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 <フィレンツェ編>

 フィレンツェへ
 ミラノ~コモ~ヴェネツィア~ピサ
 と旅行を続けて、
 やっと私たちパック旅行一行は、
 あこがれの「花の都」フィレンツェに入った。
 夕食に「ボローニャ風スパゲッティと豚肉料理」を
 ホテルでとって、
 いよいよフィレンツェの市内観光のため、
 明日も早くホテルを出るというのでおとなしく
 そのままベットにもぐり込んだのであった。


 フィレンツェ

 ウフィッツィ美術館をめざす
 明け方未明というよりも、真っ暗な中を
 ホテルの用意した朝食を食べながら、
 (箱詰の軽食、他にミカン)
 ウフィッツィ美術館をめざして、
 わがパック旅行一行は行動に出た。

 美術館に比較的近いホテルだったので、
 例によって、美術館<一番乗り>を果たすべく
 添乗員が計画した行動だが、
 着いてみると
 何とすでに他の数グループが
 行列しているのであった。
 ひょっとしたら徹夜組もいたのかも知れない。

 薄明がさす頃、
 めざとい両替商のおじさんやら物売りが現れた頃には、
 どうも入場口が違うらしいという噂が飛び交いはじめ、
 「せっかく並んだのに」という動揺が
 わが一行にも広がった。

 他の団体が動き始めていて、
 わが添乗員は一行の動揺を抑えていたが、
 彼も不安げ。
 実際のところ、この日の入場者受付・入口が
 前日までと変更したと分かった。
 これは、わが添乗員の責任というよりも、
 現地情報をいち早く取る旅行業者のシステムの問題か。
 あるいは、
 業者の雇う現地ガイドさんの資質も関係するかも。
 この時は日本人の女性ガイドで、
 今日の変更は全く分からなかったらしい。
 (ガイドさんはどちらかというと、のんびり型か?)

 ということで、かなり前に並んでいたはずの
 わが一行は、結構、後方に位置し、
 9時になって入場開始した。
 (入場整理を人数制限で行っている)
 次の予定を計画していた添乗員の思惑は、
 はずれたのであった。

 ただ、その間には、
 写真を撮ったりする暇もあり、
 (持て余し気味だったが)
 わが一行の人々は、各人で暇を有効利用したことだろう。
 私たちが入場する頃には、
 美術館は二棟建てで、回廊で結ばれているが、
 美術館の周辺やその間の広場は、
 文字通り、長蛇の列をなしていた。

 私たち一行が列んでいるところにやってきた
 日本人若夫婦(?)は、
 「きのうも来たけど、今日も入れない」と嘆いていた。
 「まあ私たちのがんばりとちがうんだよ」というのが、
 その時の私の気分であった。

 つい、こうしたことを記録するのは、
 体験記として、
 観光客としてウフィッツィに入りたければ、
 <努力>が必要ということか。


 ウフィッツィ美術館

 イタリア・ルネサンスの宝庫として、
 <フィレンツェといえばウフィッツィ>ということになる。
 ところで、ウフィッツィ(uffici)とは、
 要するに、英語のオフィスであって、
 かつてメディチ家の事務所、
 また、フィレンツェ公国の行政局があったことから
 由来している。


 この美術館では、
 ボッティチェリの名作『ヴィーナス誕生』や
 『』が、写真撮影できるのだ。
 (さすがにフラッシュは禁止)
 日本の美術館ではとても許されないことが、
 イタリア諸都市の美術館・博物館・教会などでは
 許されている。
 その典型がこのウフィツィ美術館。

 日本では
 小都市の名も知れぬ美術館・博物館などでも
 「写真撮影禁止」の貼り札があるはずだ。
 実は、私の娘がある美術館の学芸員であるので、
 このことを話して、
 もっと日本の美術館ではオープンにしたらどうか、
 特に岡本太郎ならば決して反対しないと思うが
 と注文を付けておいた。

