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  岡本太郎と縄文文化



 <縄文の旅>の初めに記したように、
 私が縄文文化に実際に触れたのは、尖石でした。
 その後、岡本太郎と縄文文化の関係に気づいたのは、
 ごく最近のことです。
 岡本太郎について、<芸術は爆発だ!>という名セリフと、
 「太陽の塔」は前から知っていましたが、
 この数年、<美術めぐり>思い立ち、
 いろいろな美術館をめぐりながら、
 川崎生田緑地の岡本太郎美術館で企画展を観るようになり、
 岡本太郎の生涯にも興味を持ち、調べたところ、
 1951年、岡本太郎は東博で縄文土器を見て衝撃を受けたと。
 (下記のとおり)

 そして、縄文土器などの出土品を<美術作品>と観る見方、
 <縄文の美>を岡本太郎が発見した。
 岡本太郎のこの発見が、
 日本の美術史を縄文時代から始めるきっかけとなり、
 さらには、日本文化に縄文文化を位置づける役割を果たした、
 と、私は知りました。

 注)なお、以下の写真は、
  今年の岡本太郎美術館、「挑む」展に出品されたもの。
  岡本太郎は、プロの写真家撮った写真に満足せず、
  自分で写真を撮ることにした。


 1、土器

 岡本太郎は、「日本の伝統」(<縄文の美>口絵)で、
 「現代人の神経にとっては、まったく怪奇だが、
 この圧倒的な凄味は、日本人の祖先の誇った美意識だ。
 それは今日なを、われわれの血のふかい底流にひそんでいる。
  あなたは、それが戦慄的な共感をよびおこすのを
 感じられないだろうか。
  この非日本的と思われるほど強烈な美学をふたたび、
 われわれのものとして取りもどしたい。」

 さらに、彼の感動を綴った文を引用すると。

 『日本の伝統』(1956年)から。
 岡本太郎は縄文土器に触れたとき、
 「からだじゅうがひっかきまわされるような気がしました。
 やがてなんともいえない快感が血管の中をかけめぐり、
 モリモリ力があふれ、吹きおこるのを覚えたのです」と。

 



 下、縄文土器(部分)、隆線紋
 


 さらに、
 「縄文土器のもっとも大きな特徴である隆線紋は、
 はげしく、するどく、縦横に奔放に躍動し、くりひろげられます。
 その線をたどってゆくと、もつれては解け、混沌にしずみ、忽然と現れ、
 あらゆるアクシデントをくぐりぬけて、無限に回帰しのがれてゆく。

 弥生式土器の紋様がおだやかな均衡の中におさまっているのにたいして、
 あきらかにこれは獲物を追い、闘争する民族のアヴァンチュールです。

 さらに、異様な衝撃を感じさせるのは
 その形態全体のとうてい信じることもできないアシンメトリー(左右不均衡)です。
 それは破調であり、ダイナミズムです。
 その表情はつねに限界を突き破って躍動します。

 ・・・そびえ立つような隆起があります。
 肉ぶとに走る隆線紋をたどりながら、視線を移してゆくと、
 それがギリギリッと舞いあがり、渦巻きます。
 とつぜん降下し、左右にぬくぬくと二度三度くねり、
 さらに垂直に落下します。
 とたんに、まるで思いもかけぬ角度で上向き、
 異様な弧ををえがきながら這いのぼります。
 不均衡に高だかと面をえぐり、切り込んで、
 また平然ともとのコースにもどるのです。」


 2,土偶

 私は<縄文の旅>で、さまざまな土偶を見ているうちに、
 土偶の顔の表情が、岡本太郎の造型する顔の表情と
 なんとなく似ている。<そうだ!まさに>と思いついた。

 「太陽の塔」の顔とそっくりな土偶の顔もあったし、
 ひょっとして、岡本太郎は土偶の顔の表情に触発されたのかも。


 


 



 <土偶についての感想>

 さて、私は<縄文の旅>で岩手県立博物館を見学し、
 重文の大型土偶・頭部をみた。
 頭部だけで、しかも仮面をつけ、如何にもいかつい姿だ。
 博物館の学芸員によれば、それでも<女性形土偶>という。

 大型土偶・頭部も女性土偶とすれば、
 縄文人は<女性形土偶>によって何を求めていたのだろうか? 
 ごく希に、北海道・千歳市のウサクマイ遺跡から出土した<男性土偶>などあるが、
 ほとんどは女性土偶だ。
 地母神信仰や精霊信仰、
 最近では人間ではなく植物の象徴という説もあるようだ。

 私は、女性の<性>に<命の宿り>を見つめたことが起源ではないかと思う。
 生命の誕生や存続(子孫)、精霊(命=霊)の存在へと。
 さらに、それが大地から生まれ出るものへの信仰となったのではないか。
 縄文人の思考・信仰は、
 汲めどもきない<命の神秘>を見つめていたのではないか。



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