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縄文の旅2
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三内丸山遺跡 他の遺構など 昼食
カルコ(縄文住居展示資料館)
小坂町(鉱山事務所・康楽館) 湯瀬ホテル
第二日目 6月16日(水)
さて、今日はこの旅行に参加する際の、
一番の目当て「三内丸山遺跡」見学がある。
朝食は早めの6時50分、1階「プルミエ」だが、
隣に<喫煙所>があって、まずは一服と早めに1階に降りた。
喫煙後、添乗員の検温を受け、食堂に入ると、
ここでは先ずビニール手袋をはめなくてはならない。
料理はあれこれあり、好きなものをセルフサービスでとる。
あれこれ選ぶうちにトレイ二枚分になり、結局食べ残しが出た。
(普段は全部平らげるのだが)
食後のコーヒーを飲み、食後の一服をした。
集合は7時50分、荷物を持ち1階ロビーへ。
フロントに鍵を返し、そのまま直接バスへ。
乗車前にアルコール消毒を受け指定の座席に座る。
バスは、途中トイレ休憩を入れて、一路青森へ向かう。
車中、バスガイドさんの話を聞きながら、
空模様は曇りで雨が降るかどうか気になる。
バスガイドさんの話のなかで、
津軽地方(青森県西部)と
南部地方(青森県東部と岩手県中部から北部)との違いの
説明がなかなか興味深かった。
江戸時代の津軽藩と南部藩の違いの名残がそのまま今日まで続き、
方言や文化の違いばかりでなく、
家に雨樋があるかないか(ある、南部)、
はたまた道路の信号機や標識の置き方縦横の違い
(縦に置かれてる、津軽)など。
トイレ休憩になる前に、雨が降り始めた。
トイレを済ませた後も雨で、
これでは三内丸山遺跡も雨のなかの見学かなと思っていると、
バスガイドさんは、
この先の<長いトンネル(名を聞き忘れた)>を抜けると
天気が違う場合あると言う。
そのドンネルを抜けると、まさしく晴れていた!
バスガイドさんは、嬉しそうに、
濃霧になるときもあるんですが、
「良かったですね、皆さんの日頃の行いがいいんですね」と。
かくして、三内丸山遺跡に着いたときには、
晴天で陽射しがちょっと熱いぐらいであった。
三内丸山遺跡
三内丸山遺跡の遊楽館から現地ガイドさんの案内で、
私たちは三々五々遺跡を見て回ることになった。
歩いているうちに、
三内丸山遺跡のシンボル、
<六本柱の大型掘立柱建物(レプリカだが)>が姿を現した。
しかも、修復のために白いシートで覆われていたはずの<六本柱>から
覆っていたシートが取り払われつつあった。
この旅行の前、朝日新聞で見た写真では、覆われたままだったので、
残念ながら旅行中もそうかなと思っていたのだ。
なんという幸運か、天気に恵まれシンボルも見られるとは!
青森県はこの地に野球場を造ろうとしたところ、
六本柱の大きな穴や住居趾が出てきて、野球場建設を中止し、
本格的な発掘作業を行うことにして(現在も継続中)、
現在のような縄文中期の巨大な遺跡が現れた。
三内丸山遺跡の発見は、当時大きなニュースとなり、
余り知られていなかった縄文時代の姿が何処まで解明できるか、
大いに期待された。期待に違わず、現在見るような、
さまざまな住居趾や墓地、さまざまな遺物が出土している。
六本柱の六つの大きな穴からは、
直径約1mの栗の木が朽ちずに一部残存していた。
ガイドさんによれば、現在の日本ではこんな太い栗の木はなく、
レプリカを作るにあたってロシアから輸入したという。
実際に発見され保存されている
六つの大きな穴(直径約2m)も後で見学した。
この六本柱もそうだが、実際の発掘で出土した住居趾などは、
復元するにあたって、さまざまな角度から推定した姿で再現するしかない。
一般に、古代遺跡の復元はおおむねそうした推定によらざるを得ないだろう。
六本柱の高さ14.7mはこうした推定の結果という。
<六本柱>の前には、
共同作業場や集会場であったかもしれない大型の長い竪穴建物があり、
中に入ると確かに広く、立ったままなら50人以上入れそうだ。
そして、この建築のために内部には格子状に丸太を張り渡している。
現地ガイドさんは、格子の長さの単位は35cmとその倍数からなり、
<縄文尺>ともいえる<測量法>をすでに縄文人は作り出していたようだ。
<六本柱の柱穴の間隔>も4.2mで、35cm×12となる。
他の遺構
食料などの貯蔵庫かもしれない高床式の掘立柱建物。
一家の4,5人で住んだ小さな竪穴住居が、
茅葺き、樹皮葺き、土葺きの3種類の屋根があったと推定・復元されている。
