では都市は継続し、幾多の変遷を経ながらも発展して行ったが、
  しかし、このインダス文明では都市そのものが消滅し、
  次にインド・アーリア人による都市の成立には1000年以上の空白期間ができた。
  消滅は大いなる謎になっている。

  消滅の原因についてはアーリア人の征服説があげられる。
  『リグ・ヴェーダ』の記述は、
  広く頑丈な「プル」に立てこもった先住民について述べている。
   *「プル(プラ)」はサンスクリット語で「町」・「都市」の意味)。
  しかしながら、都市文明の終末は前1700年より早い。
  したがってアーリア人の侵入と文明の終末との間に200年以上の開きがある。
  その他、大洪水が原因とか、気候の乾燥化と塩害などがあげられるが、
  決定的なものはない。

  一定の都市計画によって整然として作られたとみられるモヘンジョ・ダロ遺跡は、
  都市の西北部に城塞部と呼ばれる小高い丘があり、
  ここには大浴場、穀物倉庫、集会堂などの公共の建物が集中している。
  市街地には直角に交わる大小の道路があって、焼きレンガで舗装されている。
  また、一般の住宅は焼きレンガで造られ、浴室と給水・排水の施設を備え、
  排水は小路の排水溝を通って大通りの溝に流れ込むようになっている。
  同様に、ハラッパーの遺跡や他の都市遺跡にも共通な特徴があり、
  そこには、かなり高度に発展した技術段階がうかがわれる。
  オリエントでは日干しレンガが一般的であって、
  焼きレンガは特別な建築物に用いられたにすぎない。
  また、強力な王権の存在を象徴するような宮殿址が見られないのが、
  インダス文明の特徴である。  
   *焼きレンガ(たて4、よこ2、厚さ1の比率)
   *羊毛と木綿 「木からとれる羊毛」

 *消滅の原因の諸説
  地殻の隆起による大氾濫や主要な河川の流路変更。
  移住して新しい都市をつくらなかった。
  気候の乾燥化。
  大量の焼きレンガの製造のため大量の木材燃料、
  都市の排水施設の充実が、塩害(肥沃度の低下)と農業生産の減退。
  周期的な低気圧帯の移動による湿潤期と乾燥期の交替。過度の放牧や樹木伐採。
  排水溝は末端部で水を地中にしみこませるようになっている。


 4、インドという名称の起源
  アーリア人の「川」の意味で「シンドゥ」という語。
  この語がのち、かれらがインドで遭遇した大河(インダス川)と
  その土地を意味するようになった。
  *中国の「身毒」、ペルシャ語「ヒンドゥ」、
   ギリシャ語「インドス」「インディア」も
   「シンドゥ」を訛ったものである。
  中国・玄奘三蔵は、
  インドという名称の起源を
  サンスクリット語の「月」を意味する「インドゥ」にあるとするが、
  古代インド人は、亜大陸を一つのまとまった世界と見ていた。
  その呼称の一つが「バーラタヴァルシャ」(バラタ族の地)で、
  この略語「バーラト」がインド共和国の正式国名となっている。

  イラン高原東端とインダス平原の境界にあるメヘルガル遺跡の調査から、
  一つの仮説として、
  イラン高原で金石併用文化を発達させた人々が何らかの事情で
  インダス平原に移住し、都市文明を誕生させた。
  そして、かなりの速度で周辺に波及し、
  各地に共通な特徴をもつ大小の都市を成立させた、という。

  南インドについては。
  古代では「南の道」を意味する「ダクシナーパタ」と呼ばれ、
  「デカン」という地名はこの呼称を起源としている。
  また、南インドをさらに分けると、デカン高原を中心とする北と、
  クリシュナー川とその支流トゥンガバドラー川に南に広がる南端部に分けられる。
  さらに、亜大陸の東西海岸線はそこに点在する良港を通じて、
  古来から海上貿易も盛んであったことが知られている。