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    ニーチェ2
      ・・思想、著作



  『悦ばしき知識』(La gaya scienza))

 第1版、82年8月末出版、81年~82年夏に成立。
 第1書~4書、『曙光』の続稿として書かれ、のち独立。

 『曙光』と同様、道徳的偏見に対する闘い、
 近代文化やその諸観念、あるいはドイツ国家や大衆的社会状況等に対する批判、
 その間に、
 次第に自己自身の「新しい哲学」を語り出す方向へと導かれる
 (第4書「聖なる一月」)。
 第4書「聖なる一月」の賛歌は、
 永劫回帰の確認とツァラトゥストラの登場で結ばれる。

 第2版、87年6月出版
 「序文」、「第5書」、「プリンツ・フォーゲルフライの歌」を増補。
 「プリンツ・フォーゲルフライの歌」のうち6つの詩は、
 『メッシナ牧歌』として82年5月に発表。
  *)6つの詩は、第2版で表題を変更。
   ( )内が元の題
   「詩人の天職」(「鳥判断」)、
   「南方にて」(「プリンツ・フォーゲルフライ」)、
   「信心深いバッハ」(「小さな魔女」)、
   「不思議な小舟」(「自然の秘密」)、
   「愛の告白」(「あほうどり」)、
   「テオクリトス風の山羊飼いの歌」
   (「山羊飼いの歌ーシラクサに住むわが隣人テオクリトスに」)
  *)「愛の告白」では元の第2節を省く。
   「彼はいとも高く天翔けたーー今こそ
    天がその手もて、この勝ち誇る飛翔者を運び上げる。
    今や彼は静かに憩い、空にたゆたう、
    勝利を忘れ、勝利者たるをも忘れて」

 題名の「gaya scienza(悦ばしき知識)」は、
 トルヴァドゥールに対するニーチェの愛着から付けられた。

 *)『この人を見よ』から
  「大部分シシリーで作られた「プリンツ・フォーゲルフライの歌」は、
   まさにまぎれもなく、
   ”gaya scienza”というプロヴァンス的概念を想い起こさせるものだ。
   すなわち、かのプロヴァンス人の初期文化をして
   一切のいかがわしい文化に対して際だたせる、
   あの歌人と騎士と自由精神との統一を想い起こさせる。
   とくに、最後の詩「西北風に寄す」、
   この失礼ながら!、道徳を踊り超えてゆく
   奔放な舞踏歌には、完璧なプロヴァンス調がある。」

 「神の死」 第3書125番、
 「狂気の人間」第5書343番
 「われらの快活さが意味するもの」
 「永劫回帰」 第4書341番
 「最大の重し」
 「ツァラトゥストラ」 第4書342番
 「悲劇が始まる」



 ニーチェ思想

 古代ギリシア文化おける「悲劇の時代」

 悲劇の成立史
 悲劇はアイスキュロスを頂点としたソフォクレスによって完成した。
 起源には前6Cのディオニュソス祭に登場するサチュロス合唱団(コロス)がある。
 ギリシア的精神はペルシア戦争以前のギリシアにあり、
 戦後のギリシアはその精神を喪失した。
  ー>ペリクレスの政治、民主政治の時代

 ペルシャ戦争以前のギリシア精神

 英雄伝説、闘技、密儀の時代であり、
 まだ芸術と民族、伝説と慣習、悲劇と国家とは、
 同じ生命現象に根ざしている。
 それは、生けるものが魂を魅了する叙情詩の力、
 ディオニュソス讃歌(ディテュランポス)にはっきりあらわれている。

 ディオニュソスとアポロン、
 陶酔と夢、熱狂と形態の清明
 アポロン的な光明で満たす力は、
 ディオニュソス的な諸力が
 最も激しく生ずるところでこそ、その最高の魔力を発揮する。
 運命によって「完成」に支配される世界には
 偉大と美は見いだされるが、幸福はない。