 実際、一般見学者として美術館に行っても、
 見学だけでは「見た記憶は失われる」。
 (私などは全く実感している)
 記憶の劣化を防ぐには、
 その時の『展覧会カタログ』を買う。
 そこでは、編集された写真印刷しかない。
 やはり、自分の記憶に留めるには、
 自分なりのアングルで撮った写真が一番良い。 
 そこからの記憶の喚起力は結構強い、と思う。


 いずれにしても、
 ダヴィンチミケランジェロ
 ボッティチェッリラファエロ
 ティツィアーノフラ・アンジェリコなどなど、
 ルネサンスを代表する天才画家たちの作品が
 目白押しに展示されているので、
 目が回るほどの圧巻である。

 また、初期ルネサンスに影響を与えた
 ジオットなどの<イコン風>の作品も見られる。
 これは、恐らく、ローマ帝国の東西分割後も
 ギリシア正教(オルソドクス)が
 キリスト教文化の正統であって、
 美術・彫刻・工芸作品は
 この正統の流れの中で作られ続けていたのであろう。

 この正統な流れから脱して、
 自己流にイタリア・ルネサンスの画家・彫刻家は
 自分の作品を表現し始めたのであろう。
 歴史的にはローマ・カトリック教会が、
 東ローマ・ビザンチン帝国の衰退とともに、
 ビザンチン教会(オルソドクス)からの独立を果たし、
 西ヨーロッパ世界が
 独自の表現を築き上げようとする時代の流れと
 軌を一にしているといえる。


 聖書と作品

 また、ルネサンスの画家たちの作品群は、
 「聖母子」「受胎告知」など
 聖書を題材にしたテーマが共通にあり、
 それぞれの画家たちが、
 これでもかこれでもかというように、
 同じテーマで競作しているように思える。
  *ルネサンス当時の彼らのパトロンが
   求めていたものに違いないが。
 こうした競作(?)が恐らく彼らの独自な作風を磨き上げた
 要因の一つともいえる。
 それに比べると、現代の画家たちの独自の作風は
 どのようにして創りあげられているのだろうか?


 以上のような感想とは別に、私の目当てとしていたのは、
 フィリッポ・リッピの作品
 「聖母子と二天使」であった。

 以前に何かで見たこの作品の印象の中に、
 このマドンナはどうも聖母マリアらしくなく、
 世俗の若奥様風の可憐な美を描いているようで、
 私は作者のリッピ以上に興味を抱いていたものだった。

 その現物を見て、私の印象はいっそう強まった。
 旅行から帰って、改めてリッピについての解説をみて、
 カルメル会修道士であったリッピが、
 このマドンナのモデルとなったらしい修道女と同棲し、
 当時の有名なスキャンダルとなっていたことを知って、
 「やはりそうか」と自ら合点したのであった。


 ヴェッキオ宮殿とシニョリーア広場

 ウフィッツィ美術館を出た私たちは、
 相変わらずの美術館への長蛇の列を眺めながら、
 隣接するヴェッキオ宮殿と
 その前の広場シニョーリアに出た。
 この宮殿には、かつてのフィレンツェ共和国政庁があり、
 共和政のフィレンツェの中心、
 また、シニョーリア広場では
 集まった市民たちによる決議
 <挙手採決>によって行われたという。
 古代ギリシア・アテネ直接民主政は有名だが、
 アテネのアゴラと同様な地位を
 この広場が占めていたようだ。

 ヴェッキオ宮殿には残念ながら入れなかった。
 シニョーリア広場には、
 ミケランジェロ作「ダヴィデ像」や
 ネプチューンの噴水、
 たくさんの彫刻の並ぶ
 ロッジア・ディ・ランツィ(彫刻廊)があり、
 観光客や地元の人々で賑わっている。

