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イタリア旅行記2
・・ヴェネツィアとピサ
ミラノ~ヴェネツィア~ムラーノ島
~サン・マルコ広場~サン・マルコ寺院
~ドゥカーレ宮殿~夜のゴンドラ
~ピサ~ピサの斜塔~ドゥオーモ
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ムラーノ島
サン・マルコ広場と寺院
溜息橋(ドゥカーレ宮殿)
夜のゴンドラ
ピサ編 ドゥオーモ(大聖堂)
<ヴェネツィア編>
ミラノからヴェネツィアへのバスの旅は、
北イタリアの高原地帯から海へ向かうということで、
景観もだんだん違っていく。
山地では数日前に雪が降って、その名残がまだ少しあった。
また、暮れの旅行なので、
イタリアの冬は雲が多くまた雨も多い。
イタリアといえば、私などは、
「太陽と強い日差しが降り注ぐ南の国」
というイメージしかない。
「曇りがちな日々と雨」は、
どうもイタリアらしくなく釈然としないのであった。
帰国してから娘にそう話したところ、
「地中海性気候の冬の季節では、そうなのよ」
(まったく知らないんだから)と
ダメを押されてしまった。
それでも、同じ地中海に面した
スペインでは冬でも天気は良かったのに、
<どうしてだ?!>と今でも思っている。
それはともかく、スペインと同様、
イタリアも地質は悪いらしく、
枝を四方八方に伸ばした木々というは希であった。
やはり、細長く背の高い木々。
高地から平地へ出で、ヴェネツィア近くになると、
何となく潮の香りがするようであった。
かつては「アドリア海の女王」と呼ばれ、
イタリア・ルネサンス期に
海洋国として繁栄を誇ったヴェネツィアは、
現在、本来の島の部分と、
その周囲の本土側の部分に分かれている。
そして、人口では本土側の方が多いようだ。
やはり、海水が増量すると
海面下になってしまう本島は住み難いのだろう。
観光地になっている本島側の住民数は
年々減少しているという。
ともかく、私たちのバスは、
島への入口となっている細い回廊を通り、
古いイタリア民謡にも歌われた
鉄道の最終駅の「サンタ・ルチア」駅を横手に見ながら、
(もちろんヴェネツィアからの出発駅)
やがて「ローマ広場」につき、
すぐ遊覧船の発着場に近い駐車場で停まった。
ここから私たちは遊覧船(「ヴァポレット」という)に乗って、
島の真ん中を蛇行する「大運河」に沿って、
左右の教会や宮殿を見ながら、
やがて観光の中心となる「サン・マルコ広場」にある、
「鐘楼」や「ドゥカーレ宮殿」を海上から左手に眺め、
また、
前方右手の「サン・ジョルジョ・マッジョーレ島」と
その教会を見て、あいにくの雨模様の中を
外海のアドリア海に出て、海の波に揺られつつ、
本島の北方にある「ムラーノ島」に向う。
ちょうど良く、島に着く頃雨が上がり、腫れた。
ムラーノ島
私たちが最初にめざしたムラーノ島は、
今も、ヴェネツィア・ガラスの本場であるという。
この島は、昔、ヴェネツィアの貴族や富裕な市民層が
保養地・別荘地としていた。
さらには、ヴェネツィア・ガラスの製法の秘密を守るために、
ガラス職人たちはこの島に閉じこめられて
ガラス製品を作らされたという。
ヴェネツィア・ガラスは、
ルネサンス期以前からのヴェネツィアの
富裕と繁栄の源泉であった。
日本語を話す現地の若い女性ガイドの案内で、
かつての貴族の邸宅であった
「ガラス博物館」を見学し、
(ルネサンス期の建築構造が残る)
また、現在の「ガラス工房」と
(ここで作り方の簡単な実演も見学)
工房付属の「アウトレットショップ」を見て、
(どちらが付属なのか良く分からないが)
ショップで土産品を買った。
昼食には、
本場の「イカスミスパゲッティ」を
注意しながら食した。
「衣類に付いたら落ちないよ」
と言われたので。
現在のムラーノ島は、
