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 イタリアの旅3へ :フィレンツェ

 イタリアの旅4へ :シエナ~ローマ~ポンペイ



   イタリアの旅1
     ・・98年暮れ~正月
     出発~ミラノ(マルペンサ空港)~ホテル
     ~サンタ・マリア・デレ・グラッツィエ教会
     ~スフォルツェスコ城
     ~スカラ座とエマニュエレ2世ガッレリア
     ~ミラノ・ドゥオーモ(聖堂)~コモ湖

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     ミラノ  最後の晩餐  イタリアの治安
     ミラノ・ドゥオーモ(聖堂) ドゥオーモとは
     コモ湖



 出発ミラノ

 私にとって3回目の海外旅行にして
 やっと「3度目の正直」で平穏な機上の旅ができた。
 今回はJALであって、
 「やはり、日本がいい」ということか。
 スペイン・ボルトガルの旅はエールフランス航空で、
 ロシア旅行はエアロフロート航空であった。


 「スチュワーデス雑感」
 とにかく、時差7・8時間あるヨーロッパ旅行では
 12時間を超える飛行中、
 乗客は、狭いシートでベルト着用、ブロイラー状態で、
 食ったり飲んだり眠ったり、
 はたまた映画を見たりして過ごす。

 私のようなヘビースモーカーにとって
 なんともやりきれない気持ちになる。
 この状態で救いはエールフランスだった。
 なんとスチュワーデスと一緒に喫煙できるのだ!
 喫煙席を後部座席に数席用意するのは
 どの航空会社も同じだが
 (今は昔、懐かしい!)、
 エールフランスは乗務員が
 食事等を準備するコーナーを開放していた。

 当然ながら私は、
 スチュワーデスが忙しそうなときには遠慮したが、
 しばしばそのコーナーにいって
 スモーキングを楽しみながら、
 フランス美人たちを見て
 なごやかな気持ちになったのであった。
 彼女たちもけっこう煙草を吸うようで、
 これがフランス風というものかと、後で気づいた。

 というのも、
 エアロフロートでは、意外に喫煙できるコーナーがなく、
 スチュワーデスも乗客席を回る「仕事が終わる」と無愛想。
 今回のJALでは、
 全く仕事姿以外は姿を見なかったという印象であったから。
 やはりそれぞれにお国柄が現れるのであろうかと思っている。

 3回の旅行で
 スチュワーデスの仕事について思うことは、
 日本で国際線のスチュワーデスといえば
 女性の憧れの仕事と言われるが、
 なぜそうなのかわからないということ。
 交通機関として飛行機ほど安全なものはないという。
 それにしても、何かあれば死ぬことが必然。
 それに比して、機上の通常の仕事は
 ウエートレス然としていて、
 この落差について彼女たちはどう思ってるのだろうか?


 添乗員雑感
 今回の添乗員は、50歳がらみのベテラン男性。
 なかなか話し好きで酒もいける。
 後で書くが、
 イタリアのカウントダウンの折には、酒の勢いで、
 われわれパック旅行グループの先頭に立って、
 後方の私たちのグループを置いてきぼりにしてしまった。

 最初のスペイン・ポルトガル旅行の
 真面目な責任感の強い添乗員であったら、
 先ず、そういうことは無かったろう。
 彼の場合、契約社員であったし、
 ポルトガルのカウントダウンでは、
 添乗員の仕事の範囲外なのだろうと思うが、
 私たちとつき合うこともなかった。

 ロシア旅行の添乗員は、30歳がらみの女性で、
 あんまり添乗員の仕事が好きではないらしい。
 彼女も最初は旅行ができるということで、
 「旅行コンダクター」(添乗員)に憧れたらしい。
 しかし、現実の仕事は結構きついわけで、
 ともかく生活のためもあって、仕事を続けているようだ。

 今回の添乗員によれば、
 海外旅行の女性添乗員は
 案外早く辞めてしまう(4年もすれば)ということで、
 そうだとすれば、
 ロシア旅行の女性添乗員は
 長続きしている方なのだろう。


