トップ

   ハイデガー
     ・・メスキルヒの小さな魔術師
       マルティン・ハイデガー(Martin Heidegger)
       1889年9月26日~1976年5月26日

     ページ内リンク
       存在と時間以後  風貌  愛人ハンナ・アーレント



 生涯と著作
 1889年9月26日
 南ドイツのバーデン州メスキルヒで生まれる。
  *)4月26日、ウィトゲンシュタインがオーストリアの首都ウィーンで生。
    4月20日、ヒトラーがオーストリア北部のブラウナウで生。
    4月16日、ロンドンでチャップリンが生。

 カトリックの両親
  父フリードリッヒはイエズス会の聖マルティン教会の寺男で桶作りの親方
  母ヨハンナ
 彼は子供のときから将来は聖職者になることに決められていた
  *)教育費の一部を教会から出してもらえる。

 1907年夏
 17歳、コンスタンツのギムナジウムから転校し、フライブルクのギムナジウム
  *)ギムナジウム :8年制で日本の中学高校にあたる。
 フライブルクのギムナジウムで、アリストテレス『形而上学』と出会う。
  *)ブレンターノの学位論文
   『アリストテレスによる存在者の多様な意義について』(1826年)を読み、
   アリストテレスの「存在者は多様に語られる」という言葉を電光として受け取る。

 09年冬学期
 20歳、ギムナジウム卒業後、
 フライブルク(アルベルト・ルートヴィッヒ)大学神学部に入学、
 カトリック神学とともに、フッサールの『論理学研究』を読み始める。
  *)フッサール現象学はブレンターノから影響を受けて成立。
  *)フライブルク大学は西南ドイツ学派(バーデン学派)
   フライブルク大学のリッケルトと、
   ハイデルベルク大学のヴィンデルバンドによる新カント学派の中心。
    また、新カント学派ではマールブルク大学学派の
    コーヘン、ナトルプ、カッシラーと並び立つ。

 11年
 神学部から哲学部へ。
 神経症的危機、喘息と心臓の不調による健康悪化、
 とともに神学を断念し哲学か数学の研究を望む。
  *)教会の援助の打ち切りとなるが。
  *)フッサールのいるゲッティンゲン大学には、経済的理由から行けない。

 13年 
 学位論文『心理学主義の判断論ーー論理学への批判的・積極的寄与』

 15年 
 教授資格論文『ドゥンス・スコトゥスの範疇論と意義論』
 フライブルク大学の私講師になる。
  *)最初の講義、「古代哲学とスコラ哲学の基本」(15~16年冬学期)
   ピタゴラスからアリストテレスに至るギリシア哲学講義。
 
 *14年 第1次大戦勃発

 16年
 フッサールが、リッケルトの後任としてフライブルク大学に来る。
 17年 
 ハイデガー、エルフリーデ・ペトリと結婚。
  *)マルガレーテという女性との短期日の婚約と解消後)。
  *)エルフリーデ・ペトリは、フライブルク大学の国民経済学の学生、
   福音ルター派のプロイセン軍人家庭の生まれ、
   20年代には反ユダヤ主義の熱狂的なナチス党員。
 ハイデガーはこの妻に志を同じくする伴侶を見いだしていた。

 *10月 ロシア革命 

 18年 
 ハイデガー、カトリック教会を離脱
 エルフリーデが最初の子供の誕生日を控えて、
 フライブルク大司教で彼らの結婚式を司った旧友、
 エンゲルベルト・クレープスに、
 彼らの良心に照らして、
 カトリック教会で子供に洗礼を受けさせることはできないと告げる。
 (ハイデガーの意向を代理)

 *11月、ドイツ降伏、第1次大戦終了

 19年1月
 ハイデガーは、フッサールの提案で、彼の第一哲学研究室の助手となる。
 フッサールとハイデガーの蜜月時代。
 「現象学、それは私とハイデガーだ」

 22年
 ハイデガー、マールブルク大学の員外教授となる(翌年、正教授)。
 妻エルフリーデが彼のためにフライブルク近郊の
 トートナウベルグの田舎に「木造の別荘小屋」を建てる。
 この別荘でハイデガーは、自然の中思索と著述に励む。

