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 アイルランドは、ヨーロッパの最西端に位置し、
 日本の北海道ほどの面積を有する島。
 隣にブリテン島(いわゆるイギリス)に接している。
 緯度ではカラフトとほぼ同位置にある。
 従って、かなり寒い国という印象があるが、
 大西洋に面して、メキシコ湾流の影響から冬も比較的暖かいという。
 年間を通して雨が多く、緑に恵まれている。
 降雨年間200日というが、しかし1日中降るわけではない。
 今回の旅行中にも、数時間程度、雨と強い風を体験したが、
 一過性で時折晴れ間がのぞいた。
 花崗岩や石灰岩台地のため、
 特に島の西部は土壌には恵まれず、牧草地が多い。


 歴史と文化の概要

 1,ケルト以前 石器・青銅器時代
 紀元前3000年頃には、農耕生活が始まり、巨石古墳が作られはじめる。
 前2500年頃のニューグレンジの巨大古墳が築造されたという。
 現在も、ブリテン島やフランス・ブルターニュ地方には
 巨石遺跡群やドルメンなどがあり、
 おそらくこれらの地域に巨石文化圏が発展していたのであろう。
 しかし、どういう人びとが造ったのか分からない。
 ニューグレンジ古墳などから太陽信仰が推定される。


 2,ケルトの進出
 ヨーロッパ中央に分布し、
 やがて東西に進出した「大陸ケルト人」は
 共和制ローマや古代ギリシアの周囲にも展開し、
 ローマ人やギリシア人によって記録されている。
 ケルト人はフランス・スペインにも定着、
 やがてアイルランドやブリテン島に定着して
 「島のケルト人」といわれる。

 アイルランドには、前6C~前4Cにかけて、
 「ラ・テーヌ文化」をもって渡来し、前2C頃には定着した。
 ケルト人は、鉄器を使用、また文化的には統一されていて、
 同じ言語(ゲール語)、同じ宗教(ドルイド教)を持っていた。
 しかし文字を持たなかったので、彼ら自身による記録がない。

 ドルイド教は、山や大地、湖、樹木などの自然崇拝、
 そして霊魂の輪廻を信じていた。
 また、ドルイド僧は祭祀を執行する者、
 預言者、詩人として高い権威を持ち、
 時には小国の王以上力を持っていたという。

 ケルト人は、部族単位で生活していて、
 当時のアイルランドでは、
 150もの部族を中心とした小王国が分立していた。
 後代においても、ケルト人の統一国家はできず、
 イギリスの侵入、支配を甘受する原因となった。

 この時代、伝説的な「上王
 (王の王、ハイ・キング)の宮廷が「タラの丘」にあり、
 上王の権威が尊重されていたという。
 (「アーサー王と円卓の騎士」伝説の起源とも)
 後代でも、この上王の座をめぐる戦いに有力諸侯が明け暮れ、
 政治的統一がならなかった。
 この時代のものとして出土する金工品の精度から、
 文化的な水準の高さがうかがわれる。
  *アイルランド国立博物館キルデア・ストリートに展示されている。


 3、聖パトリックとキリスト教(5世紀~

 432年、聖パトリックのアイルランド布教によって、
 (アイルランドの守護聖人となった)
 アイルランドは急激にキリスト教化されていく。
 パトリックは、アイルランドのドルイド教信仰を
 キリスト教と融合する形で取り込み、
 かくして今も豊富に残る妖精譚輪廻転生の思想などを含む、
 大陸とは異なった独特のキリスト教文化が生み出された。

 それは、ケルト十字などにもうかがえる。
 ケルト系の文化圏では普通の十字架に円形を組み合わせる。
 この円形は、古来の太陽信仰を表すとも、
 輪廻の思想を表しているともいわれている。
 特にアイルランドでは、
 ハイクロスと呼ばれる2m以上もある石造のケルト十字が残っている。
 ハイクロスには、ケルト独特の渦巻文様や聖書の物語が彫刻されている。

 他のヨーロッパ・キリスト教圏が教会を中心にとしていたのに対して、
 当時のアイルランドでは信仰の中心が修道院であった。
 辺境の村落への布教も行われ、大小多数の修道院が造られた。
 グレンダー・ロッホの修道院遺構に見られるように、
 修道院が村落の中心にあり教会はそこに付属している。
 また、修道院が砦として機能し敵の侵入を防ぐ役割も果たしていた。
 都市においても修道院長が教会の司教を兼ねるなど
 キリスト教の指導者であった。