 ここのダヴィデ像はコピーで
 実物は、現在アカデミア美術館にある。
 この像は、フィレンツェの自由と独立の象徴といわれる。
 『君主論』で有名なマキャヴェリが、
 サヴォナローラの処刑後、
 共和国第二書記官長となり、
 またかの有名な
 チェーザレ・ボルジアの野望をくじき、
  *チェザーレは教皇アレクサンデル6世の庶子。
 自由と独立を守ったという。
 それを記念して、
 ミケランジェロによるダヴィデ像が造られた。


 サヴォナローラ

 また、ネプチューンの噴水の近くに、
 丸いブロンズの敷石が埋まっているが、
 これがサヴォナローラが火あぶりの刑となった場所という。
 サヴォナローラは、
 ロレンツォ・デ・メディチの死と、
  *コジモの孫、
   フィレンツェ・ルネサンスの最盛期を現出させた。
 さらに外敵の侵入を予言したことにより、
 民衆の支持を受けた。
  *実際に、フランス軍が侵攻、
   メディチ家の追放となった。

 サヴォナローラは、フィレンツェ市民に
 厳格な宗教的・禁欲的な生活を要求し、
 純真な少年たちによる風紀取締隊を組織して監視した。
 1497年のカーニバルの最終日に、
 シニョーリア広場にばくちの道具、化粧品、華美な衣服、
 卑わいな書物などを集め<虚栄の焼却>を行った。
 しかし、フィレンツェでこのような厳格な政治は続かず、
 98年4月、教皇アレクサンデル6世と対立し、
 異端とされると、民心は彼から離れ
 広場で火刑に処せられ、
 アルノ川に遺灰は捨てられてしまった。


 シニョリーア広場で少し休憩を兼ねてブラブラした。
 地元の人には珍しくも何ともないだろうが、
 騎馬の警官が二人ちょうど広場に来たりして、
 観光客による格好の餌食、
 記念写真のお相手をさせられていた。
 穿った見方をすれば、
 これも観光客用に織り込み済みなのかも知れない。
 シニョリーア広場から
 土産物店が立ち並び賑わう通りを進むと、
 (カルツァイウォーリ通り)
 オルサンミケーレ教会がある。
 ここは、かつての穀物倉庫、
 次いでフィレンツェの商工会館となった。
 この教会の外壁には
 さまざまな業種の守護聖人像があり、
 手に持った道具がそれぞれの業種をあらわしている。
 この通りをさらに真っ直ぐ進んでいくと、
 フィレンツェの象徴、ドゥオーモに出る。


 ドゥオーモ(花の聖母教会)

 4世紀のサンタ・レパラータ教会の上に建てられたが、
 1296年から175年かけて造られ、
 3万人を収容できるという巨大建築。
 白、ピンク、グリーンの大理石による
 幾何学的模様で飾られて、
 富裕なフィレンツェの財力がよく分かり、
 華麗な建築となっている。

 さらに上の大クーポラ(丸屋根)は、
 フィレンツェの大建築家ブルネッレスキの設計により、
 464段の階段を昇ると、
 フィレンツェの街並みが一望できる。
 (私は、とても昇る気持ちになれなかったのだが)
 また、フィレンツェにやって来る人々は、
 このドゥオーモをはるかに遠望して
 フィレンツェに着いたという感慨を抱いたという。

 ミラノのドゥオーモと比較すると、
 こちらの方がより大きく量感があるが、
 ミラノのドゥオーモの方がゴシック建築の尖塔により
 私にとって荘厳さが感じられた。
 また、付属する「ジオットの鐘楼」(ジオットの設計)も有名で、
 繊細なレリーフで飾られている。
 これも414段の階段でテラスに出られる。
 (これもまた、私には昇る気になれなかった)