 ミラノ

 成田から直行便で、
 「マルペンサ空港」につき、
 そのままバスでミラノの市街中心にある
 ホテル「ロイヤル・メルキュール」に到着。
 いよいよ、
 イタリア旅行の始まり、ということになった。

 ミラノは、北イタリアの中心地で、
 かつ、今は、イタリア経済の中心地で、
 (これに対して、ローマは消費的都市といえる)
 かつ、ミラノ・ファッションといえば、
 今やヨーロッパ(世界)・ファッション界の中心らしい。
 (わが同行者の受け売りだ)

 また、歴史的には、
 (複雑なので、詳細は他の本を読んで)
 一時、ローマ帝国の首都として繁栄。
 さらに
 イタリア・ルネサンスの中心地の一つであった、
 という歴史的な断面は、ご存じの方も多いと思う。

 バスでホテルに向かう途中、
 イタリア経済の原動力となっている市街は
 かすめて通っただけなので、
 その活況振りを見ることができなかった
 のは残念であった。


 
 今日の夕食はフリーということで、
 とりあえず、
 添乗員と一緒に私たちを含めたグループは、
 ホテル付近の町中にある庶民的なレストランに行った。
 そこで注文した「ピザ」は、
 まさに本場のピザという感じで、
 安くてボリュームもあり結構いける。
 また、適当に総菜などを何品か
 自分で選んで食べることもできる。
 ワインを飲みピザを食べ、
 初日の夕食としては、
 ホテルのレストランで取るよりも満足した。
 庶民的なレストランらしく、
 イタリア人家族や、友人グループ、
 あるいは恋人らしき二人連れなどで、賑わっていた。


 2日目


 『最後の晩餐』

 サンタ・マリア・デレ・グラッツィエ教会

 早朝、一番乗りをするということで、バスで
 「サンタ・マリア・デレ・グラッツィエ教会」に向かった。
 7時半頃ついて、確かに一番乗りとなった。
 しばらく開館までの時を過ごしたが、
 それは、とにかく、混んでしまうと、
 何時入れるか何時出られるか
 分からないからという。

 イタリアの観光名所のなかでも
 指折りな名所観光には、
 とにかく一番乗りが最も有効らしい。
 今回の旅行で経験したのは、
 ここと、
 フィレンツェの「ウフィツィ美術館」と、
 ヴァティカンの「システィナ礼拝堂」であった。

 とにかく、海外パック旅行でも、
 日本人は団体行動で「一番乗り」がやりやすいのであろう。
 引率に慣れた私たちは、不平不満も言わず、辛抱強く、
 早朝の行列を何とも思わないのであった。

 この教会が<何故こんなに>、
 といえば、「知る人ぞ知る」
 レオナルド・ダ・ヴィンチ
 『最後の晩餐』があるから。
 教会付属の修道院の食堂にこの絵があって、
 現物を見る機会はこの場所しかない!!。

 『最後の晩餐』の絵画的な三角形の手法や、
 人物群像と背景の画法、ユダの描き方の特徴などと、
 いろいろと専門的な観点があるが、
 実際に見ると、
 その剥落の激しさはいかんともし難いように見える。
 壁にテンペラ・油彩を使用した結果、
 すでに完成直後に剥落がはじまったともいう。


 下の写真の左奥に食堂への入口がある。

 


 ともかく、1回の入場者数を小人数で制限しながら
 見て回らせるという方法だったので、
 私たちは余裕を持って見て回ることができた。
 しかも、この1月中に修復のために閉館すると聞いて、
 私たちは<なんと幸運なことか>と
 「至福の思い」をしたわけであった。
 こうして、ミラノの観光がはじまった。


 スフォルツェスコ城
 ルネサンス期に作られた城塞。
 ダ・ヴィンチも建築に参加したというから、
 当時の築城術がうかがわれるようだ。
 城の周囲に濠を掘って、「跳ね橋」を作っている。
 現在は、当然、「跳ね橋」ではないが、
 その橋を渡ると城の広い前庭に出る。
 城内のいくつかの建物は、
 現在、「市立博物館」になっていて、
 ミケランジェロが死の数日前まで制作して、
 未完成の『ロンダニーニのピエタ』があるようだ。
 残念ながら私たちのパック旅行の企画に
 博物館見学はなかった。

