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 <シエナ編

 フィレンツェから私たちは
 次の予定地シエナへの旅に出発した。
 アルノ川左岸にあるミケランジェロ広場から
 フィレンツェの早朝の眺望を見渡して、
 名残を惜しみながら
 一路シエナに向かったのであった。

 シエナ

 シエナという町は日本では余り知られていない。
 (実をいうと、私も知らなかった)
 しかし、トスカーナ地方の古都として、
 ルネサンスの時期には
 フィレンツェに負けず劣らずの文化都市であって、
 絵画史上の<ルネサンス・シエナ派>を形成した。

 現在も、
 糸杉とブドウ畑に囲まれた小都市として、
 古い石畳の通りや古い町並みを残し、
 起伏が多く階段や細い路地を歩いていると、
 <町をさ迷う>というような感じがある。
 ガイドさんの後ろを着いて行きながら、
 あちこち曲がりくねり階段を上下して、
 どうも方向感覚が怪しくなる。  


 カンポ広場

 町の中心にあるカンポ広場は、
 扇形に広がり、なだらかなスロープになっている。
 (「すり鉢状」、野外劇場の階段状の観客席ように)
 そして広場の底にあるのがブッブコリ宮殿で、
 市庁舎兼美術館になっている。
 残念ながら、今回は中に入れなかった。

 このブッブコリ宮殿の左隣には、
 「マンジャの塔」があり、
  (マンジャとは、中世の鐘つきの頭領の名前という)
 高さ102mの煉瓦造りの塔。
 この塔の下にあるのが、「広場の礼拝堂」で、
 14世紀のペスト流行の終焉を感謝して建てられたという。
 また、広場の中心には「ガイアの泉」がある。

 また、この広場では、
 「パリオ」という伝統的行事が
 7月2日と8月16日に行われる。
 中世装束のパレードに引き続き、
 裸馬に乗った競馬が行われる。
 「パリオ」(町の旗)を振りかざして、
 裸馬に乗って、
 この広場を3周するらしいが、
 スロープのある広場を
 どう駆けめぐるのか分からない。
 周囲の見物人の熱狂に煽られてか、
 時には落馬して死者が出るほどであるという。
 中世以来、
 近郊の町からパリオをもって集まり、
 競馬で競ったことから始まったようだ。
 現在、パリオ祭の時期にはホテルも満杯で
 4ヶ月以上前から予約する必要があるという。


 ドゥオーモ

 シエナのドゥオーモもなかなか素晴らしい。
 ローマ旅行の記念に年賀状に使ってみたのだが、
 ヨーロッパのカテドラル(大理石造り)の典型の一つ
 といって良いだろう。
 外壁の縞模様の大理石、
 内部の床面には、56の宗教場面が
 大理石の象嵌で表現されていて、
 立っているとその一部分しか見えない。

 このドゥオーモも12世紀に着工されて
 14世紀末に完成したという。
 スペイン・ポルトガル旅行記にも書いたと思うが、
 ヨーロッパの中心的な石造建造物は
 百年単位で着工・完成されるという
 「息の長さ」を感じさせられる。
  (完成への意気込み)



 ローマ編

 シエナからローマへ
 シエナ市内観光を終えた私たちは、
 いよいよ首都ローマに向かう。
 イタリアの高速道路は便利で、
 料金所で一時停止することもなく通過できる。
 車のナンバーを写真に撮って後で
 料金請求するシステムになっている。
 もちろん、
 全部が全部そうなっているわけではなく、
 こうした契約の車が通る
 特別のゲートがあるということ。

 夕闇が迫る頃、私たちのバスはローマ市内に入った。
 大きなボルゲーゼ公園を横目に見ながらしばらく進むと、
 ローマでも有名な「ヴェネスト通り」。
 高級ホテルやブティック、しゃれたカフェなどが並び、
 観光客やカップルで賑わうという。
 車窓からでも、さすがローマの繁華街という雰囲気が
 手に取るように分かる。
 夜のネオンに映えて、町並と行き交う人々の姿も、
 映画で見るローマの1シーンのようだ。
 かつての貴族の館であったアメリカ大使館などを見ながら、
 ローマ中央駅「テルミニ駅」の近くにある
 私たちのホテルに到着した。
 ヴェネスト通りの豪華ホテルというわけにはいかない。