いかにもヴェネツィアの運河の島という風情で、
こじんまりとしていて、
観光客も多かったが、1泊ぐらいすると
良いかも知れない。
運河沿いの細い舗道(三人並ぶぐらい)には、
運河に沿った手すりもなく、
(まあ現地の人で落ちる人はいないだろうが)
それだけ、時間に追われて
走って人にぶつかるようなこともない、
というような「のどかさ」に満ちている。
下、ムラーノ島。
サン・マルコ広場
ムラーノ島から再び遊覧船に乗って
本島に帰ってきた私たちは、
サン・マルコ広場の船着き場から上陸して、
観光の名所、サンマルコ寺院、
ドゥカーレ宮殿・鐘楼などを見学した。
その後、少しの自由時間を利用して、
私たちは広場の周囲にある
建物の中の店で土産物を買ったり、
またレストランでビールを飲んだりして、過ごしてた。
このサン・マルコ広場には、
周囲に新庁舎などの建物があり、
夜も大勢の観光客で賑わっていった。
下の写真は、サンマルコ寺院の方から撮ったもの。
サン・マルコ寺院
丸天井などのモザイク画がいい。
また、ここには、
ヨーロッパ十字軍に参加したヴェネツィア軍が、
ビザンツ帝国のコンスタンティノープルから
持ち帰ったいろいろな戦利品がある。
エルサレム奪回をめざして組織された十字軍が、
<イスラム教徒との戦い>よりも、
救うはずの同じキリスト教国家から
財宝を奪って帰るという、
歴史の不思議がここにもあった。
この寺院の正面入口と広場を結んで、
何やら工事用の足場みたいな急ごしらえの板で
渡された<通路のようなもの>があった。
何だろうと思っていると、
これは、広場が水浸しになった場合の
寺院への通路をすぐこしらえるために、
置かれているということだった。
写真下、寺院の前にある通路のようなもの
(人が腰掛けている)
数年前に、相当に増水したときには、
広場は一面水浸しで
「膝ぐらい」まで浸かってしまったという。
もちろんこのときには、
寺院内部の床も水浸しになったという。
年々の地盤沈下は止むことなく、
放置すればヴェネツィアは
確実に海面下に沈んでしまうようだ。
ドゥカーレ宮殿
かつてのヴェネツィア共和国の政庁として、
9世紀に(サン・マルコ寺院と同時期)建てられた。
(現在のものは15世紀)
2階には、「元老院の間」があり、
ここにあるティントレットの『天国』は、
世界最大の油絵という。
ここから階下に通じる
狭い階段をくねくねと降っていくと、
「溜め息橋」に出る。
ちょうどこの政庁との間に細い運河があって、
昔はこの対岸に牢獄があり、
これと結ぶ橋が「溜め息橋」。
上の写真、溜息橋。
……刑を言い渡された囚人が
二度とこの世に戻ってこられないと嘆き、
この橋に穿たれた小窓から介間見える
世間(この世)との別れを思って、
<溜め息をつくのだ>ということで、
この橋の名がある。
橋は、周囲を壁に覆われた狭い通路で、
この通路に換気口のような<小窓>がついている。
伝説的な人物、カサノヴァは
見事脱獄に成功したというのだが。
現在も、地下牢跡が残されている。
夜のゴンドラ
サンマルコ広場で自由時間をとった後、
夜の8時半頃、
7・8人のグループに分かれてゴンドラに乗り、
海上に浮かぶ
ライトアップされた寺院や夜景を楽しみながら、
夜のヴェネツィアの細い運河を通って
(せいぜい20分くらいだったと思うが)、
ロマンティックな、
噂に高いヴェネツィアのゴンドラ経験したのであった。
ゴンドラの船頭は、若者で、
例のゴンドラの舟唄を歌うわけでもなく、
実に淡々と櫓を漕いでいる。
細い運河に面した周囲の建物は、
ちょうど建物の裏手を見せているようで、
夜の中で何となく寂れた風情があった。
だいたい1階部分には
人が住んでいる様子が余りなく、
2階以上(5階建てくらい)に住んでいるらしく、
運河に面した窓から室内の灯りが漏れ、
窓辺に鉢植えが飾ってある。
(ただそうした窓も数多くなく、
全体として寂れた様子がある)
まあ、運河に架かる橋の周囲は、
