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   モスクワの旅3
     地下鉄~トレチャコフ国立美術館~グム百貨店
     ~クレムリン~サポールナヤ広場(聖堂広場)
     ~ウスペンスキー大聖堂(聖母昇天大聖堂)
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      クレムリン武器庫

 三日目

 市内観光2日目
 
 朝食
 ホテルの朝食もバイキング風で、
 とにかく前回のスペイン・ポルトガル旅行と同じように、
 チーズやハム、果物類なども豊富であった。
 かくして、私にとって、
 「ロシア料理はいける」というということで、
 旅行中全く食べ物には不満がなかった。
 かえって、スペインでの「生臭い魚のスープ」などなく、
 ロシアの方が良かったといっても過言ではない。

 とにかくロシアの食糧事情の日本的なイメージは、
 「現在のロシアでは通用しないなあ」というのが感想である。
 もちろん、観光ホテルだからそうなのか?ということは考慮しても。

 前にも書いたことだが、ロシアというと、
 食料を求めた長い行列や
 食料品店に食品が何も並んでいないテレビ映像など、
 私たちのイメージは、今日、修正する必要がある。

 また、ロシアの経済混乱から、
 最近のニュースでは見かけないが、
 給料の遅配や欠配(例えば6ヶ月以上の遅配など)は
 当たり前のように思われていた。
 これが事実なら日本では想像も付かない事態が起きると思うが、
 (例えば、私のような月々の給料で生活する者にとって)
 それでもアフリカの貧しい国ような「飢餓」という話は
 ロシアでは聞かないのは何とも不思議な気がしていた。

 各家庭の防衛(タンス預金や買いだめ)ばかりでは、
 どうも説明が不足していると思うがどうであろう。
 都市生活者にも給料に頼らない
 ロシア的生活の「抜け道」(秘密・知恵)が
 ここにはあると思うが。
 (もし知ってればご教示ください)

 ただ、ウエイターやウエイトレスの動きは、
 怪しげであった。
 前日の夕食の時もそうだったが、
 ウエイターが私たちの食事が終わった頃を見計らって、
 そっと近づき手に持ったクロースの下から缶詰を見せて
 15ドルと言う。
 要するにキャビアの缶詰1缶の値段だ。
 この朝食では、ウエイトレスが他の席に近づき何か、
 人形みたいなものを同じような仕草で
 客に示しているのを見かけた。
 怪しげなので、私たちはモスクワのホテルでは買わなかった。

 しかし、サンクトペテルブルグのホテルでは買ったのであった。
 1ドル150円と換算しても、
 日本で買う「キャビア」と比較すれば、
 論外な値段なので、<おみやげ用には最適!>と判断したから。
 (ロシア旅行お土産として受け取られた方にはごめんなさい!)
 買ったときには、ウエイターが持っていた以上を
 注文をしたので、しばらくして彼が戻ってきて、
 懐から取り出した。
 どうやら、「輸出用のキャビア」の横流しらしい?
 ロシア当局に、この記述が発見されたら、
 国際問題に発展するかも知れない。
 まあ、ロシア的おおらかさで許してくれるだろうか。

 ともかく、ロシアのホテルではこの種の副業
 半ば公然としているようだ。
 個々のウエイターやウエイトレスが
 秘密にやっているとは考えられず、
 とりあえず彼らもあからさまにすることなく、
 <非公然にロシア風に>、
 手にするクロスの下から取り出すということだろう。


 自由行動

 今日の午前中は自由行動ということで、
 私たちパック旅行の一行はそれぞれに企画を立て、
 分散して行動することになり、
 昼にクレムリン・赤の広場にある
 「国立歴史博物館」前に集合することになった。
 この博物館は、元モスクワ大学、
 その後赤煉瓦の現在の建物となり、
 ロシア革命以前の多数の展示品があるという。