 ローマ

 自由行動

 半日の自由行動ということで、
 私と同行者は、「スペイン広場」と
 「トレヴィの泉」をめざすことにした。
 朝の朝食から何となく立ち上がりが遅くて、
 半日自由行動といっても3時間程度しかない。
 だから、残念ながら「ポポロ広場」まで行くことは
 あきらめた。
 フィレンツェの自由行動の時は結構歩いた。
 今度はのんびり行こうという気持ちが
 潜在的にあって、そうさせたらしい。


 テルミニ駅周辺

 「終着駅」という名が示すように、
 この駅を通過する列車はない、行き止まりの駅。
 ローマ中央駅として、
 大理石とガラスをふんだんに使った、
 明るい近代的な建物となっている。
 この駅は、ムッソリーニによって建てられたという。
 ファシズムの元凶、ムッソリーニだが、
 彼の構想による建築物は、
 案外、良さそうなものがあるようだ。
 自己の権力を誇示し、
 偉大なローマ帝国の復活を夢見た男によって、
 独裁権力をもってすれば
 際立つ建築物が出来るということらしい。

 ただし、イタリアの(もしくはヨーロッパの)鉄道の
 主要駅の周辺は、どうも観光客に評判が悪い。
 特に夜の中央駅には近づかない方がよいと、
 添乗員も言い観光ガイドさんも言う。
 かつての東京の上野駅は
 地方から東京に出入りする起点であった。
 かつての上野駅のイメージと似ているようだが、
 ローマともなれば、
 EU圏の、さらにはその圏外からの
 人口流動の中心の一つとなっているようだ。

 さらに、
 イタリアへの難民(アルバニアなど)流入もある。
 ホームレス化して夜の中央駅で
 一夜を過ごす人々も多いのだろうか。
 地下鉄テルミニ駅の地下道を通ると、
 朝から坐り込んで
 周囲をうかがうような人もいるわけだが、
 別に危害を加える様子もない。
 東京でも似たような状況はあるので、
 私にはほとんど気にならないのだが。

 テルミニ駅の正面にある
 チンクェチェント広場は、
 一大バスターミナルでもあり、
 多くの人々で賑わうという。
 夏には周囲の木陰で涼をとる人たち、
 屋台やみやげ物屋がでるという。
 今は冬でそうした賑わいの様子は余りない。
 返って静かな公園広場の趣であった。
 この広場は、エチオピア戦争の折に、
 (ファシズム・イタリアによる「エチオピア侵略」と、
  私などはつい言ってしまうところだが)
 戦死した兵士の慰霊を記念としてつくられたようだ。 

 ローマの地下鉄は、テルミニ駅で
 交差するA線・B線しかなく、
 大都市ローマにふさわしくないと思うのだが、
 ローマの地下は遺跡遺構だらけで、
 掘れば掘るほどそれらに
 ぶつかってしまうらしい。
 ローマに比較すれば
 歴史の浅い東京・江戸の町とは
 どうやら事情が違うようだ。
 テルミニ駅から地下鉄に乗って、
 3つ目がスパーニャ駅で、
 ここを降りるとすぐスペイン広場に出る。


 スペイン広場

 とにかく有名。
 したがって私たちのような外国人観光客で、
 それほど広くはない広場に、
 何かお祭りの縁日かのように
 人が群れているという感じになる。
 そういえば今日は大晦日の12月31日であった。

 映画「ローマの休日」のシーンで
 有名な「スペイン階段」も、
 際だって素晴らしいというわけでもない。
 こう言ってしまうと、
 何か意地悪バアさんのようで、
 せっかくの観光気分に水を差すようだが、
 「イタリア人が設計し、
  フランス人が払い、イギリス人が徘徊し、
 今ではアメリカ人が占領する」
 と言われるこの階段は、
 現在は、外国人観光客によって占拠された、
 という風情。
 上に記した名文句の由来は、
 1725年にフランス大使の援助により
 この階段が作られ、
 広場にスペイン大使館があり、
 付近に英国人が多く住んでいたことから。 

 階段の手前には「小舟の噴水」がある。
 かつてテヴェレ川が決壊した折りに、
 ここまで小舟が水に浮かんで運ばれた
 ということに由来する。
 階段を昇ると、
 古代エジプトのオベリスクが立ち、
 その奥に、
 「トリニタ・ディ・モンティ教会」がある。
 南フランスのゴシック風の教会といわれるが、
 小ぶりの教会で
 外壁の装飾も整っていてなかなか良い。

 スペイン広場を後にして、私たち(同行者)は、
 観光客とみやげ物屋や露天の屋台などで賑わう通りを
 ブラブラと歩き、
 立ち止まっては店をのぞきこみながら、
 トレヴィの泉に向かった。
 途中、私の習性として、例のように、
 路地裏のような人けのない道に探しながら。
 ということで、途中、道を間違えてしまったが、
 トレヴィの泉に出た。