明るく店もあり、
人が集まっているという雰囲気があった。
こうしたヴェネツィアの裏側を見ると、
普通のサラリーマンのような家庭は、
本島から本土側に移住しているということではないか、
多くの本島のヴェネツィア住民の一般的な家庭は、
観光に関係する家庭なのだろう。
ゴンドラを楽しんだ後、
遅い夕食のレストランに入って、
その後、
水上タクシー(「モトスカーフィ」という)で、
バスの駐車場に行き、バスで本土側のホテルに向かった。
今日の1日は、
ミラノからヴェネツィアへと朝から夜までの強行軍となった。
<ピサ編>
かつてルネサンスの早期には、
海洋都市国家として栄えて、
ジェノヴァやヴェネツィアと
地中海の覇を競ったピサも、
ルネサンス盛期には
フィレンツェの支配下に入り、落日を迎えた。
今日では、ピサは「斜塔」で有名なわけだが、
この斜塔は「ドゥオーモ」の鐘楼(塔)であって、
この「ドゥオーモ」を中心として
「洗礼堂」や「カンポ・サント」(納骨堂)などがある。
また、周囲には
ルネサンス期の古い城壁の跡も一部残っている。
私たち一行は、
一路バスでヴェネツィアからこのピサまで、
6時間以上かけてやってきたのであった。
バス旅行は途中の景色を見たり、
ガイドの話を聞いたり、寝たり(これが一番多い)して、
気楽に旅することができるのがよい。
ピサ斜塔見学
白大理石の列柱が
6層を成す(1階部と最上部を除く)斜塔は、
手すりもないという危なっかしい要素もあるが、
300段近い階段を昇って屋上に出ると、
ピサの町のが一望に見渡せるらしい。
残念ながら、すでに90年以来入場禁止になっている。
下の写真、左がドゥオーモの一部
斜塔(鐘楼)の全体像
この斜塔は、
すでに1173年の着工の時から
傾きが始まったというから、
建築史上では失敗作ではないかと思うが?
(ピサ生まれの建築家ボナンノ・ピサーノの作)
当時の海岸線は現在よりもっと奥にあって、
もともとピサの地盤は弱い。
これが返って奏功して、
いまや世界に著名なイタリア観光資源となっているのが、
<歴史の皮肉>。
現在工事中で、
斜塔を水平にしようかという案もあるようだが、
それだと「斜塔」でなくなるので、
観光的にはマイナスになるのではないかと
老婆心ながら思っている。
当時ピサ大学で医学を学んでいた
ガリレイが「物体落下の実験」を行ったというのは
周知のとおり。
ドゥオーモ(大聖堂)、斜塔とともに。
このドゥオーモは、
ピサ・ロマネスク様式(注1)の最高傑作といわれる。
確かに、白大理石を使ったこの建物の外観も内部の装飾なども、
どっしりした重みのある様子が良い。
(ただ、斜塔と同じく地盤沈下の影響がここの床にもある)
現在の入口になっている「ボナンノ・ピサーノの扉」と
内部にある「ジョヴァンニ・ピサーノによる説教壇」は傑作という。
注1)ロマネスク様式というのは、
古代(ギリシア・)ローマ風のという意味で、
列柱を多用し、その列柱の間には
神々や英雄、著名な人物像を配置するなど、
左右対称や均整を重視する建築思想(設計)。
素材としては、大理石が多い……。
(と、私は勝手に解釈しているの)
また、「ドゥオーモ」にはランプがある。
ガリレイが、
天井からつり下げられた揺れ動くブロンズのランプから
「振り子の法則」を発見したという。
ただし「等速性」の発見はランプ作成の前のようだ。
下の写真。
灯りがつけば、大きなランプと分かるのだが。
写真中央の楕円形(中は空洞)のもの。
周囲に小ランプを多数付けるようになっている。
洗礼堂(バッティステロ)
円形建物で周囲の美しい装飾が良い。
内部には大きな洗礼盤があり、
これは体を水につける「浸礼」式用のもの。
また、堂内の音響効果が良いことで有名。
(係員が実験してくれる)
洗礼堂の写真
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