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ポルトガルの旅
・・スペイン・ポルトガル旅行4
国境~エヴォラの町~ディアナ神殿
~エヴォラ大学~リスボン
~ジェロニモス修道院~ベレンの塔
~コメルシオ広場~ロシオ広場
~シントラ~ロカ岬~カウントダウン
~帰途
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①エヴォラの町 ②リスボン
③リスボン市内 ④旧市街
⑤ロカ岬(Cabo da Roca)
⑥カウントダウン
⑦帰途
ポルトガルへ
国境越え
スペインから、いよいよ国境越えということで、
添乗員は、ひょっとして「入国記録書」や
パスポートの提示を求められるかも知れないので
用意を、と。
「国境越え」で何かあるかな、
と半ば期待していた私などは、
実際のところ拍子抜けであった。
映画でよく見るような、監視所や警備兵、
ゲートで通行を遮断するポールなどを
半ば夢想していたところ、全くない。
国境であるとの表示があり、
国境を挟む無人の空間があるだけで、
これでは高速道路の料金所以下である。
考えてみれば、EU通貨統合が
1999年1月に始まるヨーロッパでは、
これがごく当たり前のことなのだと合点が行く。
スペインでは
「バスク独立運動」などのテロや紛争がないわけではない。
アルカサルの警備振りはそのためかも知れないが、
スペインとポルトガルの国境紛争があるわけでなく、
ごく自然のことなのだ、というわけ。
とにもかくにもこうして「無事」、
バスの一行は国境越えをして、
ポルトガルに入国したのであった。
スペインとポルトガル
田園風景は<同じ>といって良いかも知れない。
ほぼ平坦な土地と低い丘がズーと続くイメージがある。
また、日本のように木々が生い繁るというより、
木々はまばらで背の高い、または太い樹木も多くない。
羊や山羊のための牧草地が多いからかも知れない。
一般的にいって、土地は日本よりやせているようだ。
言語も違いは余りなく、日本の方言の違いぐらいらしい。
最も簡単な挨拶語は<オラ>で、
すれ違う人にも気さくに声を掛ける言葉。
ポルトガル人は案外気さくで、
すれ違うときに良く<オラ>と言って、
特にそれ以上何することなく別れるという感じだった。
エヴォラの町
イエズス会の大学の町として知られる。
古代ローマからアレンテージョ地方の中心都市で、
現在も各時代の城壁や水道橋も残っている。
また、天正遣欧少年使節が滞在したところでもあり、
彼らが宿泊したイエズス会の「エスピリト・サント学院」は
現在高校となっている。
中心の広場は「ジラルド広場」で、
シェスタの時間を終わると、
何となくここにエヴォラの住民が集まるようだ。
私たちが着いたときにも、何するでもないように、
人々がそれこそ「たむろ」しているような感じがあった。
こう言っては、エヴォラの市民に怒られそうだが、
それだけのんびりと
市民生活を楽しんでいるよう見えたこと。
この広場から、
メインストリートの「10月5日通り」が続く。
メインストリートといっても狭い通りだが、
ここには民芸品などの土産物店も並び、人通りも多く、
肩をすれ違わせて歩くような感じでもあった。
この通りを登っていくと、町の高台に出る。
この高台にディアナ神殿や主な寺院・教会がある。
ディアナ神殿
2世紀末にローマ人によって建てられた。
月の女神ディアナに捧げられたもの。
イベリア半島では最も保存状態の良い神殿跡といわれる。
現在では土台と列柱、
列柱の上部をつなぐ構造しか残っていないが、
それでも神殿の様子はイメージできる。
ディアナ神殿のある公園から、
町の周囲を展望できる。
一般に、イベリア半島の古い都市は、
周囲を城壁で巡らした小高い丘に作られているようだ。
スペインからポルトガルにかけて