 クレムリンの「レーニン廟」見学(旅行社の企画)をやめて、
 私は、とにかく<ロシアの地下鉄>に乗ることを目標にして、
 「トレチャコフ美術館」を見ることにした。


 モスクワの地下鉄

 かつて「社会主義のショーウインドウ」として建設された
 地下鉄(メトロ)は、
 現在のモスクワ市民の足として重要なもののようだ。
 前に書いたように
 ロシアの道路では埃だらけ車が走っている訳だが、
 意外にも自転車・特にバイクをほとんど見かけない。
 手軽な乗り物として自転車やバイクがあって
 良さそうなものだが、
 実はソ連社会主義時代には、
 特にバイクは個人の持ち物として「豪奢品」に分類されていて
 ほとんど発達しなかったということらしい。
 その名残が現在もあって、
 市街の人々はもっぱら<歩け歩け>という健康な習慣があるようだ。
 チャイコフスキー博物館の往復中のバスの中からも(郊外でも)、
 結構歩いている人々を見かけた。
 (日本では、自転車やバイクに乗っていると思うが)

 ということで、メトロの話しになるわけだが、
 おそらく地下30mぐらいの急傾斜の
 エスカレーターに乗って降りる。
 スピードも日本のものと比較して3倍というが、
 実感としてはそれほどでもない。

 かつて、戦時には防空壕または軍事利用を想定して
 構築されたというメトロ、それは当たっていると思う。
 ただ、この急傾斜以外は、日本のメトロとの違いはない。
 かなり老朽化しているようだとか、
 電車の座席は修理された様子がないとか、
 細かく言えば切りがない。
 これも、「ロシア的おおらかさ」と解釈できる。
 モスクワの地下鉄は、中央の環状線と
 各郊外をつなぐ東西・南北に縦断した路線が基本で、
 環状線内で各路線が交差した<乗り換え駅>がある。

 私たちのホテルの近くのメトロの駅が
 「вднх」(ヴェー・デー・エヌ・ハー)で、
 地上の「平和通り」に沿って地下を走っている。
 ここから、
 「キタイ・ゴーラド」(メトロの中心駅の一つ)の次ぎが
 「トレチャコフスカヤ駅」で、
 好都合にも路線の乗り換えなしで行ける。

 メトロでは「ジェトン」というコインを普通に買い、
 改札口に差し込めばいいわけだが、
 このときなかなか改札で差し込んでもコインが落ちず焦っていると、
 駅員のおばさん(いかにもロシア的な)が、近づいてきて、
 針金のようなものでコインを落としてくれ、
 無事改札口を通ることができて一安心した。
 トレチャコフスカヤ駅の
 急傾斜のエスカレーターに乗って出口を通ると、
 地上に出るまで地下の通路があり、
 ここでも左右に小さな店が多くあって、
 いろいろな品物が売られていた。
 ロシアではこうした地下<商店街?>が発達しているようだ。


 トレチャコフ国立美術館(旧館)

 西のサンクトペテルブルグの
 「エルミタージュ美術館」に対して、
 東のモスクワのこの美術館が双璧をなす。

 トレチャコフの名は
 美術収集家のトレチャコフ兄弟から由来する。
 ここには11世紀以降のロシアの美術の名作が5万点もあり、
 展示室も50以上というもので、
 とても正味2時間ぐらいの自由行動の時間では見て回れない。
 また、これは見ておこうと思っていた、
 アンドレイ・ルブリョフの傑作、
 ロシア正教美術の中でも傑作といわれる、
 『聖三位一体』は、見過ごしてしまった。
 (あるいは、他の美術館に貸し出されていたのか)
 その代わりに(と言っては、評価しすぎだが)、
 ペーロフの『ドストエフスキー』を見た。

 米川正夫の『ドストエフスキー全集』など
 ドストエフスキー関連の本には必ず出てくる、
 暗い瞳をして座っているドストエフスキーの肖像画の
 原作がこれであった。
 彼の波乱多い人生からすると、実に静謐な肖像がそこにあり、
 <われわれを静かに観察する>かのような印象を受けた。

