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    日本仏教



 1)聖徳太子以降
 2)平安後期の浄土思想
 3)鎌倉仏教
  A)浄土系
  B)禅宗系
  C)法華系



 1)聖徳太子以降
  古代の日本人は、「八百万神」といわれるほど多くの神々を信仰したが、
  やがて神々の系譜がまとめられる。
  それが『古事記』『日本書紀』の世界である。
  そこでは、理想的な心を「清き明き心」、
  すなわち誠実な心とし、ツミやケガレをおそれ、
  それらを清めるために禊、祓いを行った。

  日本に伝えられた仏教は大乗仏教であり、
  百済から伝来したという。
  この時期に仏教に深い理解を示したのは聖徳太子である。
  日本への仏教の伝来、やがて聖徳太子の信仰へ至る過程については、
  伝承が多く歴史的事実を明確にすることはできないのだが。

  聖徳太子は、十七条憲法で「篤く三宝を敬へ」と述べて
  彼の仏教信仰を表明した。
  また、「世間虚仮、唯仏是真」という彼の遺言とされる言葉は、
  日本人が人生について語った最も古い言葉ともいわれる。
  また、聖徳太子の言説に見られるように、
  日本での仏教理解が高まっていることが分かる。
   *)ただし、その背景には、蘇我氏を中心とした崇仏派と
    物部氏などの排仏派の対立による権力闘争で、
    新興の蘇我氏勢力の勝利があったことも見逃せない。


  その後、奈良時代になると中国仏教が直接伝えられ、
  南都六宗が成立した。
  大乗・小乗の区別なく中国仏教経由で仏教理論を受容した。
  「倶舎」・「成実」、薬師寺の「唯識」、
  さらに東大寺の「華厳」など。
  例えば、奈良の大仏は『華厳経』で説かれる「毘盧舎那仏」である。
  また、律宗は苦難の旅を経て来日した中国僧鑑真で知られる。

  さらに、聖武天皇による「大仏開眼」供養や、
  全国に国分寺・国分尼寺の建設、
  これらは「鎮護国家」のために仏教を活用した、
   *)天皇家を中心とする貴族一門の仏教への期待。
  こうして、奈良時代に至り、日本は仏教国家体制を確立した。


  平安時代になると、最澄と空海とが時を同じくして入唐し、
  それぞれ新しい仏教思想を日本に伝えた。
  最澄は、中国の天台宗を学び、比叡山・延暦寺を建立、
  延暦寺は平安以降も日本の仏教諸学兼修の道場となった。
  最澄は、『法華経』を中心として、
  「一切衆生悉有仏性」という大乗仏教の重要な思想、
  すなわちすべての生きとし生けるものは
  ことごとく仏になりうるという思想を説いた。

  また、空海は、真言宗を開き,高野山に金剛峰寺を建立した。
  彼が学んだ密教は中国に伝わった中期密教であった。

  桓武天皇の平安京遷都は、
  新たな仏教宗派として
  最澄の天台・空海の真言を成立させたが、
  しかし、天台・真言の新仏教も
  「鎮護国家」を主要な役割とさせられる以上、
  仏教の革新とはならなかった。



 2)平安後期の浄土思想
  すでに奈良時代に伝えられていた浄土思想は、
  西方浄土の阿弥陀仏の本願(「一切衆生救済」)を信じて
  「名号」(南無阿弥陀仏)を唱えることによる。

  平安時代になると、浄土思想は、末法思想とともに一般化した。
  争乱や災害、飢饉などを背景に日本では末法思想が広まり、
  永承7年には末法の第一年を迎えると信じられ、
  浄土信仰が強まった。
  また、「六道輪廻」が説かれ、現世の業(カルマ)の結果によって
  来世には再び、天・人・阿修羅・畜生・餓鬼・地獄の
  いずれかの道に転生しなければならないとされた。
   *)天人でさえ転生する(天人五衰)という。
  特に末法の世では、
  輪廻の無限の循環からの解放(解脱)もないとすれば、
  ひたすら浄土への往生を願うことになった。

  末法思想とは、末法の世では「教行証」のうち
  「教」のみがわずかに残るが、やがて最後に「法滅」となる、という。
  キリスト教にいう「ハルマゲドン」と通底している。
  末法の世でいかに救済があるのか、
  これに答えるのが浄土思想であって、
  京都・宇治平等院の建築で知られる摂関家の藤原頼通に見られるように、
  当時の貴族たちが競って浄土教に帰依した。