バス旅行で通った道沿いの小高い丘や山にも、
古い砦か城塞らしいものが遠望できた。
現在は廃墟になっているものが多いが、
まだ住民がいるところもあるようで、
修道院跡などの遺跡・遺構もあるらしい。
エヴォラ大学
高台にあるカテドラルやロイオス教会、
美術館(元、司教館)から、
坂道を降りるとエヴォラ大学がある。
16世紀に建てられたイエズス会の大学で、
この地方の学術の中心である。
エヴォラの町の人口は3万8000人ぐらい。
こうした町にも大学があるというのは、
いかにも歴史的な町という感じがする。
スペインやポルトガルの小都市は、
ローマ~中世~ルネサンス~近代初期の
どれかの面影を残す歴史的な町というイメージが強い。
スペイン・トレドにその典型が見られる。
町の中心に、
広場とカテドラル(イスラムではモスク)があり、
古い道は細く、家々はブロックや煉瓦造りで、
漆喰で塗り固めた壁。町の周囲を城壁で囲む。
また、他の町より
大学生らしい若い男女も何となく多く見かけた。
ポルトガルの大学生は、日本より人口比でいえば、
はるかに少ない(大学進学率から)。
日本の大学生より、
ちゃんと勉強するからか品格もあるようだ。
リスボン(リシュボーア)
このスペイン・ポルトガル旅行の最後の宿泊地、
リスボン(ポルトガル語、リシュボーア)に向かった。
ポルトガルは、
西ヨーロッパ最貧国というイメージが強い。
確かに、バスで見かける地方の人家などは
スペインよりも貧しい感じがする。
ただ、日本と違って、
ブロックや煉瓦の堅固な作り方から
改装する必要もないので、
外見上はかなり古そうな感じがする
ということかも知れない。
(これは大都市の建物にもいえる)
経済の立ち遅れは、
第2次大戦後もサラザールの独裁が続き、
その後のクーデタや社会主義政権など、
政治の不安定さがあり、
また、やはりまだ、
大土地所有(大地主層)が残存しているから、
かも知れないと思う。
そう思いながら、
バスでリスボンに近づく途中、
工事中の道路が目に着く。
ポルトガルで来年(1999年)、
万博が行われるための整備事業が
急ピッチで行われているらしい。
リスボンに近づくと、
リスボンを中心とした高速道路網は
かなり発達していることが分かった。
なお、渋滞緩和のため道路建設が行われているようだ。
かくして、リスボンが
大都市(それでも人口は68万人ぐらい)であり、
地方と比較すると格段の差があることがわかる。
中華ディナー
ポルトガルに来て最初の夕食が
中華料理というのも変なものだが、
それでも食べ慣れた食事ということで、
おいしかった。
これまで、和食を食べていない。
私の同行者は、
旅行前に、旅行用のご飯やみそ汁、
味付け海苔などを何食分か用意してきた。
結局これらは食べていない。
食べたいという気持ちにならなかったのは、
スペイン料理が口に合っていたこと。
旅行中の食事
朝食
パック旅行なので、朝食は、
バイキング形式の洋食であった。
ハムやチーズ、ベーコンなど、果物や野菜、
パンも種類が豊富に出されていて、
軽く朝食をとるというより、
あれこれ試食するつもりで結構満腹になった。
朝食では余りコーヒーはうまくなかった以外で、
(これは日本のホテルでも同じ)
特に私が気に入ったのはベーコンで、
適度に焼かれて暖かく、スライス状のベーコンに
骨が残って着いるものがうまかった。
ある時これを、がっついて食べていたおかげで、
ガリッといったとたんに、
差し歯が取れてしまったのであった。
それ以後、余り口を大きく開けられず、
また、ばい菌でも入って
歯茎が腫れたら<こと>だと思い、
(前にスキー場でそうなったことがあったので)
がっついて食べないよう
少々セーブすることになってしまった。
昼食・夕食
前にも書いたことだが、
ある時出された
「魚のスープ」が生臭くて、飲めなかったこと。
(これはトレドの昼食だったか?