 トレヴィの泉

 ここもあまりにも有名。
 肩ごしにコインを投げると、
 再びローマに戻れるという諺が知られているが、
 その話には尾ひれが付いていて、
 「2つ投げると恋人に出会い、
 3つ投げると結婚でき、
 4つ投げると離婚できる」というらしい。
 さて、あなたは何個コインを投げますか??。
 カトリックの国、イタリアでは離婚は難しいらしい。
 4つ投げて離婚したいという願望が、
 イタリア人男女には多いのかも知れない。

 ここも、外国人観光客が群れていて、
 泉の周囲は人集りが出来ている。
 こういう場所では、「懐中ものにご用心」という
 添乗員やガイドさんの言葉を思い出しながら、
 私も肩ごしにコインを投げた。さて、何個だったか?
 それは秘密。
 ともかく、背後の宮殿を借景として取り入れた、
 海神ネプチューンとトリトンの彫像が
 見事に躍動している。
 教皇クレメンス12世の噴水コンクールで
 優勝したニコラ・サルヴァの設計という。
 なお、トレヴィとは<三叉路>の意味。

 トレヴィの泉からさてどこへ向かおうかと、
 私たちは思案しながら、
 とりあえず、地下鉄乗り場に近い場所をと、
 「蜂の噴水」に向かった。
 バルベリーニ広場の地下鉄駅と
 ほど近いところにあるので。
 トレヴィの泉からどれくらいか分からないし、
 帰りの時間もあるということで、
 「蜂の噴水」に着いた私たちは、
  (バルベリーニ家の紋章を象ったもの)
 ほっと一息ベンチで休んだ。
 ところが、この付近には、
 「骸骨寺」があったのだった。
 「サンタ・マリア・ディ・コンチェツィオーネ」、
 通称「骸骨寺」の地下納骨堂には。
 カプチン派の僧4000人の人骨が
 飾られているのだ。
 そうとも知らずに、
 地下鉄に乗ってしまって、
 後の祭りとなった。残念無念!!。


 三々五々、ホテルに帰り着いた
 私たちパック旅行の一行は、
 昼食に添乗員に案内されて、
 近くのレストラン(兼居酒屋風)に向かった。
 「アサリのスパゲッティと舌平目のフィレ揚げ」
 というメニューだったが、
 このレストランの女主人は日本人女性で、
 挨拶によると、
 大学を出てしばらくしてイタリアに来て、
 イタリア人のご主人と出会い・結婚した。
 もう30年ほどイタリアに住んでいるとのこと。
 50代後半ぐらいの年齢と思うが、
 元気いっぱい、
 <肝っ玉おっかさん>のごとく、
 レストランを切り盛りしている。


 市内観光

 バスでの市内観光は、
 前にも記したかも知れないが、
 車窓による見学の場合、
 どこをどう通っているのか
 分からなくなってしまうところが欠点。
 特に、私のような事前準備のない怠慢な人間
 となると、そうなる。
 例えば、古代ローマ水道橋として
 有名な「ポルタ・マッジョーレ」を、
 (いわゆる「凱旋門」のような
  見事な大理石造りの門の上に
 、水道の溝がある)
 サン・ピエトロ寺院に行く途中であったのか、
 コロッセオへ向かう途中であったのか、
 分からない、など。
 また、「フォロ・ロマーノ」を見たのは、
 確か、サンピエトロからコロッセオへ向かう
 途中だったはず、<かなぁ>などなど。

 いずれにせよ、
 ローマを半日の見学でお終いにするとは、
 ほとんど見ないに等しいのだが、致し方ない。
 とにもかくにも、めまぐるしい様にして、
 半日市内観光を行った。

 途中下車観光したのは、
 トレヴィの泉サン・ピエトロ寺院
 コロッセオだけ
 なので、何とも仕方ない。
 特に、トレヴィの泉は、午前中の自由行動で
 すでに見てしまっている。
 私の同行者は、そのことで私に文句を言う。
 自由行動では、
 「あんたに任せてしているのに、
 なんで気づかないの」と。
 そうお叱りを受けても、後の祭り。
 自分だってそのぐらい案内パンフで
 「知っていてもいいじゃないか」と。
 このように、
 旅行業者の見学予定パンフに
 書かれていることも
 見ないという怠慢振りは、
 決して私ばかりでなく、
 わが同行者ももつ共通の欠点。