 結局、美術館の展示ホールを全部見て回ることができずに、
 集合地点に向かって急いだ。
 トレチャコフスカヤ駅の付近は、結構混みあっていた。
 ここも「乗換駅」で行き先を間違えると
 とんでもない方向に行ってしまいそうで、
 気配りをしながら、駅構内の案内表示や路線の駅名表示を見ながら、
 (英語表示もないが、まあ、何とかロシア語の
 アルファベット文字の読み方は知っているので)
 「キタイ・ゴーラド」(КИТАЙ ГОРОД)を目指した。

 「キタイ・ゴーラド」駅から地上に出ると、
 市街図を見ながらホテル「ロシア」を目標にして、
 (革命50周年を記念して建てられた巨大ホテル)
 再び「赤の広場」に出た。
 今日はあいにくの雨模様であったが、
 「赤の広場」に着いた頃には、ほぼ雨もあがってきた。


 グム百貨店

 ところが、自由行動では
 ホテルに残ってホテル付近を散策する組が乗ったバスは、
 交通渋滞に巻き込まれて1時間以上も遅れて到着した。
 こうなるのだったら、
 もう少しゆっくり美術館を見て回れたはず(団体旅行の欠点)。
 この間に、「赤の広場」や「聖ワシリー寺院」の外観を改めて見たり、
 有名な「グム百貨店」を見た。
 この百貨店も結構大きく、周囲を回れば10分ぐらいかかりそう。
 それで、百貨店の中を通路にする人もいて、賑わっていた。
 内部は、アーケードを持った通路があり、
 (要するに、建物の吹き抜けなのだが)
 中央には噴水もある。
 服飾などの専門店(現在は多くが外資系という)があって、
 何でも揃うという感じらしい。
 結局、「グム百貨店」という建物の中に
 さらに建物があるというイメージが当たり。
 建物の外観は、スペインなど西欧ならば、
 「王宮」といっても通るような装飾が施されている。


 レストランにて
 予定時間を過ぎたが、
 私たちは昼食の「ボルシチ」料理を味わうためレストランに入った。
 ボルシチは「赤蕪入り」スープ(他に、肉や野菜入り)で、
 普通の「蕪」が入ったものを「シー」といって区別する。
 また、ロシアの万能調味料は
 「スメタナ」というサワークリームで、
 ボルシチにこれを混ぜてピンク色のスープにする。
 ボルシチは日本のスープのイメージとしては、
 スタミナ十分ということ。
 食道楽のない私にとって、美味かどうか分からないが、
 今回のロシア旅行で出された料理は
 「私の口に合っていた」ということができる。

 料理のことよりも、気になったことは、
 ロシアのレストラン出入り口の狭いこと、
 また、この店は一見すると、何かモスクワ郊外の屋敷風で、
 門を入ってからレストランに入る。
 食事後、地階のトイレに行った私はそこにあったソファに座って
 例によってタバコを吸っていた。
 すると、警備員らしき人物が数人、
 どうやら勤務の交代らしい様子であったが、
 そのうち一人の腰には拳銃が見えた。

 「ほう、ロシアではレストランの警備員も拳銃を携行するのか」と、
 私は変に感心したのであった。
 「アメリカ以上の治安の悪さ」と言った友人の言を思い出した。
 そして、レストランの出入り口の狭さを思い出し、
 日本ならPRのために
 看板の見栄えを良くすることに気を使うはずが、
 ロシアでは妙に「ひっそり」とした感じがある。
 当然、「治安の悪さ」以外のロシア的な理由
 (あるいは習慣)があるのだろうが、
 奇妙な味わいは拭えない。