魚のカツレツと魚のスープがメイン)
あの時、たまたま私のだけが
そうであったのかも知れないが。
「パエリア」がもともと好きでもないことぐらいで、
旅行前、
「オリーブ油で脂っこいよ」といわれていたが、
むしろ私の口にあってうまいといって良い。
日頃、我が家のルーティンワークでなされる
決まったような料理より、
種類豊富で珍しい料理や
その調理法を味わうわけだから、
当たり前といえば当たり前のことで、
これも旅行したいという気持ちの理由となる。
リスボン市内
7つの丘からなるという。
オデュッセウスがつくったオリシーポの町から
リスボンの名が由来する。
市内の観光地域はそれほど広くなくない。
リスボンの観光といえばポルトガルの繁栄時期、
「大航海時代」とつながるからであろう。
特に関係深いのがベレン地区。
ベレン地区
ジェロニモス修道院
エンリケ航海王子と
ヴァスコ・ダ・ガマの世界周航を記念して、
16世紀に建てられた。
また、ダ・ガマの石棺も安置している。
この修道院は2階建てで、広い中庭に面して回廊があり、
この回廊のアーチと装飾は繊細優美。
あまりに装飾的なので
少し距離を置いて見た方がよいという。
冬なので、残念ながら
中庭の花壇とのマッチした華麗さは見られなかった。
ベレンの塔
リスボンを流れるテージョ川口と、
大西洋の海流の境に建てられたという。
テージョ川に幾分つきだした形で作られた3階建ての塔、
リスボンを守る砲台が2階部分となっている。
司馬遼太郎が「テージョ川の公女」と評したらしい。
発見のモニュメント
1960年、エンリケ王子の500回忌を記念して作られ、
巨大な帆船が海に乗り出す形を取っている。
なお、大理石で作られた広場中央の世界地図には、
世界各地の発見年代が記されているが、
日本の地図(当時使われていたらしい地図で)には、
1541年となっている。
これは、ポルトガル船が豊後に漂着した年で、
われわれの良く知っている種子島漂着は1543年。
旧市街
コメルシオ広場
テージョ川に面した大きな広場。
中央にドン・ジョゼ1世の銅像、
周辺は海軍省などの官庁があり、
北側には、凱旋門を模した荘重なアーチがある。
この中央を抜けると
北へ延びるアウグスタ通りが、
ロシオ広場まで続いている。
バイシャ地区
ちょうどアウグスタ通りを中央に見立てると、
この通りの左右に何本か南北に走る通りがあり、
これらを横断する何本かの通りがある。
簡単にいうと、碁盤目状に通りが走る訳だが、
ここがリスボン一の繁華街であるという。
確かに人混みが続き、
人が行き交う賑わいがあって、活気がある。
通りもそれほど広くなく、
日本でいえば、
かつて存在した何々横町というものを大きくしたもので、
車も乗り入れない。
その代わり、
コメルシオ広場が駐車場になっているようだ。
ここには、
観光客用の土産物店や高級品店もあれば、
一般の商店もあり、新聞・雑誌売りの屋台風もある
といった感じであった。
また、大阪の通天閣のような、
「サン・ジュスタのエレベーター」があった。
ロシオ広場
隣にあるフィゲイラ広場とともに、
観光客でにぎわう場所らしい。
現在のポルトガルの中央広場という感じであり、
大きな噴水とドン・ペドロ4世のブロンズ像がある。
北に国立劇場、
西にショッピングセンターのあるロシオ駅がある。
旧市街を徒歩で見学した私たち一行は、
疲れを休めるようにして、
サン・ペドロ・デ・アルカンタラの展望台で小休止した。
ここは小さな公園で、
リスボンの町並が見え、また要塞らしき城が見える。
シントラ
リスボンから一路ロカ岬を目指した。
途中、シントラの町に立ち寄った。
この町は、かつて詩人バイロンが
「エデンの園」と呼んだという。
シントラ山系の中にぽつんと置かれた町で、
かつての王様の夏の離宮がある。
残念ながらこの王宮には入れなかったが、
石畳と古い町並みは
エヴォラの町を一回り小さくして再現したようであった。
ロカ岬に向かうバスから、
登山鉄道のような電車が見えた。
ロカ岬(Cabo da Roca)
ヨーロッパの西の果て、
ユーラシア大陸の西の果てといってもいい。
ロカ岬は、
大西洋に面して、波に削られた断崖となっている。
この断崖に立つと、地の果てという実感が湧く。
ポルトガル詩人カモンエスが
「ここは地の果て、海始まる」と詠んだ詩の一節が、
石碑に刻まれている。
ロカ岬では、あまり晴天の日がないそうで、
このときも曇り空で、時折、風が強く吹いた。
また、さっと雨が降りさっと止んだ。
ここで、「最南端到達証明書」買って、
再び、リスボンへ帰った。
リスボンに戻り、オプションの一つ、
「ファド・ディナーショー」に行った。
これは私の同行者(シャンソンを唄う)の希望で。
ファドとはボルトガル民謡で、
哀愁を帯びた調べと
力強い歌声が特徴のようだ。
カウントダウン
今日は、ヨーロッパでは12月31日。
日本では、昔、
私なんかも、日の出を見ようとか、
神社の初参りとか、
暮れから正月を過ごしたものだが、
ヨーロッパでは「カウントダウン」といって、
広場に繰り出す習慣がある。
そういうわけで、