 サン・ピエトロ広場

 歌劇『トスカ』の舞台ともなったという
 「サンタンジェロ城」を横目に見て、
 (現在は国立博物館)
 コンチリアツィーネ通りを進み、
 私たちのバスは
 サン・ピエトロ広場のすぐそばに到着した。
 サン・ピエトロ広場に入るには、
 イタリア共和国と
 ヴァチカン市国との国境線を
 通らなければならない。
 私たちは、恐る恐る、
 この国境線を通過しなければならなかった。
 ・・・というのは間違い。
 「ともかく、ここが国境だよ」というように、
 申し訳程度に、確かわずかばかり、
 チェーン鎖が施してあった
 ような記憶があるが、
 それも間違いかも知れない。
 しかしそれでも立派な国境線であって、
 ヴァチカンは<独立国>なのだ。
 この独立を承認したのは、
 かのムッソリーニであって、
 1929年のこと。
 1870年、イタリア統一を果たした
 ヴィットリオ・エマヌエル2世
 武力でローマを教皇から奪う。
 それ以来、
 イタリアとヴァチカンの対立が潜在的にあった。
 ラテラーノ協約によって
 「和解」(コンチリアツィオーネ)し、
 教皇と国王の主権を相互に承認した、という。

 サン・ピエトロ広場は、
 バロックの天才ベルニーニの設計によるという。
 広場を囲む
 半円形の左右のドーリア式列柱による回廊があり、
 その上に140人の聖人像がある。
 また、広場の中央には、
 エジプトから運ばれたオヴェリスクがある。
 このあたりで、
 ローマで布教するペトロ(サン・ピエトロ)が
 迫害によって逆十字架にかけられ、殉教したという。
 ペトロ、すなわち「岩」、このペトロの礎の上に
 ローマ教会(カトリック)が建立された。


 サン・ピエトロ寺院

 今日は大晦日で、ひときわ観光客も多いらしい。
 ただ、残念ながら修復工事中らしく、
 寺院は大きな白い幕で覆われていて、
 寺院のフォーサイドの威容は見られない。

 そうであっても、私たちは、
 人混みをかき分けかき分けといった風情で、
 行列をつくりサン・ピエトロ寺院の入口をめざした。
 途中で、
 「ヴァチカンの衛兵」が、
  *1506年、教皇ユリウス2世によって
   創設されたスイス衛兵隊。
   スイス人は中世以来、
   ヨーロッパ各国の傭兵となって
   活躍していた。
 じっと微動だにせずに立哨する姿を
 カメラに収めるという余裕はそれでもあった。
 この時の衛兵さんは実に見事で、
 文字通り微動だにせず、
 「眼(まなこ)も動さず」という立哨姿。
 さすがカトリックの総本山の衛兵、
 良く訓練が行き届いていて、感動的。


 入り口から入ってすぐの回廊には、
 有名なミケランジェロ作『ピエタ』がある。
 暗がりでちょっと見にくい。
 この寺院の大クーポラは、
 (観光予定になく、昇ることは出来なかった)
 ミケランジェロの設計という。
 その下に教皇の祭壇があり、
 ベルルーニの「ブロンズの天蓋」で有名。

 さすがにカトリックの総本山らしく、
 サン・ピエトロ寺院の内部の空間は高く広く、
 内部装飾もバロック美術の傑作となっている。
 また、4半世紀毎にのみ開かれるという
 壮大な扉があり、
 来年の千年期(ミレニアム)のこの時期に展覧され、
 ぬいぐるみに包まれた赤ん坊の像(イエス)が
 安置されているという。

 サン・ピエトロ広場にも、
 馬小屋の中で誕生したイエスを
 祝福した様子が作られていた。
 ただ、日本では馬小屋だが、
 どうも羊小屋のような気がする。
 誕生したイエスの前には、
 どう見ても子馬というより
 子羊といった方が良さそうな
 数匹の「羊らしきもの」がおかれている。
 パレスチナの風土からして、
 馬より羊が似合う。
 どうやら私は大発見をしたようだ?
 イエス伝の<誤訳>から
 日本では馬小屋になった!!