 ちょうど中庭になっている場所の中央で
 大きく拍手すると、
 周囲の建物から「共鳴が帰ってくるよ」
 というので、何故か私が指名されて
 やってみたがうまくいかず、
 若い人がやったら確かに帰ってきた。

 帰りに城外に出る橋を渡っていると、
 ネコが例のようにのんびり寝ている。
 我が家にやってくるノラネコに似ていた。
 (「シロクロ」「クロシロ」とも)、
 シロクロとは、ほとんど10年ぐらいの付き合い。
 それでも、シロクロは
 決して人に抱かれることを良しとしないで、
 抱かれると身構えて
 いつでも脱出の機会をうかがう。
 
 そこで、ネコはネコで全く同じに見えるが、
 イタリアのネコはイタリア語を理解し、
 日本のネコは日本語を?、
 というような奇妙な感想を懐いた。
 旅行中は町のネコや犬に気を取られることは希で、
 このときだけのようなので、ここに記したわけ。


 イタリアの治安

 ミラノ観光に当たって、
 例のように、
 イタリアの治安状況の話が出て、
 相当悪い状態であることを現地の案内ガイド
 (50歳を超えた?日本人女性)
 から告げられた。

 「泥棒」、すなわち、スリ・掻っ払い、
 置き引きの類の話から、
 例えば、イタリアでは自動車の大型は
 ほとんど見かけないという話しも出た。
 そういえば、派手な大型車はまずもって
 町中に駐車していない。

 スペインでもそうだったが、路駐が多い。
 これは、市街地の建物の構造上、
 駐車スペース(せいぜい建物の中庭ぐらい)がなく、
 路上にほとんど車間距離を置かず
 (逆に言えば、整然としている)
 に駐車しているのであって、
 そこからどうしたら発進できるのか
 分からないぐらいである。

 スペイン旅行の際のガイドの話では、
 要するに
 自動車に対する日本との考え方に違いがあるらしい。
 ヨーロッパ的感覚では、
 車のバンパーは物に当たるのが当たり前で、
 路駐の自動車が発進する際には、
 前後の車をバンパーで押しながら
 発進距離を取るということらしい。
 (車好きな日本人なら震え上がるところか)
 とにかく、ロシアを含めたこの3回の旅行では、
 日本でいえば
 外観上<中古車みたいな>薄汚れた車が
 走り回っているのである。
 イタリアでは、特に、
 ドアロック・ハンドルロックは、
 盗難防止上相当気を使って工夫されている
 ということであった。  

 また、話は前後するが、
 「泥棒」については、
 決してイタリア人がそうなのではなく、
 (イタリア人の名誉のために言っておこう)
 観光客の多い都市には、
 出稼ぎに来る人々や難民、またロマ人(ジプシー)、
 さらには、中国マフィアの上陸がある、
 という話である。
 確かに、イタリアでは、観光客の「外人」も多いが、
 出稼ぎか居住しているか分からないが、
 「外人」(異国人)も多そうで、アフリカンも多くいて、
 まさにイタリアはヨーロッパにおける
 「人種のるつぼ」といってもいいようだ。

 また、日本人も多い。
 「アウトレット・ショップ」では、
 (日本の観光客向けの免税店)
 必ず、日本人スタッフの若い女性が数人いた。

 そういえば、今回の日本人ガイドも女性であって、
 イタリア在住数十年のキャリアを持っている。
 彼女から、イタリアの治安状態を聞き、
 さあバスを降りてから「ドゥオーモ」に行くまでに、
 恐る恐る周囲に目配りしながら
 私たちパック旅行の一行は、
 観光を始めたのであった。


 スカラ座
 エマニュエレ2世ガッレリア(アーケード)