 クレムリン

 かつて「クレムリンの悪魔」と呼ばれた「悪魔の巣窟」は、
 雨上がりの青空の中で、観光客で賑わっていた。
 私たちは、クレムリンの入口、「トロイツカヤ塔」から
 「大会宮殿」を右手に見ながら「大砲の皇帝」のある広場に出た。
 トロイツカヤ塔(三位一体の門)は、
 クレムリンを取りまく城壁に立つ5つの塔のなかでもっと高く80m。
 かつて皇帝や軍隊が戦いに行き、ここへ帰還した門であり、
 ナポレオンもここから入城し大火に追われて退避したという。

 大会宮殿とは、61年に完成した近代的な建物で、
 ソ連共産党大会がここで開催されて、例の長広舌の演説と
 「嵐のような拍手」が記録された場所であり、
 現在は国際会議やボリショイ第2劇場として利用されているという。
 しかし、クレムリンの建物様式としてはミスマッチしたもの。
 「大砲の皇帝」とは、「鐘の皇帝」とともに、
 巨大志向によって作られたもので、
 無用の長物でしかなかったもの。

 この間には「イワン雷帝の鐘楼」がある。
 この鐘楼はかつてモスクワ内に
 これ以上の高さの建物を建てることが許されなかった
 という意味で、<最高の塔>であった。
 モスクワ周辺の修道院の塔から
 敵の襲来を示す信号が送られると
 この鐘楼の鐘が打ち鳴ならされたという。
 また、ナポレオンがモスクワから退去する折りに
 鐘楼の爆破を命じたが、
 びくともしなかったというほど堅固であった。


 サポールナヤ広場(聖堂広場)

 イワン雷帝の鐘楼からすぐに、この広場がある。
 文字通り聖堂広場であって、
 この周囲を巡るようにして鐘楼や寺院が建ち並んでいて、
 まさにロシア帝国及びロシア正教の心臓部に
 入ってきた印象があった。
 ここで様々な公式行事が行われたという。
 「ウスペンスキー大聖堂」や、
 フレスコ画やイコン画で有名な
 「ブラガヴェシェンスキー聖堂」(受胎告知聖堂)、
 ツァーリや貴族の遺体安置所となっている
 「アルハンゲリスキー聖堂」などがある。


 ウスペンスキー大聖堂(聖母昇天大聖堂)

 歴代のツァーリの戴冠式や
 モスクワ総主教の葬儀が行われるなど
 ロシア帝国の国教大聖堂。
 入口の扉にはフレスコ画の『聖母子像』が飾られている。
 聖堂内部は確かに豪華なもので、
 大聖堂の屋根と壁はイコン画が埋め尽くされている。
 (1000人に及ぶ作家によって描かれたという)
 なかでも12世紀の『聖ゲオルギー像』や
 12世紀頃の『三位一体像』が有名。

 イコン画やモザイク画に描かれた
 ギリシア正教以来の伝統的な宗教的様式・表現を、
 私は美術的・芸術的表現形式として鑑賞するわけだが、
 しかしながら、同時にまた、
 それらの画像から醸し出される神秘的雰囲気を感じるにつけ、
 キリスト教(カトリックであれオルソドクスであれ)が、
 こうした神秘的ないし荘厳な道具立てで、
 人々の心情に触れて信仰心を培ってきたことが
 理解できるのであった。
 豪華な祭壇よりもこうした内部装飾の方が
 人々の信仰心へ訴える効果は大きいのではないかと思う。

 寺院の西側に配置された中央祭壇の左手には
 「イワン雷帝の玉座」がある。
 (1551年作、木工彫刻の傑作といわれる)
 ガイドの話では、
 イワン雷帝は生涯に7人の妻を持ち、
 離婚を許されないロシア正教の建前から
 正式には皇帝だからといってミサの席に立てなかった。
 そこで、「木製の玉座」しか作らなかったという。