ポルトガルのカウントダウンを
是非見物しようということであった。
添乗員に聞いて、
行きは地下鉄、帰りはタクシーという計画で、
ホテルから出発したが、
初体験ということで
多少不安と緊張感を持って行くことになった。
ちょうど良く、同じパック旅行の親子(男性)と
一緒になったので、力強い味方を得た気持ちであった。
地下鉄に乗ろうと思ったら、何と駅員がいない。
それでも自動券売機で切符を買い、
地下鉄に乗ってロシオ駅で降りた。
ここでも駅員は見かけなかった。
おそらく、駅員もカウントダウンのために
いなくなってしまったのだろうと予想は付いた。
どこまで乗っても運賃は同じなので、
それでもいいのも?。
時間が遅くなると地下鉄そのものも
止まってしまうということだそうだ。
昼間見たロシオ広場からバイシャ地区を通り抜け、
コメルシオ広場に出た。
ここにはすでに大勢の人だかりがあって、
薄暗い中に、
人々がどんどん集まってくる雰囲気があった。
いよいよカウントダウンまで
時間をつぶす気持ちになっていると、
私の同行者は緊張感のあまり
トイレと言い始めたのである。
全く店は開いてないし、
公衆トイレも無さそうで、
(ほとんど、この旅行では見かけなかった)
困った私は、結局、
カウントダウンまでもう少しというところで、
同行していた親子と別れ、
タクシーを探して、ホテルに帰ってしまった。
私の同行者(妻)は、
相変わらず、治安の悪さという
旅行前に聞かされていたことを信じ込んでいて、
薄暗がりという中で
緊張感から開放されていなかったようだ。
「嫌み」を言いながらも、
私としては引き下がらずを得なかった。
ところで、
ポルトガルの新年の迎え方はというと、
ヨーロッパではクリスマスが重要な行事であって、
新年を迎えるといっても
特別なことはやらないらしい。
ポルトガルでは、
新年になると子供たちが、
家にある鍋や金ダライなどを街頭の歩道で蹴る、
ということぐらいのようだ。
事実、ホテルの窓から街頭を見ていたら、
アパートから子供が出てきて、
日本でいう「カン蹴り遊び」のようなことをやっていた。
また、遠くで花火の音らしい物音が聞こえてきた。
帰途
朝食後、
パリに飛ぶために、ホテルを出発し、
「ポルテラ・デ・サカヴェン空港」に向かった。
税関もなんなくとおり、
帰国することに
何となく残念という気持ちであった。
ところで、通貨のことを、帰途に思うのは変だが、
ポルトガルのエスクード(Escudo)、日本円で約0.7円、
スペインのペセタ(Pts)、約0.8円。
いずれにしても、
日本円とのレート(交換比率)について、
ほとんど考えずに過ごしていたが、
物価は「やっぱり安い!」と言えるようだ。
「水」は高い?。
日本でどんな店に入っても「お冷や」といえば、
無料で出す!
代わりに、ワイン!といえばどうか…。
こうしてみると、安い高いは比較の問題というより、
世界は広く、その諸地域の異なる状況、
要するに<異文化、その体験>ということになる。
…と言っても、日本・庶民の私としては
スペイン・ポルトガルの「タバコ」は高い!と感じた。
どんな田舎でも自動販売機がある?ので、
つとめて私は国産タバコを買い、
(主流は「アメリカタバコ」)
<うまくない>と思いつつ、
手持ちのコインを調整しながら吸った。
スペイン・ポルトガルに来たのだからと。
値段はどう見ても、
日本円で300円以上であったが、
煙をふかしていた。
ところで、通貨の話だったが、職業柄、
各国通貨のコレクションをしてもいいはずであった。
ところが、スペイン・ポルトガルの通貨は、
(コインはもとより紙幣も)
出国したら「使えないよ」というので、
ケチケチ使い方を考える、
自分が情けなく海外初体験の反省材料となった。
パリ・ドゴール空港は、来たときと全く違って、
世界各地からやってきた人々の人いきれで充満していた。
多少余裕を持った私と同行者は、
主として私はタバコを吸える場所を求め、
(なんと!今やフランスも禁煙ムードが高い!という)
主として同行者はフランス土産を求めて、
出発までの時間を過ごした。
フランス・ドゴール空港を出発して、
エア・フランス航空で、
一路、成田空港へとなった。
ところで、またまた、よけいなことながら、
時差の問題。
ヨーロッパ旅行の標準時間は、
日本時間マイナス8時間とすれば間違いない。
結局、私は頑固に自分の時計を
日本標準時間のままにして過ごした。
時計は12時間表示としても、
朝夕は分かるわけだから不自由しないし、
日本時間がそのまま表示される。
ということで、海外旅行の際には、
現地時間に時計を合わせることは
「無意味である」といえる。
よく「時差ボケ」というが、
スポーツ選手のような人々にとって問題になるだろうが、
生活習慣が不規則になっている
現代日本人にとってほとんど問題はない。
時差ボケなのか、単に眠いだけなのか、
区別できる日本人はいないだろう!
かくして、
<海外初体験>の私の旅行は
無事終了したのであった。
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