 イタリア・オペラの殿堂「スカラ座」の正面は、
 道路を隔てたスカラ広場からよく見える。
 この広場には中央にダ・ヴィンチ像が立つ。

 ここから何やら工事中の建物の間の狭い通路を通ると、
 エマニュエレ2世ガッレリアに出る。
 ここは、
 ガラス天井を張った十字形をしたアーケードとなっていて、
 天井付近にある絵画や舗道のモザイク模様、
 また、宙ずりにしたかわいい人形などで飾られていて、
 実はアメリカ・ディズニーランドのアーケードは
 ここをまねて作られたという。
 また、周囲は、各種の店が建ち並び観光客で賑わっている。


 写真はガッレリアの中心部
 下の舗道にはモザイク画が描かれていた。

 


 ところで、
 ここで、東洋人の若い女性が数人あちこち、
 舗道に絹のネッカチーフやテーブルクロスなどを広げて
 売っている。
 見た最初は、
 「あれ?、こんなところで、
 日本人の女の子がバイトでもしてるのかな」と、
 つい呑気に思ったのだが、
 よく見ると、中国(?)系らしいし、
 連想からガイドの中国マフィアの話を
 思い出したのであった。

 また、ドゥオーモから帰るときに、
 ここでまた、
 ジーンズをはいた若いかわいい女性が、
 私と同行者二人連れに、
 なにやら段ボールの切れ端らしき物に
 何か書かれたものを見せながら近づいてきた。

 たちまちガイドの話を思いだした私は、
 残念ながら?彼女を避けたのであった。
 というのも、ガイドの注意によると、
 段ボールの切れ端に何か書いたものや
 新聞紙を差し出してくるのは気を付けるように、
 という。
 「ふっと」、それに気を取られている隙を狙って、
 周囲からたちまちポケットやなにやらに
 手が出てくるのだ。
 これがロマ族のスリグループの手口ですよ、と。
 まさしく、本当にそうだった!

 後で聞いてみると、
 他の中年夫婦もそういうことがあったようで、
 やはり私たちもスリグループに狙われたようだ。
 しかしながら、
 聞き知ったばかりの常套手段で近づいてくる
 スリグループも何となく情けない。
 「もっと工夫したら」と言いたいところ。


 ミラノ・ドゥオーモ(聖堂)

 ミラノといえば、この大聖堂に尽きると
 言っても過言ではない。
 確かにヨーロッパ有数の「大聖堂」と
 いわれるだけあって、
 聖堂の尖塔群
 天を目指してグーンと伸びているように見える。
 この聖堂の正面から
 少しずつズーと目線を上げながら尖塔群を見上げると、
 やがて尖塔の先端
 天に伸びて行くような印象を受けるのであって、
 その威容に何か圧倒されるようだ。
 ここに、
 キリスト教的ゴシック建築の真の企図がある、
 と私には思えた。


 


 聖堂の中にはいると、
 ちょうどミサの儀式が行われようとしていた。
 キリスト教徒でない私たちは、
 中央の椅子に座ってミサを受けるわけではないが、
 周りから好奇の目を注ぐことができる。
 司祭たちや聖歌隊の行列がしずしずと歩み、
 中央聖壇の配置にそれぞれついてミサが始まる。

 説教壇に立つ司祭の
 聖句(ラテン語の詩句?)を朗々と
 歌うかのように唱える声を耳にしながら、
 私は聖堂の外に出た。

 聖堂内の照明を絞って暗くした
 (中央聖壇はもちろん照明を当てて明るい)
 厳かな雰囲気から
 (といっても、大勢の観光客がいるので多少騒がしい)
 一歩外に出ると、
 日中の陽光の中であくまでも明るく
 華やいだ雰囲気に変わる。
 聖堂前の広場・公園やガッレリヤに通ずる道は、
 大勢の観光客や子供連れの人々その他いろいろな人々で、
 賑わっているのであった。

 ドゥオーモとは

 「ドゥオーモ」(Duomo)は、
 英語のドーム(例、東京ドーム)と同じだが、
 全くその意味はちがう。
 むしろ、「カテドラル」(聖堂)の意味に
 似ているようだ。
 詳しく知らないが、
 「カテドラル」(聖堂)は
 キリスト教・カトリックでは、
 司教座が置かれていた「教会」を意味するようで、
 一般の教会とは区別されているらしい。
 スペインなどでも「聖堂」と言えば、
 カテドラルというようだ。