 洗礼堂

 ドゥオーモの向かいにある八角形の「洗礼堂」は、
 ドゥオーモと同様に、色大理石で美しい建築となっている。
 これには3つの扉が出入り口になっていて、
 ギベルティの作品の東の扉は、
 ミケランジェロが「天国の扉」と名づけたように、
 仕上がりが素晴らしく、
 聖書の物語のレリーフで飾られたものである。
 訪れた人々が触れたため、
 扉全体が金色に輝いているという。
 現在の洗礼堂の扉はレプリカで、
 (日本人が寄付したという)
 オリジナルはドゥオーモ博物館にある。


 自由行動(午後)

 とりあえず、午前中の見学はこうして終わり、
 昼食に中華料理。
  *フィレンツェまできて中華料理とは驚くが、
   パック旅行では案外コースとなっている。
 寿司店など日本料理屋もあるらしいが、
 やはり本格的な和食料理はないようで、
 手軽な中華料理になるらしい。
 食後、わがパック旅行のメンバーは、自由行動をとる者と
 グッチのアウトレット・ショップに向かう者に別れることになった。
 夕食も自由ということだが、
 私たちは添乗員が<上手い>という店に
 一緒に行くことにして別れた。

 自由行動での私のもくろみの第1は、
 これまた何と、フィレンツェで「考古学博物館」というもの。
 ドゥオーモの裏手を周りながら、
 (実際の聖堂では、聖壇のある方の外壁になる)
 地図を手に不案内なフィレンツェの旅に
 乗り出したのだった。
 なるべく細い街路を通るようにして、
 勘を働かせながら、考古学博物館をめざした。
 (私の勘は案外当たる、
  地理・方向感覚は良いと思っている)
 これでいいだろうと細い道を通って出たところが、
 「孤児養育院」のある広場、ここで小休止をとった。
 夜の明ける前に行動開始した今日、
 ちょっと休もうという気持ちになったのは
 実際これが初めてだった。


 孤児養育院
 ヨーロッパ最古の養育院。
 15世紀ブルネッレスキの設計で、正面は
 9つのアーチによるアーケードになっている。
 現在も当時の建築の一部が残っているというが、
 残念ながら分からない。
 また、中の絵画館には
 ボッティチェッリの『聖母子と天使』などがある。
 (今日は休館であったらしい)

 地図によれば、この養育院を右に曲がれば
 すぐ考古学博物館があるという。
 昔のアーチの一つをくぐって、
 (今は十字路になっている)
 右に曲がってしばらく行ってもなかなか見あたらない。
 内心、<ひょっとして勘が狂ったのかな>と
 不安になったが、それでも行ってみると、
 やっと博物館があった。


 考古学博物館

 旅行案内では、
 ローマ期以前の「エトルリアの文明と芸術を
 知るには欠かせない」というので、
 私の第1のもくろみに指定したのだった。
 ルネサンスの絵画・建築ばかりでなく、
 アクセントを付けようと。
 解説パンフは残念ながら日本語版がない(当然か)ので、
 英語版でちょっと分かるぐらいで、
 (辞書を片手にというわけにもいかず)
 事前準備のない私の怠慢さがここで露呈し、
 正直言って「よく分からない」で終わった。

 その代わり、次のエジプト部門の展示では、
 ミイラ3体を見た。
 フィレンツェでエジプトのミイラを見るのは
 予期していないことだったので、
 エトルリア部門の代償にしげしげと眺めていた。
 発見された当時のママに展示してあるらしく、
 焼けこげた跡のあるミイラもある。

 ヨーロッパでは、ナポレオンのエジプト遠征をきっかけ、
 あるいは、それ以前のオリエント熱が
 ナポレオンの遠征を企図させたのか、
 いずれにしても、
 オリエンタリズム(現代風に言えば、異文化体験)が
 流行したようで、
 前回のロシア旅行の際にも、
 サンクトペテルブルグのネヴァ川河岸に
 エジプトから持ってこられたという
 小型のスフィンクス像が配置されていた。