 23年
 ハイデガー、マールブルク大学の教授となる。
 ハイデガー自らの証言他、『存在と時間』の草稿が書かれていた。
 『アリストテレスの現象学的解釈ーー解釈学的状況の提示』

 24年
 ハンナ・アーレントとの出会い

 26年4月
 『存在と時間』印刷開始

 大幅な書き換え
  当初544ページ。6月末まで順調、
  だが、夏学期半ばで印刷を停止させ、書き換えを行う。
  その結果、分量800ページで400ページに分ける。
  さらに、第1部3編は不十分として出版断念。

 夏学期講義「古代哲学の根本概念」
  プラトンの『テアイテトス』、『国家』を主題的に論じる。

 27年4月
 『存在と時間』刊行。
  フッサール創刊の『哲学および現象学研究のための年報』第8巻に発表。
  フッサールへの献辞「エトムント・フッサールに捧ぐ
   尊敬と友情をこめて 
   バーデン州シュヴァルツバルトのトートナウベルクにて 1926年4月8日」
   *)4月8日はフッサールの誕生日
   *)ナチス政権下の42年第5版で削除。
  最初の構想では、2部構成で、それぞれ3編からなる。
  だが、刊行されたのは、第1部の2編までで、未完成。

 28年
 ハイデガー、フッサールの後任としてフライブルク大学教授就任。
 就任講演『形而上学とは何か』(29年7月24日)
  *)ウィトゲンシュタイン、
  「ハイデガーが存在と不安によって考えていることを、
   私は十分思い描くことができる」
  *)フッサールは、就任講演を聞き、
  ハイデガーとの決定的・本質的な違いを認め、
  のち、ハイデガーが現象学的還元を理解せず、
  人間学主義へと現象学を転倒させてしまったと批判する。

 *33年1月
 ヒトラー、首相就任。2月、国会放火事件。3月、「全権委任法」成立。
  *)ヒトラーは憲法にも国家にもとらわれず自由に支配。

 33年4月21日
 ハイデガー、フライブルク大学学長就任。
 5月1日
 ハイデガーは、ナチスに入党。
 党員番号3125894(バーデン地区)
 (45年5月ナチス壊滅まで党費を納入)

 5月27日
 学長就任演説『ドイツ大学の自己主張』
  「もしわれわれの最も固有な現存在自身が
   偉大な変容の前に立っているとすれば、
   もし情熱的に神を求めた最後のドイツの哲学者、
   フリードリッヒ・ニーチェが語った『神は死んだ』が
   真であるとすれば、
   もしわれわれが今日の人間が存在者のただ中に
   見棄てられていることに真剣にならねばならないとしたら、
   学はいかなる状態にあるのか」

 8月
 ハンナ・アーレントはドイツを去る(亡命)。

 34年2月(4月24日?)
 ハイデガー、学長辞任。

 *6月30日 レーム事件(突撃隊幹部の一掃、「血の粛清」)

 夏学期講義「論理学」 
 冬学期講義「ヘルダーリン」(最初)

 35年
 夏学期講義「形而上学入門」
 36年 
 冬学期講義「ニーチェ第1講義」(36~37年)
  『アンチクリスト』19番
  「ほとんど2千年が経っているが、
   新しい神が一人も現れていない」

 37年
 夏学期講義「ニーチェ第2講義」
  『善悪の彼岸』150番
  「英雄のまわりではすべてが悲劇となり、
   半神のまわりではすべてがサチゥロス劇となる。
   そして神のまわりではすべてはーーどうなるのか。
   おそらく『世界』となるのだろうか」

 38年
 講演『世界像の時代』 
 39年
 夏学期講義「ニーチェ第3講義」

 *45年5月 ドイツ降伏 
 ハイデガーは教職追放(~50年)