現地ガイドさんによれば、
縄文人の身長は男は1.5mちょっとぐらい、女は1.5mより低い。
また、寿命は30歳ぐらいという。
死産や幼児死亡率が高かったのか、3世代が一緒に住むことも希であったようだ。
様々な遺物が出土した捨て場の北盛土などを見学し、
さらに墓地も見学した。
子どもの墓は住居の近くで、また、専用墓地で、
遺骨は口や底を抜いた土器に入れられて、埋葬されていた。
大人の墓、これは楕円形の墓穴などで、
特に集落の<海の道>沿いに、
多数の墓が道の両側に頭を道に向けるようして作られていたという。
三内丸山の大集落は、
八甲田山から続く緩やかな丘陵の先端に位置し、
沖館川右岸の河岸段丘上にあり、標高が約20mで、
遺跡は約40ヘクタールの広大な範囲に広がっているようだ。
(東京ディズニーランドより少し小さい)
遊楽館方向からの<山の道>と、
沖館川や海からの<海の道>とが集落の中心で繋がるようだ。
縄文人の狩猟採集・漁撈生活には三内丸山の地勢が大いに適していて、
大集落は最盛期には人口500人ともいわれる(異説あり、200人とも)。
「天声人語」によると
縄文時代の晩期、日本の人口は7万5800人。
うち東北には実に52%が暮らした。
鬼頭宏著『人口から読む日本の歴史』によれば、
関東や近畿、九州よりもはるかに多かったという。
(注)上記の数値からすると、
東北には約3万9400人。
500人ぐらいいたかもしれない。
遺跡内見学を終わり、帰り道を歩きながら、私は一服したくなって、
<遺跡内禁煙かも>と思いつつ、一行の後方について、煙をくゆらした。
現地ガイドさんが後方にいる私などを振り返っても何も言わないので、
図に乗って<もう一服と>紫煙をあげた。とがめはなかったが、
そのうち私のおかげで、<遺跡内禁煙>の札が出るかもしれない。
遊楽館に戻り、
館内の「縄文ポシェット」や、
これもシンボルの「十型板状土偶」などを見て回り、
かなり時間をかけて三内丸山遺跡を見学し、
12時半頃昼食となった。
昼食
五所川原の「ホテルサンルート」で名物<ホタテ貝焼き味噌>を食べた。
献立表には、これを<強肴>としているが、<しいざかな>と読み、
懐石料理では酒の肴にもう一品出される料理という意味らしい。
そのほか、<揚物>として<帆立の真丈揚げ>もあり、
<真丈(しんじょ)>とは、魚肉などをすりつぶして
山芋や卵黄と合わせて練り物にしたものという。
ここでは帆立貝を使っていて、<帆立貝もの>が名物らしい。
五所川原は<ねぶた祭>でも有名らしい。
ホテルにも<立佞武多(たちねぶた)>のミニチュアがあった。
昼食後、集合まで余裕があるので、コーヒーを飲もうと8Fのレストランに入る。
外の風景を見ようと窓際の席に座り、町と山の景色を見ていた。
ウエイトレスさんに「あの山は?」と尋ねると「岩木山です」と。
(ご当地の吉幾三の歌に出てくる)
このパック旅行一行と離れて(わが同行者もいない)、
一人で岩木山を眺めることができた!
(さっそく、バス車内で同行者に撮った写真を見せてあげた)
カルコ
次の見学地、「つがる市縄文住居展示資料館(カルコ)」向かう。
途中、JR五能線・木造駅を通る。
この駅は、ふるさと創生事業で2億円強かけて駅舎に
巨大な遮光器土偶(愛称・しゃこちゃん)を貼り付けるようにして作って
人気になった。
ちょうど電車が着いて乗客が改札を出てくる光景を車窓から見ていると、
バスガイドさんが土偶の目が光っています、と。
電車が駅に着く時、土偶の細長い目玉がピカピカと七色に光るという。
バスの前面の車窓から光るのが見えたようだが、
残念ながら私の座席からは見えなかった。
ともかく、バスを降りて<しゃこちゃん>の写真を何枚か撮った。
「カルコ」に着く。
カルコとは、亀ヶ岡遺跡の<カ>と
考古学(アルケオロジー)のスペルRから<ル>、
コレクションの<コ>で、
資料館の長い名称を縮めて<愛称>にしたようだ。
縄文晩期の代表的な遺跡の<亀ヶ岡遺跡>そのものは、
このカルコ館の北にあるが、津軽地域の遺跡群を代表している。
また、「亀ヶ岡文化」の名称があり、
この名は東北地方全般の<縄文晩期の出土品>、
土器や土偶の装飾豊かな共通な特徴にちなんで、
縄文晩期の文化を<亀ヶ岡文化>と呼び、
<亀ヶ岡式土器>とも呼ぶようだ。
(初めに見学した是川遺跡もこの文化に含まれる)
カルコの1階には、有名な<しゃこちゃん>、
右脚が欠けている「遮光器土偶(レプリカ)」が展示されていた
(本物は東博にある)。
また、復元された竪穴住居と
その内部に縄文人の人形2体(夫婦)が置かれている。