 その他、意外に館内は広く、
 20室以上の展示室があり、現代の企画展も行われていて、
 日本語版解説パンフがあれば、
 内容的には充実した様子がもっと分かったと思う。
 私の中学生程度の英語力が残念。
 再びフィレンツェに来る機会があれば、
 事前準備してこの博物館を再訪したいと思う。
 ルネサンス芸術に溢れたフィレンツェの
 「わさび」といった味付けを味わうのも良いか。

 サン・マルコ広場

 次の予定は、
 アカデミア美術館サン・マルコ美術館であった。
 サンマルコ美術館はかつてのドメニコ修道院で、
 その修道僧であったフラ・アンジェリコとその弟子たちによる
 フレスコ画で有名。
 フラ・アンジェリコの『受胎告知』や、
 例のサヴォナローラの僧坊も残っているという。

 アカデミア美術館は、
 別名ミケランジェロの美術館
 彼の『ダヴィデ像』のオリジナルがあり、その他の彫刻作品も。
 また、リッピボッティチェリなど
 フィレンツェ派絵画が収蔵されている。

 ところが、博物館で意外に時間がかかり手間取ったために、
 サン・マルコ広場に着いた頃には、
 両美術館ともに閉館してしまっていた。
 もともと博物館に興味がなかったわが同行者は、
 アカデミア美術館で『ダヴィデ像』を見るつもりでいたため、
 すっかり「おかんむり」になって私に非難轟々であった。
 それで、すっかり疲れたのでサン・マルコ広場でしばしの休憩をとった。
 このサン・マルコ広場はそれほど広くなく、
 中央に公園の緑と休憩できるベンチもあり、
 近所のおじいさんといった風情の人もいた。

 自由行動の後半
 気を取り直して、私たちは再び、
 メディチ・リッカルディ宮など、
 自由行動の後半部に乗り出した。
 途中、銀行があったので両替をしようと入ったところ、
 出入り口には何と鍵がかかっていて、
 銀行員が鍵を開けた。
 ここでも、<用心深い>イタリア(ヨーロッパ?)
 という印象を持った。
 無事両替を済ませた後、私たちは、トイレ休憩を兼ねて、
 喫茶店に入った。
 店員の女性には英語が通じないので、
 イタリア定番のカプチーノを頼み、ここでしばらく休息した。  


 メディチ・リッカルディ宮

 再び、気を取り直した私たちは、
 この街路にあるはずのメディチ・リッカルディ宮をめざして
 歩いていたが、どう もそれらしきものがない。
 それで、何か展示を行っているらしい建物の入って
 中庭に出ると庭園があり、何となくまあ一般の建物と違う
 という印象を持っていたところ、
 観光客らしき人々、若いカップルや数人のグループも来た。
 ここには、
 有名なゴッツォリ作『東方三賢王の礼拝』があり、
 やっと私はメディチ・リッカルディ宮は
 <ここだ>、と合点した。

 一般に、ヨーロッパでは、
 歴史的な建築物は石造で、
 (大理石その他、または粗石、あるいは煉瓦)で、
 そこに数百年も居住可能、
 または同様なものを再構築可能なわけで、
 一般の人々の住居か由緒正しき建築物か
 分からない場合も多い。
 このメディチ・リッカルディ宮も
 その一つであるが、
 コジモ・ド・メディチは、
 彼のフィレンツェ支配を目立たなくさせるために、
 (「ねたみ」、「そねみ」に気を配り)
 建築家ミケロッツィに、この宮殿を建てさせたという。
 1460年から約100年間、
 メディチ家の屋敷として使われたようだ。
 確かに、現在でも、外見上一般の建物と変わらないので、
 私たちのような、事前の見学準備もほとんどしないような
 観光客はそのまま見過ごしてしまうかも知れない。