 76年5月26日
 死去
 数日前に最終校訂版全集のための標語
 「道であって作品ではない」



 ハイデガーの風貌

 「メスキルヒの小さな魔術師」(学生たちのあだ名)
 カール・レーヴィットの回想
  ハイデガーの風貌、服装、講義のスタイル、
  それらすべてが独特無比の雰囲気を醸し出していた。
  「ハイデガーの顔を描写するのはどうも難しい。
   というのも、彼は目を見開いて長い間相手の顔を見ることは
   決してできなかったからだ。
   彼の自然な表情というと、
   いつも思考を働かせている額、
   奥の窺い知れない顔、
   伏せた眼、その眼は時折ほんの一瞬視線を上げて
   その場の様子を確かめるだけだった。

   会話中、相手をまっすぐ見ざるを得ないときには、
   表情が閉ざされて不確かになった。
   ほかの人たちとの付き合いで率直になれなかったのである。

   それよりも彼にとって自然なのは、用心深い、
   農民のように抜け目のない不信の表情だった。」

  つね日頃の彼の服装は、膝下で絞った緩やか半ズボン、
  シュヴァルツヴァルト農民の着るに似た、
  幅広の折り返しと軍服風の立ち襟の上着、
  どちらも焦げ茶色の布でできていた。
  「布の褐色は、彼の漆黒の髪と、色黒の顔によく似合っていた。
   かれは魔法をかけるすべを知っている小柄な色黒の男だった。
   ・・・彼の講義の技法はというと、
   まず一つの複雑な思考構造物を築き上げる。
   そうしてから自分でそれをまた解体して、
   固唾をのむ聴き手たちを謎の前に立たせたまま、
   空っぽのところに置き去りにしてしまう。
   この魔法の術はきわめて由々しい結果を伴うことがあった。
   それは多かれ少なかれ精神病質を持つような人たちを惹きつけたのだ。
   ある女子学生などは3年の間、謎を解こうと苦しんだあげくに、
   自殺してしまった。」

  ハイデガーは、男女の学生をともに惹きつける自分の魅力も、
  彼らの精神を支配する自分の力を自覚していて、
  意図的にみんなから距離を保ち、
  神秘的な雰囲気と後光と畏怖感を強めていた。

 ハンナ・アーレント
 (1948年、第2次大戦後ハイデガーと再会以前の言葉)
  ハイデガーは「可能とあればいつでも、どこでも嘘の言える、
   名うての嘘つきだ。」、あるいは「狐」。



 愛人ハンナ・アーレント

 出会い、1924年秋、
 ハンナ・アーレント18歳、マールブルク大学に入学し、ハイデガーの授業に出る。
 ハンナとの出会いのとき、ハイデガーは35歳(すでに結婚し二人の息子)、
 『存在と時間』の原稿の仕上げにかかっていた。

 教室でハンナを見初めたハイデガーは、
 2ヶ月後、話があるからと彼女を彼の大学の部屋に呼ぶ。
 農民の出で田舎育ちのハイデガーにとって、
 ハンナはそのエキゾチックな風貌と、開放的な性質、
 洗練された立ち居振る舞いに心惹かれ、
 ユダヤ人のコスモポリタン的な環境の生んだ彼女が、
 彼の妻や母のような身近なゲルマン的女性とは著しき対照をなしていた。

 ハンナは、ハイデガーのなかに恋人、友、教師、そして庇護者を見いだした。
 25年2月10日付け、ハイデガーからハンナへの初めての手紙、
 4日後第2の手紙、
 その2週間後、彼らの肉体関係を示すハイデガーの手紙。

 以後、1年間の人目を忍ぶ逢瀬。
 ハイデガーからのみ手紙でハンナを呼び出す関係。
 ハイデガーの多くの暗号めいた連絡メモ。
  *)電灯のスイッチを点滅する手の込んだ信号など。