  源信のあらわした『往生要集』では、地獄と極楽、
  特に地獄の様相をこと細かに記して
  『厭離穢土、欣求浄土』というスローガンを広め、
  浄土信仰をいっそう盛んとした。
  さらに、念仏聖の空也などを通して、
  やがて浄土思想が民衆へ教化されるようになる。

  浄土信仰では、
  一般に西方にあるという阿弥陀仏の極楽浄土を指すが、
  日本では
  南方の「観音菩薩」の補陀洛浄土への信仰も行われていた。
  南方の海の彼方にあるという補陀洛浄土への道行きを
  「補陀洛渡海」という。



 3)鎌倉仏教 
  民衆教化により普及していった鎌倉新仏教では、
  難行によらない、
  人々の信仰を第一とした易行による教化が行われた。

 A)浄土系
  平安から鎌倉への社会変動の時期、
  兵乱や疫病・飢饉による社会不安のなかで
  「厭離 穢土・欣求浄土」が身近に感じられていたであろう。
  
  浄土系の経典には、阿弥陀仏は「法蔵菩薩」の時、
  48の本願を立てて
  この本願が実現して仏陀となったと記している。
  48願中の第18願は<南無阿弥陀仏>と、
  阿弥陀の名を称える者は往生できるというものであった。

  法然は『選択本願念仏集』を著し、
  仏教を聖道門(難行道)と浄土門(易行道)に分け、
  末法の世の救済を浄土易行門として、
  18願を称える専修念仏を主唱した。
   *)口称念仏ともいう。

  これに対し、旧仏教界からの法然の浄土思想への批判は、
  1186年の「大原(勝林院の)問答」、
  1204年叡山衆徒による強訴、
  07年「念仏停止令」(承元の法難)が発せられた。

  親鸞は、比叡山・横川の「常行三昧堂」で
  不断念仏を行う堂僧であった。
  彼は叡山を出て法然の弟子となった。

  親鸞は、京都・六角堂への百日参籠を行い、
  その95日目に、聖徳太子の示現
  「行者宿報ニテ設ヒ女犯ストモ 
   我玉女ノ身ト成リテ犯セラレム。...」 を受け、
  いっそう法然の教えへの確信を深めた。

  その後、「承元の法難」で越後に流罪となった彼は、
  やがて関東で布教を行う。
  「煩悩具足の凡夫」、「非僧非俗」という独自の立脚点から、
  日本思想史上独異な「悪人正機」説、
  すなわち「絶対他力」の思想に到達する。
  彼の自力救済の徹底的な否定は、
  西欧宗教改革運動のカルヴァンの「予定説」(神の絶対意志による救済)と
  相似的であるが、彼らは全く正反対の視点から
  絶対他力の思想に到達したことが分かる。

  遊行僧・一遍の時宗は、「臨命終時」の経句によって、
  今このときを常に臨終の時と心得て念仏することを教える。
  そしてまた、「踊り念仏」といい、御札(「南無阿弥陀仏」の札)配りといい、
  きわめて民衆的・土俗的あるいは神秘主義的な思想を展開した。


 B)禅宗系
  また、中国(宋)で当時盛んだった禅宗は、
  「不立文字」と坐禅を根本とし、
  栄西は臨済禅を伝え、道元は曹洞禅を伝えた。

  栄西の導入した臨済禅は、「公案」を重視する。
  いわゆる禅問答とはこの公案を指すが、
  これは師弟相伝の系統における極意の伝授形式から派生した。

  曹洞宗の道元は、
  「不立文字」の禅宗における座禅を表して「只管打座」といい、
  そこから「修証一如」という。
  彼によれば、ひたすら座禅をすることにより
  一切の執着を離れた境地(身心脱落)に達する。
  座禅は悟りのための手段ではなく、
  座禅(修)そのものが悟り(証)の姿であるとして、「修証一如」という。


 C)法華系
  比叡山・延暦寺は最澄以来の天台宗の総本山であり、
  同時にまた、平安以来日本仏教学の中心であって、
  鎌倉仏教の創始者たちはおおむねここで学んでいる。

  日蓮は、天台教学の中心、『法華経』を第一と信奉し
  自ら「法華経の行者」と称する。
  しかし、末法思想の影響のもとで彼は、
  「南無妙法蓮華経」の七字題目に『法華経』の真意、
  仏教の真理が凝縮されているので、
  七字の「唱題」で良いとした。
 
  こうして、鎌倉仏教の創始者たちは、
  法然のいう「易行道」に類似する方法を採用し、
  武士や民衆にも理解しやすい形で自己の思想を述べ、
  仏教を真の意味で日本に定着させることになった。




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