 修道院内では修道士達は祈りと労働そして聖書研究に日々を送り、
 いつしかアイルランドは「学者と聖人の島」といわれるようになる。
 6C終わりごろには、
 アイルランドの修道士、聖コルンバヌスの大陸伝道で分かるように、
 キリスト教がいわば大陸に逆輸出される状況となった。
 こうした結果、修道院は裕福になってゆき、
 数々の財宝を作り、所有するようになった。
 国立博物館に展示されている数々の財宝は、
 (タラのブローチ、コングの十字架、アーダーの聖杯など)
 いかに当時の修道院が財政的に潤っていたかを如実に語っている。

 現在トリニティ・カレッジに収蔵されている
 豪華な『ケルズの書』(4福音書の装飾写本)も作成された。
 現在でも聖パトリックはアイルランドでは
 プロテスタント、カトリックにかかわらず絶大な人気を誇り、
 3月17日の聖パトッリック・デイには島中が緑色に染まる。
  *また、アメリカ・ニューヨークの聖パトリック・ディも有名である。
   これは、全米に4000万人というアイリッシュ系(ケルト系)人口の存在。


 4,ヴァイキングとノルマン人

 ヴァイキングが最初にアイルランドの歴史に登場するのは8世紀の末。
 彼らは当初優れた航海技術を駆使し、
 沿岸地帯の豊かな修道院を襲撃し、略奪を行った。

 ヴァイキングは略奪者であったと同時に、優れた商人でもあり、
 町を造り、貿易を行い、次第にケルト人たちに同化していった。
 (ノルディック、イストメンと呼ばれる)
 ダブリン、ウェックスフオード、ウオーターフオード、リムリックなどは
 皆ヴァイキングによって造られた町である。
 また、彼らによる侵略は、
 ケルト人たちを政治的に団結させることを促し、
 1014年、ブライアン・ボルー率いるアイルランド連合軍は
 クロンターフの戦いでヴァイキングを破った。

 ヴァイキングのあとは、ノルマン人貴族がアイルランドにも進出してくる。
  *ヴァイキングの別の一派がフランス・ノルマンディー公国をつくる。
   これがイングランドを征服し、ノルマン王朝成立、
   その後のプランタジネット朝もノルマン系、
   彼らはフランス語を話す。
 ノルマン貴族の<ストロング・ボウ>(強い弓)と呼ばれる
 リチャード・フィッツギルバートがアイルランドに上陸したのが、1169年。
 アイルランドの700年にわたるイギリス支配は、
 このときから始まったとされている。

 しかし、ノルマン貴族は領主として確かにアイルランドの支配勢力であったが、
 依然として、ケルト系地元勢力も力を持ち、
 なによりも、彼らは少数の支配者として、ヴァイキングと同様に、
 婚姻によりアイルランドに同化していったことだ。

 彼らはアイルランドの服を着て、ゲール語を話し、
 「アイルランド人自身よりアイルランド人らしい。」とさえ言われるようになった。
 あまりにノルマン人がアイルランド化していくので、
 それを阻止するために、ノルマン人のゲール語の使用禁止、
 アイルランド人との結婚を禁止する法律が制定されたほどであったが、
 このような法律は結局効力を発揮せず、
 ノルマン人の貴族達はアイルランド人とほとんど同化してしまう。


 5、宗教改革とアルスター入植
 このような状況が一変するのが、
 英王ヘンリー8世の離婚問題に端を発するイギリスの宗教改革である。
 ヘンリーはカトリックから離れて英国国教会を設立。
 また、彼はアイルランド王を宣言し、
 アイルランド化したノルマン貴族の代わりに、
 アイルランドをダブリンから支配する体制を整える。

 ヘンリー8世の娘エリザベス1世はヘンリーの政策を受け継ぎ、
 イギリスに不満を持つ貴族の反乱をキンセールの戦いで撃破。
 この一連の反乱で最も頑強に抵抗したのがアルスター州だったため、
 エリザベスは、プロテスタントをおもにスコットランドから入植させて、
 二度と反乱を起こさないようにとした。
  *これが現在まで続く、北アイルランド問題の発端といわれる。