二人は縄文語で話すらしい(テープの音声が流れた)。
2階の展示室には、つがる市の遺跡群のさまざまな出土品が展示されていて、
縄文時代の早期から前期、中期、後期、晩期に至る
土器の変遷も分かるようになっていた。
時間をかけてじっくり見ると、縄文文化の全貌が理解できるようだ。
小坂町
カルコを出発、青森から南に下り秋田へ、県境の小坂町に向かう。
ここでは、ルネサンス風の外観だが実は秋田杉の木造3階建てで、
明治期から銅山で栄えた名残がある「小坂鉱山事務所」(現在の地に移築)を見学した。
玄関ホールの1階から3階までの階段、
ケヤキづくり<らせん階段>の曲線は見事。
また、その中心柱は、見ると3階の天井に届いていない、
土台がしっかりと建てられている。
現在は、近くに精錬所があって、
スマホなど電子機器数万台から何グラムかの<金>を
リサイクルしているという。
道路を挟んで向かいには、芝居小屋「康楽館」があり、歩いて芝居小屋に行く。
ここは、鉱山労働者の厚生施設として建てられた。
芝居小屋と言っても、外観は洋風、館内は二階客席から見るとけっこう広く、
江戸時代の芝居小屋の様式という。
二つの花道や舞台せり上げの<切穴(すっぽん)>、
回り舞台があり、歌舞伎など本格的な芝居も演じられる。
残念ながら、コロナ禍の中、大衆演劇の「常打芝居」は休演中だった。
私たちは一行は、館内を案内されて、最後に<奈落>に降り、
下から<回り舞台>を一回りさせた。
四方に分かれた4人で、舞台を回す棒を持って押していくのだ。
舞台に上がると、バスガイドさんが「舞台に乗って、回りました」と。
また、舞台の裏の楽屋には、
ここで演じた俳優たちのサインが多数壁一面に書かれいた。
今回の旅は<縄文の旅>だけれども、
この<康楽館>や<八戸はっち>などの見学は、気分転換にもなり、
ほどよく旅を盛り上げてくれた。
湯瀬ホテル
さて、今夜のホテルは温泉があり、昨日のホテルよりも期待できる。
湯瀬温泉に6時頃着、バスはホテルまでの急坂を降りる。
この坂は冬にはけっこう雪で降りるのが大変(能登の「ランプの宿」を想い出す)らしい。
「湯瀬ホテル」に着き、例の通り、アルコール消毒と検温器、
ロビーで部屋の鍵を受け取り、荷物を持って別館の部屋(718号)に入る。
夕食前に、温泉に浸かりたいと、本館1階の男湯浴場に行く。
別館と本館は長い渡り廊下で繋がっていて、
廊下の窓の下には渓流が流れている(川を挟んで本館と別館が建っている)。
<旅につきものは温泉だ>とゆっくり温泉に浸かっているうちに、
<露天風呂>もあるからと、露天風呂に向かう。
確かに、露天だが、風呂への階段を上っていくと、
身体が冷えてくる。温泉湯もぬるかった。
それで、早々に元の浴場に戻り、身体を温め直すことになった。
ここの露天風呂は日中の晴れたに限るのかな。
とりあえず、温泉に浸ったと浴室を出て、喫煙所に向かう。
ホテルの部屋には案内のパンフがないので、
ホテルのフロントあたりにあった案内図を見て、本館1階にあることは知っていた。
一服して部屋に戻り、
夕食(7時)の会場(本館2階の「八幡平」)に向かう。
献立表には「こだわりの三品」として料理長名で
<台の物>二品と<造里替り>が挙げられている。
台の物の一品が地元鹿角の発祥という<きりたんぽ>。
<きりたんぽ (切蒲英)>とは、つぶしたうるち米のご飯を、
杉の棒を先端から包むように巻き付けて焼いたたんぽ餅、
それを棒から外して食べやすく切ったもので、
さらにそれを地元特産の比内地鶏のスープで仕上げたという。
また、二品目は<国産黒毛和牛陶板焼き>で、
岩塩または<特製百年蔵辛味噌>を付けて食べる。
<造里替り>の造里を<おつくり>と読むとは知らなかった。
日本料理の用語について私の知識が全くといってないのが、
ここで露呈してしまった。
ともかく、造里替りの<地場産湯葉差しとジビエ鹿肉のロースト>を食した。
ほかに<自家製八幡平ポーク角煮>など、
地元秋田の<名物尽くし>だった。
この旅行で「献立表」があったのは、五所川原のホテルとこの夕食。
いずれにしても、味の好みはともかく、
地元名物料理を堪能できる旅行となった。
夕食後、いつものようにして、喫煙所に向かう。
ここで、わがパック旅行一行の女性と一緒になる。
彼女は名古屋から来た人で、初めて会話するのだが、
この旅行社は一人で参加しても安心だという。
ともかく、女性の喫煙者と同行するのは私にとって初めてだった。
一服する間に挨拶代わりの話を少しした。
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