 <ソクラテス以前の哲学者たち>への関心
 「プラトン以前の哲学」(1872年、バーゼル大学の講義)
 「ギリシア悲劇時代の哲学」(未完論文)

 万物を自然(ピュシス)と万物のうちに生成を見る。
 アナクシマンドロスやヘラクレイトスの教説のもつ意味を説くとともに、
 哲学において「プラトンとともに」何かが変質して、
 「何か全く新しいことが始まった」と主張。
  *)ハイデガー風に言えば、
  「存在=生成」の存在了解から「存在=現前性」の形而上学へ
 ニーチェは、悲劇時代のギリシア人の自然を
 <生きて生成するもの>としてみる見方を復権して
 ヨーロッパ文化の転回を図ろうとした。

 ニーチェの「アポロン的原理」と「ディオニュソス的原理」の対概念
 ショーペンハウアーの<表象としての世界>と<意志としての世界>の影響
  (『意志と表象としての世界』 1819年)
  *)さらに、これはカントの認識の対象としての<現象界>と、
   意志にかかわる<物自体の世界>についての
   ショーペンハウアーの独特の解釈による。
 カントはまた、
 ライプニッツのモナド(単子)の属性である「表象」(ペルケプティオ)と
 「意欲」(アペティートゥス)を考慮に入れている。
 かくして、こうした対概念は、
 ライプニッツー>カントー>ショーペンハウアーー>ニーチェへとつながり、
 この対概念の系列で優越するのは、意志・意欲であり、
 「意志の形而上学」の伝統をつくる。



 「力への意志」Wille zur Machat
 新たな「生」(レーベン)の概念の導入
 <生(レーベン)>という語の使用は、
 ショーペンハウアーの「意志」(ヴィレ)との関連を
 すぐに思い出させるので、「力への意志」を持ち出す。
  *)ショーペンハウアーの「意志」は、
   人間の自由意志ではなく、自然にひそむ無目的無方向な生命衝動で、
   かつてのニーチェのディオニュソス的原理の思考を導き出した。

 1882年、ダーウィンの進化論がドイツで紹介される。
   (ヘッケル『ダーウィン、ゲーテ、ラマルクの自然観』)
 ダーウィンの進化思想から
 <生>を無目的無方向なものとしてではなく、
 方向と分節構造を持つ「つねに現にあるものよりも、
 より強くより大きくなろうとするもの」と捉える。

 生=力への意志として
 力と意志はより強くなろう、より大きくなろうとする動的本質を持つ。
  *)現状維持、弱化は動的本質になり得ない
 動的本質とは、
 力は<力への力>、意志は<意志への意志>となることである。
 「力への意志」は計算高い
 現にあるよりもより強くより大きく生成して行くためには、
 現に到達した段階を見積もり、
 これから高揚して行く段階を見積もらねばならない。 
 力への意志はどこへ行き着くか、
 何らかの超自然的な形而上学的な目標ではなく、
 自己自身に回帰する(「等しきものの永劫回帰」)。
  *)ニーチェについてハイデガー流の解釈
   「<生>とは、存在は生成であるという新たな解釈のもとで、
    存在をあらわす名称となる」
   「<力への意志>は、
    存在者のその本質、仕組みから見て何であるか(本質存在)、
   <等しきものの永劫回帰>は、
   そうした存在者が全体としていかにあらねばならないか(事実存在)を告げている。」



 ニーチェの思想について
 キリストを嫉妬したニーチェ
 遺稿『力への意志』の序言
 「私が物語るのは次の2世紀の歴史である。
  私は、来るべきもの、
  もはやそれ以外の仕方では来たることのできないもの、
  すなわちニヒリズムの到来を記述する。」

 しかも、ニーチェ自身
 「ヨーロッパで最初の完全なニヒリストとして、
 まさにこのニヒリズムそのものを
 すでにぎりぎりまで自己のうちに生き抜いた者として、
 ニヒリズムを自己の後ろに、自己の下に、自己の外に持つ者として」
 物語るのだという。