 英国国教会(現在は世界的に「聖公会」といわれ)は
 プロテスタントに分類される。
 のちにピューリタン革命の中心となったピューリタン(清教徒)は、
 カルヴァン派プロテスタントで、
 国教会より徹底したプロテスタント改革をイギリス内で目指していた。
 カトリックのアイルランドに対する過酷な支配体制は、
 こうしてプロテスタント対カトリックのは宗教戦争の様相を呈する。


 6、クロムウエルの征服、破壊と名誉革命

 エリザベスが死にチューダー朝が断絶したことにより
 イギリス王はスコットランドのスチュアート朝に受け継がれた。
 スチュアート家はカトリックであったので、
 次第にプロテスタントの議会と対立するようになり、
 ピューリタン革命が起こる。
 アイルランドのカトリックは王党派を支持した。

 クロムウェルはイギリス内の混乱を錆めると、
 アイルランドヘと遠征(1649~71年)。
 ドロヘダでの大虐殺をはじめとして、徹底的にカトリックを弾圧。
 多くの土地を奪い、それを自分の支持者たちへと配分した、
 このときの残虐行為により、
 クロムウェルは今でもアイルランドで最も嫌われる歴史的人物ある。

 クロムウェルの死後、イギリスでは王政が復活。
 1685年にジェイムズ2世が王位に就くが、彼はカトリックであった。
 1689年にジェイムズはフランスに亡命し、
 イギリスはオランダからオレンジ公ウィリアムを招く。
 いわゆる名誉革命である。
 しかし、退位させられたジェイムズ2世は
 フランスのルイ14世の力を借りてイギリス王位奪還を目指し、
 アイルランドヘ上陸。
 次いでオレンジ公ウィリアムもアイルランドに上陸し、
 英王をめぐる戦いがアイルランドを舞台に開かれた。

 この際、アイルランドのカトリックはジェイムズを支持、
 プロテスタントはウィリアムを支持している。
 1690年ボイン川の戦いで、ウィリアムは勝利を収め、
 アイルランド軍も結局1691年にリムリックで降伏。
 このときのリムリック条約ではカトリックを寛容に扱うことを約束していたが、
 その後の議会で、「パーネル法」(異教徒処罰法)が成立、カトリックの弾圧が始まる。
 また、この戦いに敗れたアイルランドのリーダーたちは、ヨーロッパの諸国へと亡命。
 これはワイルド・ギース(野生のガチョウたち)と呼ばれており、
 アイルランドの民衆は自分達のリーダーを失ってしまう。

 <参考
  ジェイムズの復活を目指す戦いは、スコットランドでも起こっている。
  スコットランドのカトリック教徒はジェイムズを支持し、
  第1次ジャコバイトの反乱を起こすが失敗。
  次いで、息子のジェイムズの<第2次ジャコバイトの反乱>も失敗。
   *「カローデンの戦い」でスコットランドのハイランダーたちは惨敗する。
  注)スコットランドについては、
   ドラマ・アウトランダーのページに掲載した。
   その「資料2(歴史、名産)」のページへのリンクは下記。

  資料2へのリンク


 7,独立運動

 18世紀の末のアメリカの独立は、アイルランドにも大きな影響を与えた。
 ヨーロッパではフランス革命が始まり、
 アイルランドでは次第にイギリスからの独立の機運が盛り上がってくる。
 この時期、ユナイテッドアイリッシュマンという組織が作られ、
 その指導者テオボルド・ウルフ・トーンは
 1796年にはフランスの協力の下、艦隊でアイルランドに攻め込もうとするが、
 強風のため上陸ができず、引き返す羽目になってしまう。
 その後ユナイテッドアイリッシュメンは、
 ウェックスフオードで蜂起するが、鎮圧される。
 高まる独立運動に対して、プロテスタント中心のアイルランド議会は
 自ら議会を解散し、1801年、イギリスに併合の道を選択する。


