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ローマ帝国史
帝政時代に入ったローマは
およそ以下の時期に分けられる。
1,アウグストスによる元首政の開始
2,「ローマの平和」
3,軍人皇帝時代
4,専制君主政の成立
5、帝国の分裂と西ローマの滅亡
1,アウグストスによる元首政の開始
アントニウスとクレオパトラ7世を
アクティウムの海戦で滅ぼしたオクタヴィアヌスは
元老院からアウグストゥス(尊厳者)の称号をうけた(前27年)。
彼は共和政の形式を尊重し,
プリンケプス(第一の市民)として政治をおこなうが,
事実上の独裁権力をにぎったため,これ以後を帝政時代という。
彼はまた元老院から属州の半数の統治権を認められ、
*)半数は元老院による
護民官職権、コンスル命令権も付与され、
最高軍司令官の地位と最高神官職等も保持した。
このように彼は共和政の形式のまま
権力を自己に集中させたのである。
2,ローマの平和(パックス・ロマーナ)
アウグストスから五賢帝時代まで,
*)5人の皇帝とは、ネルヴァ、トラヤヌス、ハドリアヌス、
アントニヌス=ピウス、
マルクス=アウレリウス=アントニヌスの5人
約2世紀のあいだ,ときにはネロのような暴君もでたが,
帝国は一般に平和で,最盛期をむかえた。
*)この間,トラヤヌス帝のとき,ローマの領土は最大となった。
また、シリア・エジプトをおさえた結果、
東方貿易も活発で,アジアの香辛料・絹などがもたらされた。
また、ローマの市民権も属州に拡大され,
3世紀初めのカラカラ帝のとき,帝国全土の自由民にあたえられた。
しかしながら、全土の自由民にローマ市民権が付与されたことは、
ローマ社会の構造的な変質を進行させることになった。
3,軍人皇帝時代
五賢帝最後のマルクス=アウレリウス=アントニヌス帝の治世の末ころから,
帝位をめぐる争いから、約100年間にわたる、軍人皇帝時代が続く。
最初の軍人皇帝、セヴェルス帝は
近衛軍団を地方出身の希望者で再編成、軍隊の傭兵化が進行し、
かくして、
アウグストス以来の「市民の職業的戦士による常備軍」の制度が崩壊した。
近衛軍団は、従来からの形式的な皇帝推戴権をもって、
給与を高く支払う人物を帝位につけては交代させるなど、
50年間に26人の皇帝が廃位され、
そのうち2人のみが自然死という有様となった。
4,専制君主政の成立
3世紀末になって、
軍人皇帝の一人であったディオクレティアヌス帝が混乱を収拾し,
皇帝崇拝を強化してオリエント風の専制支配をおこなう。
これ以後を専制君主政時代というが、
ディオクレティアヌスは、自らを「ドミヌスにして神」と称した。
ドミヌスとは元来「奴隷の持主」「奴隷主」を指すが、
アウグストスは自由な「市民の第一人者」(プリンケプス)として
この呼称を禁止していたのであって、
もはやそうした余裕がなく、それだけ帝国支配の困難さがうかがわれる。
ディオクレティアヌスはまた、
帝国を4分して,2人の正帝と2人の副帝によっておさめる策をとり、
自らは東方の正帝として小アジア・シリア・エジプト・リビアを統治し、
都を小アジアのニコメディアに移した。
これは、統治の重心が東方に移動し、
軍人皇帝時代からの帝国内の分立化傾向に対処するものであった。
ついでコンスタンティヌス帝は帝国統一の必要から,
従来の皇帝たちが敵視していたキリスト教を公認(ミラノ勅令)し,
ビザンティウムをコンスタンティノープルと改称して都とした。
東方のササン朝と対抗する軍事的必要とともに、
ローマの元老院の影響力を避ける必要もあった。
彼はまた、オリエント風の巨大な官僚制度を確立して帝国を支配し,
兵士・職人・農民の職業を固定化、人民の職業選択の自由を制限しようとした。
かくして、古代末期のローマ社会は
次第にオリエント社会に似たものに変化していった。
5、帝国の分裂と西ローマの滅亡
395年テオドシウス帝は,
ついに帝国を東西に分割して2子にわけあたえた。
そのうち東ローマ(ビザンツ帝国)は以後1000年あまり続いたが,
ゲルマン民族の移動の波の中で、西ローマは 476年に滅亡した。
西ローマの滅亡により,
古代ローマ帝国と古代社会の終焉を迎えるが、
ここには様々な要因があげられる。
①すでに北方からゲルマン民族が次第に領内に移動・侵入していたが,
本土のイタリアはこのころまったく兵をださず,
国境を守備する属州の軍隊に多数のゲルマン人傭兵が採用されていて、
ゲルマン人を阻止する体制にはなかった。
②これら多数の軍隊と役人に要する費用をえるため,
歴代の皇帝は都市に重税をかけたので都市が没落し、
都市の衰退や政府の貨幣改悪などによって商業もふるわなくなり,
都市中心の経済や文化もおとろえた。
③また都市を去って地方に移った有力者の大所領が
帝国の行政からしだいに独立するようになって,
中央政府の支配力が弱まった。
④大所領の内部でも重大な変化がおこった。
帝政中期以後,大規模な奴隷制経営による商品生産にかわって,
隷属的な小作人(コロヌス)から地代をとって
自給自足的な「小作制」(コロナートゥス)が普及し,
これが中世の農奴制の先駆となった。
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