 26年1月、ハイデガー、
 ハンナをマールブルク大学から遠ざける。 
  *)ハイデガーの手紙は、彼の地位を危うくする危険を減らすため
    マールブルクを離れるよう説得。
 他方、ハンナもハイデガーの元で勉強していくかどうか迷う。
 ハイデガーは、ハンナの指導教授として、ハンナに落第点を付ける。
  *)彼が落第点を付けた最初の弟子。

 26年春、
 ハンナはマールブルクを去り、
 ハイデルベルク大学でカール・ヤスパースの元で
 哲学の博士論文のために勉強する。
  *)ヤスパースがハンナからハイデガーとの関係を聞いたのは
   49年になってから。

 ハイデルベルクへ移ってからも二人のひそかな情事は続く。
 これまで通り、ハイデガーの方から逢い引きの連絡。

 28年4月
 ハイデガー、ハンナ・アーレントとの関係を清算、文通のみに。
  *)27年の『存在と時間』出版によりハイデガーは哲学界の頂点にある。

 また、エリザベート・ブロッホマンの存在。。
 彼女はハイデガーの妻の学校友だちで半ユダヤ系、
 ハンナより14歳年長、すでに大学で地位を得ていた。
 ハイデガーは彼の手紙で、彼女を「いとしいリーヅィー」と呼び、
 27年に「ベルリンでの素晴らしい日々」を感謝、
 28年には「なにもかも」ありがとう、と書き、
 アウグスティヌスの言葉を引用。、
  ”volo ut sis ”(われ欲す、君の在ることを)。
  *)”volo ut sis ”を3年前にハンナにも引用していた。



 ハンナ・アーレント
 出生から亡命まで
  ケーニヒベルクの社会民主主義的で
  完全に同化したユダヤ人の家庭に生まれる。
  *「ユダヤ人問題」について
  (64年インタビュー)
   幼い頃、家庭で「ユダヤ人」という語は
   口にされたことがなかった。
   子供の頃、自分がユダヤ人に見えると知っていた。
   (他の人たちみんなとは違って見えること)。

  (52年、ヤスパース宛)
   自分は育った環境のせいで「じつにナイーブ」だった。
   20代初めになってユダヤ人問題が政治的争点と化すまでは、
   そんな問題は退屈でうんざりだと思っていた。

  7歳のとき父親は梅毒で死亡
  (少し前、彼女がなついていた父方の祖父も死亡)
  母親マルタ・アーレントはハンナ13歳のとき再婚。
   *)義父や2人の義姉になじめず。

 24年
 ハンナ・アーレント18歳、
 マールブルク大学に入学し、ハイデガーの授業に出る。
 28年
 聖アウグスティヌスについての学位論文を書き上げ、
 ラーエル・ファルンハーゲンの伝記調べに取りかかる。
  *)『ラーエル・ファルンハーゲンーーあるユダヤ人女性の生涯』(58年刊)
  *)ラーエル・ファルンハーゲン。
    旧姓レーヴィン、知識人のサロンを主宰、
    ドイツ・ユダヤ人として彼女が味わされた
    不名誉と屈辱がハンナの関心を引く。
 ハンナは、その後、反ユダヤ主義の諸原因と、
 ドイツ・ユダヤ人の歴史、そこでの自分の位置を明らかにする仕事に没頭する。

 29年9月
 ギュンター・シュテルンと結婚(~37年離婚)

 33年8月 ハンナはドイツから亡命。
   *)ハイデガーがフライブルク大学学長に任命され、
    学長就任演説『ドイツ大学の自己主張』により
    公然とヒトラーへの忠誠を宣言したことが
    彼女の亡命を決意させた。
 以後、ハイデガーを含めたドイツ知識人たちがヒトラーを支持し、
 西欧文化を裏切り、盲目と臆病ぶりをさらけ出したことを非難し続ける。

 36年
 ハインリッヒ・ブリュッヒャーと出会う。
 彼が二番目の夫、魂の友、心休まる避難所となる。
   *)ブリュッヒャーは、元ドイツ共産党員、亡命中。




 トップへ戻る