 a)解放者ダニエル・オコンネル
 カトリック教徒には選挙権も被選挙権も持つこともなく、
 いくつかの職業に就くことも禁止されていた。
 そのような状態を打破するために登場したのがダニエル・オコンネルであった。
 彼は1823年にカトリック協会を設立し、29年には「カトリック解放令」を勝ち取る。
 これによって『解放者』として譜えられたオコンネルの次の目標は、
 イギリス議会から分かれてアイルランド議会を復活させること。
 彼は大集会を開くことで、平和的にこれを成し遂げようとした。
 何十万もの人を動員する彼の大集会は、イギリスの脅威となった。
 しかし、ブライアン・ボルーがデーン人を打ち破ったクロンターフの戦いを想起する
 「タラの丘」の大集会をイギリスが中止させようとしたとき、
 平和的な集会を望んだオコンネルは、これに従って集会を中止した。
 そのため、彼の政治生命は失われることになった。

 b)大飢饉
 1845年に始まったジャガイモの立ち枯れ病は、
 瞬く間にアイルランド全土に広がり、大打撃を受けた。
 この危機に対してイギリス政府は有効な対策をとらず、
 アイルランドではこの飢饉によって100万人が餓死、
 150万人がアメリ力などに移住をしたといわれている。

 ノルマン貴族の入植以来、
 中世・近代を通じてケルト系アイルランド人は、
 多くが貴族・大地主の領地に付属する小作人(農奴)として生活していた。
 ヨーロッパの海外進出でもたらされたジャガイモは、
 やせた土地で栽培でき栄養価も高いため、アイルランドで広く栽培されるようになった。
 小作人たちは、地主に穀類を小作料として差し出して、
 彼らはジャガイモを主食としていた。
 これが、大飢饉による100万人の餓死者を出す原因となった。
 アイルランドの人口も半減し、現在もなお当時の人口水準を回復していないという。

 コーク近郊のコーヴは、
 大飢饉後、多数のアイルランド人がアメリカヘと旅立って行った地。
 タイタニック号最後の帰港地としても知られる。

 c)スチュアート・パーネルと土地同盟
 スチュアート・パーネルは、
 ダニエル・オコンネルと並び称されるアイルランドの政治家である。
 1875年にイギリス議会の議員になると、
 アイルランドの土地をイギリスの不在地主からアイルランド農民のもとに戻すために尽力。
 彼はアイルランド人達に、
 地主や地代取立入に対するボイコット(ボイコットとは当時の地主の名前から)を促し、
 これによって地代の値を下げさせ、アイルランド人の小作人に土地を手に入れさせようとした。
 土地戦争と呼ばれるこの戦いに勝利したパーネルは、
 今度はホームルール(自治)に向けて動き出す。
 しかしパーネルは、志半ばで女性スキャンダルが発覚して、失脚してしまう。

 d)ゲーリック・リバイバル

 19世紀の末頃から、
 アイルランドの中で民族的な意識が急激に盛り上がりを見せてくる。
 GAA(ゲーリック・アスレチック・アソシエーション)は、
 古来からアイルランドで行われてきたスポーツ、
 ハーリングとゲーリックフットボールを復活させた。

 ゲーリックリーグは、会話人口が著しく減りつつあるゲール語の普及を、
 また、W・E・イエーツやグレゴリー夫人らは
 アビー劇場を設立し、国民演劇を発展させた。

 ゲーリックリバイバル運動の中心となったのは、
 アングロ・アイリッシュの知識人達であった。
 「アングロ・アイリッシュ」とは、
 イギリスから入植した祖先を持つプロテスタント系の人びとである。

 16世紀のヘンリー8世のアイルランド支配以来、数世紀が経過する間に、
 プロテスタント系入植者はアイルランドの領主・地主など富裕層を形成してきた。
 また、この間、日常語として英語が普及し、
 ケルト(ゲール)語の話者は西部の辺鄙な田舎に限られるようになっていた。
 日本では考えられないことだが、民族語を失った例は数多い。
 例えば、中欧のチェコでもチェコ人はかつてドイツ語を話した。
  *有名な作家、フランツ・カフカもドイツ語で著作した。
   のちチェコ語復活運動がおこる。

 こうして、アングロ・アイリッシュの知識人、
 例えば、イエーツなどが目指したのは、カトリックでもプロテスタントでもない、
 聖パトリック時代以前のケルト的世界の埋もれた記憶の復活であった。
 そこに、アイルランド人としての民族的自覚、
 というよりもアイルランドの大地と自然、文化の独自性を見いだそうとした。
 今日、ゲール語はアイルランド語として復活しつつある。