 コロッセオ

 今日はシスティーナ礼拝堂に入る予定がなく、
 私たちのバスはコロッセオに向かった。
 途中、ヴェネツィア広場とフォロ・ロマーノを
 車窓観光しながら通過した。
(ということはじっくり見ている暇もなく)

 ヴェネツィア広場はローマ市の中心の一つ。
 「ヴィットリアーノ」、
  (ヴィットリオ・エマヌエーレ2世記念堂)
 そのバルコニーからムッソリーニが
 広場に向かって演説したという
 ヴェネツィア宮殿
 (映画などのシーンで有名)
 この宮殿の名の由来は、
 かつて繁栄したヴェネツィア共和国の大使館が
 ここにあったことによる。
 そしてまた、
 独裁者ムッソリーニの執務室があった。
 現在は博物館・図書館となっているようだ。

 ヴェネツィア広場から
 フォリ・インペリアール通りを通りつつ、
 フォロ・ロマーノを見ながら、
 コロッセオについた時分には、
 そろそろ夕闇が迫る気配。
 結局、コロッセオの中に入れず、
 外壁の割れ目から少し中を覗き、
 日本人女性ガイドさんの説明を聞き、
 ということでしかなかった。
 コロッセオの近くには、
 「コンスタンティヌスの凱旋門」がある。

 パック旅行では、自由行動の時にしか
 自分たちの思い通りの観光は出来ないのだが、
 自由行動による思い通りの観光となったら、
 どれだけのロス時間があるかわからないということで、
 プラスマイナスの計算をしても致し方ない。
 まあ、古代ローマ帝国のローマ人たちが
 こんなでっかい円形闘技場をつくり、
 剣奴たちを闘わせ、馬にひかせた戦車を走らせ、
 (映画、『ベン・ハー』の1シーンが思い浮かぶ)
 権力者たちがローマ民衆に
 『パンと見せ物』を提供していたのだ、
 という感想を改めて実感した。

 『コロッセオが滅びるとき、
 ローマは滅び、その時世界も滅びる』という。
 しかし、世界は滅びず、
 2000年の時を経て、
 わが日本人の一旅行者に
 コロッセオの栄華を偲ばせている。
 つい私は、コロッセオの剥き出しの壁を
 ちょと壊して失敬してみようかな、
 と思ったがやめた。
 観光客に剥き出しの遺跡・遺構が
 そこら中にあるのがローマらしい。
 日本であったら、すぐに周囲にロープを張り、
 観光客に触らせないようにしてしまうだろう。


 カウントダウン

 夕食はカンツォーネディナーショー
 ということであった。
 劇場のステージで
 カンツォーネを歌うの聴きながら
 ディナーを楽しむのかな
 と思っていたところ、
 意に反して、
 居酒屋風のレストランで、
 カンツォーネを歌う芸人が、
 客席を回りながら歌う。
 観光旅行の日本人客が多いということで、
 向こうはサービスのつもりらしく
 「スキヤキ・ソング」などの
 日本の歌を披露する。
 結局、
 イタリアの本格的なカンツーォネショーではない。

 ということで、
 どうも、気に入らなかったらしいと感づいたのか、
 (もともとそう想定していたのか)
 添乗員が
 「カウントダウンを見に行きましょう」と、
 提案してきたのであった。
 この添乗員さんは、
 酒好き話し好きの50がらみのオジサンである。
 前に記したと思うが、
 最初のスペイン・ポルトガル旅行の
 40がらみの添乗員さんは「えらく堅物」で、
 ポルトガルでの
 「カウントダウンに行きましょう」
 とは言わなかった。
 結局、私と同行者は
 途中引き返しざるを得ない事情により、
 ポルトガルでのカウントダウンを
 味わえなかったのであった。
 今度は添乗員さんから
 積極的に「行こうよ」という提案。
 わがパック旅行の皆さんも大いに乗り気になって、
 集合場所、今日の昼食のレストランに
 (肝っ玉おっかさんの)
 結構多く集まった。 


 めざすヴェネツィア広場は、
 私たちのホテルからも20分ぐらいのところにあり、
 レストランで一杯引っかけていい気分になった
 私(たち十数名)は、添乗員を先頭に群をなしてを出かけた。
 途中、広場に向かう人々もどんどん多くなり、
 広場に到着する頃には、
 人混みをかき分けかき分け進むという状態になった。
 ワイワイガヤガヤ全く無秩序状態の中を、
 広場中央の架設ステージに向かった。
 (そこでは、ライブコンサートが盛んに行われている)
 文字通り、立錐の余地なく、という中を
 わがグループは離れないように「おしくらまんじゅう」しながら、
 いよいよカウントダウンの時を迎えたのであった。