 ただ、イタリアでは、歴史的な背景があって、
 都市には必ずドゥオーモがある。
 イタリアの小都市、
 例えばシエナにも、
 ドゥオーモがあって、
 中心広場、市庁舎があり、
 この三者(三位一体)が都市の中枢をなしているようだ。
 したがって、
 とにかく「都市の中心はドゥオーモである」と
 言っても過言ではない。
 そこで、
 司教座が置かれるような都市の「ドゥオーモ」は、
 カテドラル(聖堂)といってもいいと思う。

 特に、かつての古代ローマの中心である
 イタリアでは、
 キリスト教化に伴って、
 (他の宗教は異端・邪教として
  徹底的に排除、かつ滅ぼされた)、
 「ドゥオーモ」が
 キリスト教会(カテドラル)の役割を担わされて、
 こうした均一の都市構造が造られたようだ。

 ただ、「ドゥオーモ」という名称の由来は、
 古代ローマの「バジリカ」(集会場)の役割の
 (ローマ市民の談論風発の場、商取引の場)
 名残ではないだろうか。
 注)何か確かな関係文献にあたって
  こう言っているのではなく、単なる紀行の感想にすぎない。
  「新諸国物語」全編についても同じ。

 このような意味で、
 ミラノやローマなどの大都市も
 ほぼ同じ構造になっていると思う。
 だから、イタリアの都市を旅行するには、
 この「ドゥオーモ」と「広場」(Piazza)を
 目安にすると意外に旅行しやすい。
 ミラノやローマなどの大都市は、
 三位一体を基礎として、
 その周囲に次々と拡張を繰り返して
 造られた都市と考えればいいのではないか。
 その拡張にあたっては、
 広場をつくり主な建物をその周囲に配置した
 ということで、理解できる。
 そこで、イタリアの町案内は、
 簡単に言えば、先ず「広場(Piazza)」を探し、
 (ここに地下鉄駅や、バス路線の中心などがある)
 その周囲に観光したい建物を見つける、
 というので良いだろう。  


 コモ湖

 お昼に「ミラノ風カツレツとリゾット」をとり、
 パック旅行の私たちオプショングループは、
 ミラノの北方、
 バスで山越えしつつコモ湖に向かった。

 コモ湖といえば(記憶違いが無ければ)、
 ニーチェが湖畔に佇んで、
 かの有名な「永劫回帰」の
 イメージを着想した湖である。
 繰り返し繰り返し同じ運命が
 湖のさざ波のごとく寄せてくるならば、
 (古代インド的「輪廻」観を連想できる)
 我々はこの永劫に回帰する運命に
 いかに対処すべきなのか。
 ニーチェの主題に思い馳せながら、
 私はコモ湖を是非一度見ておきたいと思った。


 


 コモ湖は、
 アルプス南麓の湖水地方にある湖の一つで、
 ちょうど「人」字(Y字の逆さ)の形をしていて、
 その左(西)の足下に「コモ」の町がある。
 ここは、古代ローマの時代から
 別荘地、保養地として栄えたようで、
 現在でも、イタリアの有名芸能人などの別荘があるし、
 (例えば、女優のソフィア・ローレン)
 ここに別荘を持つ一般の人々も多いという。
 (といっても、値段は高そう)

 また、この町にも「ドゥオーモ」と
 市庁舎・広場が三位一体のごとくあり、
 湖畔に面した広場は
 保養地・観光地の賑わいを見せている。
 ミラノ・ファッションの店が建ち並ぶ通りもあって、
 高級リゾート地と言っていいのだろう。

 また、電池の発明者、ヴォルタの博物館もある。
 さらに、この町は絹織物の産地として有名で、
 「絹教育博物館」があり、
 この地から出荷された絹の生地が
 ブランド名を付けられて、
 高級ブランド絹製品として売り出されるという。
 そこで、ここにも「アウトレット」の店がある。


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