 また、日本語訳の「宮殿」、
 イタリア語(パラッツォ、palazzo)、
 英語風パレスは、
 どうも、日本人の我々には
 大きな「邸宅」または「屋敷」のイメージの方が
 わかりやすいと思うのだがどうだろうか。
 宮殿というとディズニーランドの「宮殿」、
 白雪姫の「お城」というような
 イメージがあると思うのだが、私だけの偏見だろうか。
 このことは、私の初めての海外旅行、
 スペイン・ポルトガル編でも感じたことだが、
 どうも私の偏見らしい。
 ヨーロッパの宮殿(イコール日本の天守閣を備えた城郭)の
 イメージが私には強くあるかららしい。
 要するに、ヨーロッパの宮殿とは、
 都市内部にあっては、石造建築物の「大邸宅」を
 意味すると考えれば良いのだろう。
 ヨーロッパ中世以来、自治都市では、
 周囲に城壁をめぐらし
 中心にはドゥオーモ(カテドラル)を配置した構図により、
 都市全体がある意味では「宮殿」であったと
 理解すれば良いのかも知れない。
 その都市内部に
 王ないし支配者の「大邸宅」(=宮殿)があったという理解。


 サン・ロレンツォ教会
 メディチ家礼拝堂

 こうして、見過ごしてしまったかも知れない
 メディチ・リッカルディ宮を後にして、
 私たちはサン・ロレンツォ教会と、
 付属するメディチ家礼拝堂に着いた。

 サン・ロレンツォ教会は
 メディチ家代々の菩提寺である。
 ここには、ブルネッレスキによる旧聖器室がある。
 また、メディチ家代々により収集された古文書1万冊を収蔵した
 ミケランジェロ作の「ラウレンツィアーナ図書館」がある。
 教会の裏手の入口からメディチ家礼拝堂に入ると、
 「君主の礼拝堂」がある。
 すでに権力を喪失したメディチ家が
 17世紀に「富と虚栄」を示すために、
 貴石と大理石とをふんだんに用いて建てた礼拝堂というが、
 照明を落とした暗く広い空間と、
 四方の壁にロレンツォ2世など記念碑があり、
 深閑とした雰囲気が現在も保たれている。
 しばし、ここで、フィレンツェと
 メディチの栄華と落日について、
 瞑想に耽ることも良いだろう。
                      
 また、ここには、ミケランジェロ設計による
 「新聖器室」があり、
 彼による有名な彫刻、「ロレンツォ2世の墓」と、
 ロレンツォの足下の「」(女性像)と「黄昏」(男性像)、
 「ジュリアーノの墓」
 および「昼」(男)、「夜」(女)が配置されている。


 サンタ・マリア・ノヴェッラ教会

 サン・ロレンツォ教会とメディチ家礼拝堂を後にして、
 途中フィレンツェ中央駅前の広場の
 人と車の行き来・雑踏を目にしながら、
 サンタ・マリア・ノヴェッラ教会に着いた。
 この教会は寄せ木細工のようなフォーサイドで知られている。
 この教会は、結構大きく、教会内部の両サイドに
 フィレンツェの名門家の礼拝堂が複数ある。
 例えば、ゴンディ家の礼拝堂があり、
 そこに「ブルネッレスキの十字架」がある。
 一般に、ヨーロッパの比較的大きな教会内部には
 こうした礼拝堂があり、
 そこには、ある名門一族、町や都市の
 何らかの由来・歴史が物語られているのだろう。
 また、一般に教会内部は周囲の照明を落とし
 暗く厳かな雰囲気に包まれているが、
 大きな教会では観光客用なのだろうか、
 中にはコインを入れると、
 絵画や彫刻などのその部分だけに
 数分間照明スポットを当てる装置があって、
 その間に写真を撮ったり見入ったりすることができる。