 クレムリン武器庫

 ボロヴィツカヤ塔のすぐ近くに、
 (現在は観光客の出口にもなっている)
 有名な「クレムリンの武器庫」がある。
 ちょっと見ただけでは、
 入口とは思えない狭い扉を抜けると、
 すぐ土産物やらを売る広い場所に出る。
 さらにそこから、
 数々の秘宝を展示するホール(7つある)に出る。

 武器庫は、
 文字通り、鎧などの武具や武器を
 製作・保管した倉庫であったのを、
 ピョートル1世(大帝)が博物館としたもので、
 それ以来、ロシアの美術工芸品や王冠・王笏類、
 他国の王家からの贈り物、戦利品などが展示されている。

 ピョートル大帝まで歴代のツァーリが被った
 王冠「マノマーフの帽子」、
 ピョートルの巨大な服(彼は身長2m強)、
 ダイヤをちりばめた玉座、
 などなど、挙げたら切りがない。

 明治天皇から
 ロシア最後の皇帝ニコライ2世の戴冠式の際に
 贈られた屏風もある。
 さらに、特別室(有料)で「ダイヤモンド庫」もある。
 大は王族用の馬車から小はダイヤに至る、
 ロシア皇帝の秘蔵品が一挙に展示されているわけで、
 この豪華絢爛さは比類がないといえる。


 ロシアの文化財管理

 今回のロシア旅行で感じたことは、
 美術館であれ博物館であれ、
 このように大規模な展示は
 日本ではとても考えられないこと、
 そして、社会主義国家体制が
 こうした大規模な収蔵品の一括管理を可能にしていた
 のではないかということ。
 「分散せずに集中する」のは、
 ソ連型社会主義の特徴であった。

 それとともに、他の機会に感じたことだが、
 美術品や建物で何であれ、
 <修復・復元意欲>はかなり高い。
 第2次大戦でソ連は大きな被害を受けているが、
 (モスクワ・サンクトペテルブルグばかりではない)
 被害が及んだ建物・装飾・美術品について
 徹底的な復元作業を行っていて
 今でもやっているということであった。

 日本でいえば、奈良や京都の文化財は、
 どちらかというと、
 剥落したものをそのままにする傾向、
 しかもそこに<わび・さび>のような美的意識を
 そそぐことになる。
 例えば、仏像などを修復すれば「金ぴか」の仏像となり、
 そこにはわび・さびといった美意識は生じない。

 だからそのままでいいのかというと、
 それでは仏像製作当時の意図・意識は
 イメージ化されないことになる。
 <本来のあり方を復元する>という観点がそこには剥落している。
 古代日本の本来の仏教信仰のあり方が度外視されてしまう。
 古代日本人の感性の真実が失われることにならないであろうか。
 
 クレムリンのボロヴィツカヤ塔を出て、
 バスに乗ろうと、モスクワ市内大通りで信号待ちしながら、
 走る埃だらけの車の波を見ながら、
 排気ガスが結構すごいことが分かった。
 パック旅行中は、案外、
 こうした大通りを歩くことがないので分からなかった。
 排ガス規制は日本の方がやはり進んでいる。


 サンクトペテルブルグへ

 レストランで夕食に「つぼやき」料理をとり、
 ホテルからサンクトペテルブルグへ飛ぶため、
 「シェレメチェヴォ1空港」に向かった。
 私たちがロシアに着いたのは
 「シェレメチェヴォ2空港」で国際便専用。
 最初に書いたように、
 国内専用のエアロフロート機は尾翼付近に穴が開いていたが、
 それ以外は申し分なく1時間でサンクトペテルブルグに着いた。
 サンクトペテルブルグ市街の南方にある
 「プールコヴォ空港」から、
 縦断してヴァシリーエフスキー島にある
 ホテル「プリバルチースカヤ」(宿舎)に着くまでだいぶかかり、
 夜11時過ぎになっていて、
 さすがに市街は暗く人通りもあまりなく、
 (それでも一人で歩いている女の子を見かけたが)
 モスクワに比べると、小都市の感があった。



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