 8,イギリス・アイルランド戦争

 a)イースター蜂起
 1912年にイギリス議会はアイルランド自治を認める法案を通過させたが、
 第一次世界大戦勃発のため、施行は延期された。
 多くのアイルランド人が、戦争に貢献すれば自治を確実にすると戦場へ向かった。
 1916年の復活祭の日に、
 パトリック・ピアースや、ジェイムス・コノリーなどの共和国派の一部は、
 ジェネラル・ポスト・オフィスを司令部として、ダブリンの重要拠点を制圧。
 アイルランド共和国の成立を宣言した。
 しかしイギリス軍が出撃し、この蜂起は数日で制圧された。
 この蜂起に対して冷淡であった多数の人たちも、
 イギリス政府がこの蜂起の指導者たちを処刑したことで事態が一変。
 冷淡だったアイルランド人の心に火が付いた。
 1918年の選挙では共和派のシン・フェイン党が大勝利。
 しかし、彼らはイギリス議会には赴かず、アイルランドで議会を設立。
 アイルランド共和国の設立を宣言した。

 b)独立宣言によって、
 1919年にイギリスとアイルランドの戦争が勃発。
 アイルランド議会のリーダは、
 イースター蜂起の生き残りエ-モン・デ・ヴァレラ。
 (のちアイルランド共和国大統領となる)
 そしてこの戦争中、軍事面で頭角を現したのが
 同じくイースター蜂起で生き残ったマイケル・コリンズだった。

 一方イギリス軍は、正規軍の他に、
 ブラック・アンド・タンとよばれる不正規軍を動員した。
 ブラック・アンド・タンの残虐な振る舞いは各地で問題を起こした。
 国際世論の高まりとともに、イギリスとアイルランドは交渉のテーブルに就く。
 長い交渉の末に、
 アイルランド側は、北アイルランド6県がイギリス側に残ることと、
 完全な共和制でなくイギリス王室に忠誠を誓い、
 イギリス連邦に残ることが条件に加えられていた。

 国民投票によって最終的に条約を結ぶことが決まり、
 アイルランド自由国が誕生したが、
 完全な共和国の成立を目指すデヴァレラを中心とする一派が分裂。
 今度は内乱が始まってしまう。
 多くの犠牲を払いながら1923年に内乱は終結する。
 その後、アイルランドは第二次世界大戦で完全に中立を守り、
 1949年には正式にイギリス連邦から脱退。
 アイルランド共和国が誕生した。


 9,北アイルランド問題

 一方、イギリス領に残った北アイルランド(アルスター州の6県)では、
 プロテスタントが多数派を占め、カトリックは少数派で差別を受けていた。
 アメリカの公民権運動に触発されて、
 1968年からはカトリック住民による公民権運動が活発になるが、
 このことで、カトリックとプロテスタントとの衝突が増加。
 イギリスは治安維持のため、軍を北アイルランドに派遣する。

 1972年、デリー(アイルランド人はロンドンデリーと呼ばない)で、
 カトリックの行った平和的デモに対してイギリス軍は発砲、
 市民13人の死者を出す血の日曜日事件が起きた。
 北アイルランド情勢は、混迷を極める。

 IRAをはじめとするカトリックの過激派は、北アイルランドのみならず、
 ロンドンなどイギリス本国にもテロの対象を広げ、
 他方、プロテスタントの過激派もテロで応酬するという泥沼の状態が続<。
 1980年には、投獄されたIRAの囚人達は、
 自分達を政治犯として扱うことを求めたが、イギリスはこれを拒否。
 ボビー・サンズをはじめとする囚人達はハンガー・ストライキに訴え、
 10人が獄中で餓死するという事件も起きた。

 終わりなく続くと思われたプロテスタントとカトリックの対立は、
 1990年代半ば以降に好転。
 1998年和平合意、
 翌年には、プロテスタシト、カトリックの双方の代表を含めた
 北アイルランド自治政府が発足。
 幾度かの前進と後退を繰り返しながらも、
 恒久的和平に向けた努力が始まっている。


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