 カウントダウンの瞬間、
 一斉に、シャンパンやワイン・ビールが抜かれ、
 爆竹がならされ、テープが飛び、花火があがり、
 群衆の大歓声があがった。
 カウントダウンの興奮の中、
 なおも私たちの群は、添乗員を先頭に、
 広場中央のステージの正面に向かったのだが、
 とうとう、私と同行者のいたあたりと、
 先頭のグループは途切れてしまった。
 ちょうど、私たちの群は長い鎖のようになっていたので、
 鎖の途中がちぎれたという状態。
 その間、私の付近にいた、
 わがパック旅行の一の美人(マドンナ、母親と二人連れ)は、
 カウントダウンの無礼講の中、
 誰やら外人の男にほっぺにキスをされたらしい。
 (その男がうらやましいがぎりだが)

 とにもかくにも、先頭を見失った私たちは、
 群衆の中の流れの中を右往左往しながら、
 ステージ正面まで進むのはこれ以上無理だ、
 ということになった。
 私の同行者、およびマドンナと母親、
 その他2名ぐらいになった私たちは、
 私を先頭にして群衆の間をかき分けかき分け、
 広場の空間を探してやっと人混みから抜け出ることができて、
 ホット一息つきことができた。
 こうして、
 イタリアのカウントダウンを体験した私は、
 後で、イタリアの新聞を見て、
 掲載されていたヴェネツィア広場の写真を見ながら、
 「ああここにいたのか」と、ちょっぴり満足したのだった。

 翌日

 カウントダウンで寝不足に中、私たちは、
 システィーナ礼拝堂に向かうため、朝早くホテルを出た。
 昨日はぐれた添乗員も何ごともなかったかのようにいる。
 相当飲んで「二日酔い」になっていると思うのだが、
 さすが仕事人、そんな気配をみじんも見せない。
 今日は、あいにくの雨であった。
 システィーナ礼拝堂も、観光客で賑わい、
 すでに行列が出来ているよう。


 システィーナ礼拝堂

 ヴァチカン宮殿は、
 14世紀、
 フランス・アヴィニヨン(アヴィニヨン捕囚)から
 教皇庁が戻って以来、
 歴代のローマ教皇の住居だが、
 彼らのコレクションを中心に、
 現在は美術館・博物館として、一部が解放されている。
 日本で言えば、江戸城の一部が解放されているようなもの。
 江戸城にある史跡・美術品などのコレクションを
 見学するためには特別な許可が必要らしいのだが。
 ただ今日、1月1日は、
 ヴァチカン宮殿内の美術館は休館のようで、
 システィーナ礼拝堂だけが見学できるらしい。
 それで、宮殿内の廊下を通りながら、
 廊下にある装飾や陳列品を見ながら、
 宮殿奥にあるシスティーナ礼拝堂に入った。

 この礼拝堂は、教皇の公的礼拝堂で、
 教皇選挙もここで行われるという。
 教皇選挙を「コンクラーベ」と言い、
 枢機卿たちによる教皇選出で、
 歴史上、彼らの政治的な思惑や抗争でなかなか決まらないと、
 文字通り「根くらべ」になったという。

 ともかく、ミケランジェロの『最後の審判』があるところ、
 これが、システィーナ礼拝堂。
 さすがにここは、フラッシュ禁止。
 ただ、「撮影禁止(no fhotograph)」
 という表示がないようだったので、デジカメを構えたところ、
 係員にダメと言われてしまった。

 『最後の審判』は祭壇の正面に描かれ、
 広い空間をまさに埋め尽くしていて圧巻である。
 中央のキリスト(と聖母マリア)の左下側に、
 皮だけとなった人間(バルトロメオ)が描かれている。
 良く知られているように、
 その顔がミケランジェロの自画像といわれる。

 他に、ミケランジェロの制作によるものは、
 旧約聖書から題材をとった『天井画』があり、
 有名な『アダムの創造』や『原罪と楽園追放』、
 『ノアの洪水』などが描かれている。
 ミケランジェロは、
 「自分は、画家でも建築家でもなく、
 彫刻家である」と自認していたという。
 教皇ジュリオ2世の命により描かされたのだが、
 彼は「画家ではない」と一度は断ったという。
 彼の絵では、生命の躍動を感じさせるために
 筋肉ムキムキの筋肉マンになるところが、
 いかにも彫刻家らしい。
 のちにルノアールは、
 こんな筋肉ムキムキの女がいるか!、
 と怒ったそうである。

 天井画を見てみると、
 一部剥落した箇所があり、
 今にも、その剥落が大きくなり、
 その付近の一部が落ちてこないかなァと、
 夢想(期待?)したのは、私だけだろうか。