 フィレンツェの夜の散策1

 サンタ・マリア・ノヴェッラ教会の正面前は
 ベンチのある小公園となっていて、
 そこで小休止をとった後、
 そろそろ午後の黄昏が迫っているので、
 私たちは次ぎにヴェッキオ橋をめざして歩き始めた。
 途中、小街路を通りながら 
 あっちかこっちかと行くうちに、
 とうとう道が分からなくなったが、
 とりあえずアルノ川にたどり着ければ良い
 と気にせず歩いた。
 フィレンツェのような観光都市は
 大通りを歩くと人々の雑踏。
 ちょっと小通りに入るとほどんど人気のない状態になる。
  *これは、ロシア・サンクトペテルブルグでも感じたことであった。
   それは、例のラスコーリニコフの下宿探しの時。
 今は、すでに薄暗がりとなっていたので、
 そうなるのかも知れないが。
 すっかり暗くなったので、私の同行者は、
 例によって人通りもないこんな夜道を歩くのは
 「危ない危ない」と連発し、人にしがみつかんばかりであったが、
 アルノ川の川岸に出るとようやく安心したらしい。
 河岸通りは狭くて2車線しかないが
 車の行き交いや人通りも多い。


 ヴェッキオ橋

 フィレンツェ最古の橋。
 第2次大戦でも破壊されなかった。
 この橋をナチス・ドイツ軍と、抵抗するパルチザン部隊が
 行き来したということになる。
 このヴェッキオ橋は、橋というよりも、
 「橋を利用した商店街」と言った方がよいかも知れない。
 普通の橋のイメージとは違って、
 道の両側に彫金細工店や宝石店がぎっしり軒を並べている。
 しかも2階建てと言ってもいい。
 というのも、この橋の建物の2階部分は、
 ウフィッツィ宮(現、美術館)と、
 アルノ川左岸にあるピッティ宮を結ぶ通路として
 ヴァザーリによって作られ、小さな車も通ることができたという。
 (現在も、ヴァザーリの回廊があるが、予約しないと入れないらしい)。

 今は、宝石・貴金属・金銀細工の店が多く並び、
 しゃれた印象で賑わっているのだが、
 かつて(13世紀ころから)は、
 肉屋やなめし革屋などの市場として
 賑わっていたようで、異臭を放っていたらしい。
 宮殿近くで異臭を放つのを嫌ったフェルディナンド1世が
 1593年に市場を撤去して、
 それ以後、宝石店などが立ち並ぶようになったという。
 確かに臭いのはイヤだろうが、
 人々が多く集まる宮殿近くに
 食糧市場の一つである肉屋の市場がある、
 という方が自然な感じがする。


 フィレンツェの夜の散策2

 いずれにしても、
 宝石類で目の保養を楽しんだ(それだけにさせた)
 私の同行者は、元気を取り直したようだ。
 この午後の自由行動の最後に、
 夕食の約束のためにドゥオーモ前の洗礼堂をめざして
 私たちは行動を開始した。
 今度は私の同行者は例の「危ない危ない」もなしに、
 とある通りで、めざとくガラス細工の店を見つけ
 そこで「ピエロの小さなガラスの像」を見つけて買った。
 ロシアの有名なガラス工芸店のものだと言うのだが、
 「フィレンツェでなんでロシアなんだ」という
 私の主張を退けて、強引に買ったのであった。
 現在、我が家の居間のテーブルの上に飾ってあるが、
 ちょっと目に見てそんな高価なもののようでもないのに、
 (日本の100円ショップで十分買えそうな気がする?
  ちょっと無理かな) 
 と思うのだが。

 こうしつつ、シニョリーア広場にまで辿り着くと、
 広場は昼間見た印象と一変していて、
 街路灯で煌々と明るく、
 あちこちで舗石に品物を並べた露天売りの人々や、
 (アフリカン系らしきのグループもいる)
 若者のグループなどで、
 昼間と違った賑わいであった。
 そういえば、昼間は観光客や子連れの夫婦が多く、
 地元の若者のグループらしきものなど
 余り見かけなかったようだ。  
 
 かくして、今日の自由行動は終わった。
 夕食にトスカーナ地方の白ワインを一瓶注文し
 「子牛の肉料理」(何という名か忘れたが)を食し、
 とりあえず私としては夕食にも満足して
 ホテルに帰ったのであった。





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