 ニヒリズムとは?
 ニーチェ、
 「至高の諸価値が価値を失うこと。
  そこには目標が欠如している。
  何のためにという問いに対する答えが欠如している。」
  ニヒリズムの両義性
  ペシミズムと同様、強さとしてのペシミズムと
  頽廃としてのペシミズム

 能動的ニヒリズム・・高揚した精神力の徴
 受動的ニヒリズム・・精神力の下降後退 ・・デカダンス

 能動的ニヒリズム
 19世紀末のデカダンスの病原=キリスト教=自己欺瞞 
 近代の人間は、
 神を抹殺しておきながら自己の理想や道徳を神として礼拝している。
 時には人間の情念や怨恨や愚昧をすらも
 神の位置に祭り上げている。
 だが、それらを支えているはずの神は、すでに死んでいる。

 『善悪の彼岸』
 「かつて人々は自分の神に人間を犠牲として捧げていた。
  しかも、おそらく最愛の者を捧げた。
  ・・・ついで、人類の道徳時代には人々は自分の所有する最も強い本能、
  自己の自然を神に捧げた。
  ・・・最後に、犠牲に捧げるべき何が残っているのか? 
  あらゆる慰めとなるもの、聖なるもの、癒すものを、あらゆる希望を、
  眼に見えぬ調和や来るべき幸福や正義に対するあらゆる信仰を、
  われわれはついに犠牲として捧げねばならなくなったのではないか?
 (その代わり)
  われわれは神そのものを犠牲に供し、
  自虐の果てに、石を、愚妹を、重圧を、運命を、無を、
  礼拝しなければならなくなったのではないか? 
  無のために神を犠牲にする
  ーー残虐きわまるこの逆説的な秘儀が、
  いままさに来たらんとする世代のために残されているのだ。
  われわれはすべてそれについて何ごとかを知っている。」
  無のために神を犠牲にする、
  そこに、「神は死んだ」Gott ist tot という言葉の真の秘密がある。 
 「すべての神々は死んだ。
  いまやわれわれは超人が生きることを欲する。
  ーーこれこそ、いつか大いなる真昼に、われわれの最後の意志であれかし!」

 人間は、彼岸とか理想という名の下に神を殺した。
 神を理想や道徳や価値と置き換えることは神を殺すことであり、
 とうの昔に神は死んでいた。
 にもかかわらず、
 われわれは架空の神々を拠りどころとしてそこに安住していた。
 いまでは神は無のために犠牲にされたのだから、
 われわれを支えているものは「無」でしかない。

 従来のあらゆる価値の転倒ーー永劫回帰 
 われわれが拠りどころとしていた価値の根拠はすべて虚妄でしかなかった。
 いまでは無の中に投げ出され、この無を満たしてくれるものは何もない。
 目的もなく意味もないこの無の深淵をのぞき見たものだけが、
 「永劫回帰」という眼もくらむような啓示を理解できる。


 『力への意志』
 「われわれはこの思想をその最も恐るべき形式で考えてみよう。
  意味も目標もなく、さりとて無へのフィナーレもなく、
  不可避的に回帰してくる、あるがままの生存、
  すなわち<永劫回帰>die ewige Wiederkehr 
  これがニヒリズムの極限の形式である。無(すなわち無意味)が永遠に!」

 一切がなされ終わったものの永劫回帰であるならば、
 すべては過去であり、<あった>である。
 過去は意志にとって「転がすことのできない岩」であり、
 <あった>は意志の歯ぎしりである。
 にもかかわらず、<あった>を<私はそう欲した>に作りかえること、
 これこそはツァラトゥスラにとって救済の名に値する唯一の創造行為である。
  一切の<あった>Es war に向かって、
 「私はそう欲した」「私はそう欲する」「私はそう欲するであろう」
 というとき、意志は運命を自分のものとして引き受ける。
 そこに生まれるのが「運命愛」amor fati であり、
 「さらばもう一度」と永劫回帰を肯定する勇気である。  



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