 ポンペイ編

 ポンペイへ
 システィ-ナ礼拝堂を出てみると、
 長蛇の列が続いている。
 入場の人数制限があって、
 結局、中に入れない人も出てきそうだ。
 入館時間が過ぎてしまえば、「もうダメ、あした来な」となる。
 フィレンツェのウフィッツィ美術館もそうだったが、
 ヨーロッパでも観光客だけは、
 相当、我慢強く行列している。しかも、今日は雨の中で。

 古代ローマをつくったのはテレヴェ川であり、
 そのテレヴェ川沿いにバスは南にくだり、
 ローマを離れて、私たちは、
 このパック旅行の最後の目的地ともいうべきポンペイに向かった。


 途中、ローマ市内を出るかでないかのところで、
 私たちのバスは追突事故を起こした。
 バスの運転手は初老のベテランドライバーらしいのだが、
 ブレーキを切ってポット出た瞬間に、
 前の乗用車に軽く接触してしまった。
 日本の事故処理の例からしても、
 これで1時間はロスするのではと思っていたところ、
 運転手と乗用車の人が数分間立ち話をしていると思ったら、
 運転手はバスに戻り何ごともなかったかのように出発した。
 後で聞くと、後処理は書類で済ますとのこと、
 <さすがイタリア>と妙なところで私は感心した。
 交通事故といえば、イタリア人は、結構、乱暴運転らしい。
 そういえば、大通りの交差点で完全にひっくり返った乗用車を見た。
 何故かそのまま放置されていた。
 交通事故なら、付近に警官とかパトカー、
 あるいは関係者らしき人々がいて良さそうなものだが、
 そんな人影もいない。
 ひっくり返った乗用車を尻目に、
 その交差点では、何ごともないかのように車が行き来している。
 また、コモ湖の町で、目の前で、
 乗用車が相手の車に脇腹に斜めに追突する現場を見たが、
 見通しの悪い場所でもないのに
 明らかに前方不注意とスピードの出しすぎ。


 ところで、カウントダウン後の大変さについて、
 同乗した女性ガイドさんが、
 (ローマ市内のガイドさんとは別の人)
 言うところよると、
 ガラス瓶の破片(シャンパンやワイン、ビールなど)が
 そこら中に落ちていて、危ない危ない。
 それこそ、カウントダウンの前後には、
 一般の通りばかりでなく、
 例えば団地内の通路にも、ビンが投げられて割れる。
 それで通行中の人がけがをする。
 また、車のパンクもある。
 それで、この期間は、
 車の運転はあきらめて電車を利用する、など。


 ポンペイ遺跡

 ナポリを過ぎ、ヴェスヴィオ火山を遠く見つつ、
 いよいよポンペイの町に、バスは到着した。
 ナポリを過ぎたあたりから何となく、
 南方にやってきたというのは思い過ごしか。

 南北イタリアの格差、
 南イタリアの貧困という話しは良く聞くところ。
 ヨーロッパの流行を作るミラノ・ファッションの世界と、
 ヤシの葉も匂う世界との違いは、ありそう。
 (全く比較が違うよと怒られそうだが)
 何となく、<泥臭さがある>のが南イタリア、
 と私は勝手に決めているのだが。

 レストランで昼食後、ポンペイの遺跡を見学。
 「マリーナ門」から入場して、
 ヴィーナスの神殿やアポロ神殿のある広場に出た。
 ヴェスヴィオ火山の噴火により
 一瞬のうちに消え、廃墟として現代に復活した遺跡は、
 なるほど想像力を働かせれば、
 今も生ける人々が行き交っているような印象を受ける。

 ポンペイの町の道の真ん中には、
 轍の跡が残り、
 酒屋の店先にはワインや蜂蜜を入れたカメが並んでいる。

 『娼婦の館』には、
 壁をくりぬいたような形で、ベッド室があって、
 その上には「体位を描いた壁画」が残る。
 それを見ると、
 当時のローマ人の
 (あるいは、交易に往来した外国人を含めて)
 身長の平均は150cmぐらいといわれることが肯け、実感できる。
 ベッドとしては<ちょっとちいさすぎ>という印象。

 ポンペイの町全体も
 それほど大きいという印象を受けない。
 道幅は、中央の街路も二車両幅もないぐらいで、
 路地では人二人が並んで通れるぐらい。
 そうした道ばたに佇みながら、
 ローマ帝国当時の町の人々の盛んな往来や、
 人だかりの中での喧噪を、
 想像力でもって、イメージ化することはできる。


 カメオ工房

 ポンペイからナポリ市街に帰る途中で、
 アウトレットショップということで、
 本場のカメオ工房に立ち寄った。
 ここは、わが同行者(妻)の独壇場。
 私は、タバコを吸いトイレに寄り、
 品物をちらちら見て、暇をつぶすだけ。
 その間、わが同行者は、
 カメオのブローチをあれこれ物色しながら
 とうとう値段の張るブローチを見つけ、
 「やがては娘に譲るのよ」と言いつつ、衝動買い。
 というのも、
 このイタリア旅行では「VISAカード」を持つようになった。
 前回のロシア旅行までは、
 円や米ドルの現金とトラベラーズチェックを持っていたのだが、
 現金を持ち歩くよりもVISAカードの方が
 安全で便利だということになって、
 二人ともカードを持ってきたのだが、
 すっかりその便利さの恩恵を受けているのは
 私ではなく、同行者の方。


 ナポリの夜景

 カメオ工房からナポリ市街に入ったが、
 ここも車窓観光のみということであった。
 ガイドさんの話では、ナポリは危険。
 とにかく、
 観光バスが止まったとみるやいなや、
 物売りがやってきて大変らしい。
 前例によると、
 数分間バスが止まり、観光客がバスから降りたら、
 たちまちのうちに物売りが殺到して、
 中には、スリなどもいて
 ハンドバックを盗られてしまった人も出たという。
 そういう話を聞きながら、
 ナポリの夜景を見るために、バスは市街をめぐりながら、
 新名所の病院前を通った。
 その病院が何故新名所になったかというと、
 何年か前のナポリサミットで、
 時の日本首相・村山富市さんが体調を崩して
 入院した病院であるという。それだけのこと。

 ついでに、イタリアの保険に話になって、
 余り保険制度が発達していないので、
 観光客が病気になるとやはり大変らしい。
 一週間足らずの入院で、
 百数十万円ぐらい請求された人がいたらしい、とのこと。
 そんな話を聞きながら、
 ナポリ郊外の山の手の丘にバスは着き、
 ここから見るナポリの夜景(絶景とうたわれる)が一番、
 写真を撮る時間をとりますというので降りたが、
 曇天の今日は、絶景といわれるほどでもない、
 どこでもあるという印象であった。


 ところで、村山首相といえば、
 戦後の「五五年体制」の終焉を象徴する、
 「自社さ」連立の村山内閣を想い出すと、
 (94年6月~96年1月)
 今からすれば、
 日本の戦後民主主義の崩壊の象徴でもあった。
 彼は、「自衛隊違憲・合法」という論理の矛盾を知りつつ、
 政権に飛びついた結果、
 戦後の左翼運動とその中心の柱であった
 「反戦・平和」の柱が腐食してしまった、といえる。

 政治の話のついでにいえば、
 ローマ市内観光のガイドさんによれば、
 現在のローマ市政を担当するのは、
 イタリア共産党の市長さんらしい。
 党名変更して、左翼社会民主党というのだと
 私は思うのだが、ガイドさんは共産党と言う。
 ガイドさんは、ローマ市政のためには
 共産党ぐらいがちょうど良い、という意見。
 彼女によれば、
 日本の共産党は旧ソ連型で、
 日本と違ってイタリアの共産党はそうではない、と。
 私は、このパック旅行に共産党員の人がいると
 <やばい>じゃないかと、
 ついガイドさんへの老婆心を働かせながら、
 聞いていたのであった。
 このガイドさんは、イタリア在住十年数年という人。
 イタリア経験豊かさからの自信のある言葉なのであろう。


 帰途

 翌朝
 ローマのフィウミチーノ空港から
 (レオナルド・ダ・ヴィンチ空港)
 ミラノの国際空港マルペンサに飛び、
 ミラノから直行便で、機中泊、
 成田空港に翌早朝到着。

 今回の旅も終わった。
 三度目の海外旅行となったが、
 冬のイタリアは、
 旅行前に持っていた私のイタリア観、
 「陽光溢れる南の国」のイメージを垣間見させながら、
 まだ<本当には分かっていないイタリア>
 という感慨を抱かせた。
 「トレヴィの泉」で投げたコインの希望が実現すれば、
 再びイタリアに戻れるだろう。
 戻るとすれば、
 今度は、あんなに危ぶないと言われながらも、
 「南イタリア・シシリー島の旅」
 というイメージがあるのだけれども。



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