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   フランス歴史



 近現代に至るフランスの歴史は、
 いくつかのメルクマールがあげられる。
  *)3)、5)、7)のページ内リンクあり。

  1)ケルト人以前の文化
  2)ケルト人の文化
  3)ローマの支配 
  4)フランク王国の成立と解体
  5)カペー朝の成立
  6)百年戦争
  7)ブルボン王朝
  8)フランス革命


 1)ケルト人以前の文化。

  クロマニヨン人のラスコー洞窟絵画とともに、
  ブルターニュ地方に残る
  カルナック等の巨石(巨人)文明が知られている。
  今回訪れたカルナックの遺跡群は実地に見ると、
  <何故作られたのか>という大いなる疑問が肌で感じられる。
   *)宗教的儀礼、農業に関係する天文暦など諸説がある。

  カルナックでは
  メンヒル群(巨石列柱群)が3カ所に分けて保存されてる。
  近年まで立ち入り禁止ではなかったが、
  いたずらが多くなったので許可を得なければ入れないようになった。

  許可を得てガイドの案内で実際に保護地に入ってみると、
  東から西へと小さなメンヒルから大きなメンヒルへと
  規則的に11列配列して、
  それが100m以上に伸びている景観は不思議である。 
  実際に見た大きなメンヒルは高さ3mぐらい。
  これらはどこからか運んで置いたというものではなく、
  エジプト文明のオベリスクを立てるような技術を用いているという。

  ブルターニュ地方は、花崗岩大地に塩分の多い土壌であり、
  一般的に農業の耕地に適さない。
  花崗岩のメンヒル群を残した文明、
  その文明の担い手の民族は不明である。
  ケルトの伝承・神話のなかには、巨人族の討伐の物語もある。

  カルナックの遺跡群保護地の付近に、
  放置されたドルメンが3個あった。
  日本の明日香村の石舞台のようであった。
  後代に墓地として使用されたようだ。
  その中には、岩に装飾が施されたものがあり、
  おそらくケルト人によって彫られたものであろうという。


 2)ケルト人の文化。

  古代ギリシアやローマの文献に出てくるケルト人は、
  肌白く金髪碧眼で長身、勇猛な民族として知られる。
  紀元前3000年ころには
  ドナウ川とライン川あたりから東西に広がった。
  前1000年ころフランス(ガリア)に移住したという。

  現在のブルターニュー地方(アルモリカと呼ばれていた)で、
  ケルト語系のブルトン語を話す人々の祖先は、
  アングロ=サクソン族のイングランド侵入もあって、
  4、5世紀ころからブリテン島・コーンウォール半島から
  移住してきたという。

  現在残るケルト語系諸語は、
  このブルターニュ地方(ブルトン語=ブレイス語)と、
  イギリスのウエールズ地方(カムリー語)、
  コーンウオール地方(ケルノウ語)、
  そしてスコットランドやアイルランドのゲール語である。
  ブルターニュでも
  バス・ブルターニュ地方がブレイス語圏である。

  文字を使用しなかったケルト人の独自の文化は、
  現在、考古学的な遺物や有名なアーサー王の伝承、
  またキリスト教説話に混在する形で残る。
  泉水、樹木、洞窟など自然のなかに
  神々を感得するドルイド教信仰は、
  キリスト教に上書きされながら残っている。
  例えば、聖母マリヤの母として
  もともとの地母神アンナ信仰が残り、
  アンナとマリアがともに画かれた図像が多く残っている。


 3)ローマの支配

  前390年、ガリア人がローマを7ヶ月間占拠。
  ローマは降伏し賠償金を支払う。
  やがて、ローマは力を付け、逆に、前2世紀には地中海沿岸の
  ドフィーネ地方、フランシュ=コンテ地方を征圧。
  さらに、カエサルにより征服され、
  ローマの属州となった(前58~51)。
  これ以後を、
  「ガロ=ロマン文明」という。
  この文化の特徴は、
  ①ケルト人がラテン語を用いるようになったこと。
   独自の文字を使用しなかったこともあるだろうが、
   ラテン語をケルト人の支配階級が受け入れ、
   次第にラテン語(俗語)がガリア地方に普及した。
   自分たちの言語を失うということは、
   私たち日本人には驚きであるが、
   例えば、ロシア革命前のロシア帝国の宮廷周辺では
   フランス語で話し書いたということ。
   また、アイルランドのゲール語復興運動など例は多数ある。

  ②キリスト教文化の普及。
   前述したように、独自のドルイド教と
   重なり合うようにしてキリスト教化した。
   聖マリアの母として聖アンナ信仰が残ったように、
   「マリー・ノワール」(黒マリア)信仰もあった。


 4)フランク王国

  西ローマ帝国の衰退とゲルマン諸族の移動によって、
  ガリアには、
  西ゴート族がアキタニア地方(ボルドーを中心とする一帯)、
  ブルグンド族がブルゴーニュ地方を、
  そしてフランク族がガリア北部を押さえた。

  その後、フランク族のクローヴィス
  ガリアの統一をなす(メロヴィング朝)。

  さらにカロリング朝の
  シャルルマーニュ(カール大帝)の時代に
  フランク王国は最盛期を迎える。
  彼は、800年、ローマ教皇レオ3世によって
  西ローマ皇帝と認められた。

  しかし、彼の死後王国は分裂し、
  西フランク王国の領域が
  ほぼ現在のフランスとなる。
  この間、フランク族も「ガロ=ロマン」に同化されていった。
  したがって、
  「フランス」の国名は「フランク族の土地」から由来するが、
  フランス人の根幹をなすのは
  ケルト人(=「ガロ=ロマン」人)ともいわれる。

  また、フランク王国の解体の時期には、
  ノルマン人の侵入があり、
  彼らはブルターニュ半島の上にある
  ノルマンディー地方を得て、
  「ノルマンディー公国」(911年)成立。


 5)カペー朝

  パリ伯ユグー=カペーがカペー朝を開く(987年)。
  この成立初期には、同等の諸侯が約50もあった。
  カペー朝の王といっても、イル・ド・フランスと
  その南のオルレアン地方を支配するだけてあった。
  以後、分家筋にあたるヴァロア朝
  ブルボン朝と続くことにより、
  ほぼ近代フランスの領域を支配するようになった。
  この間、征服、結婚、遺贈により「フランス」が成立する。

  例えば、ブルターニュ地方の併合は、
  ブルターニュの女公爵アンヌ
  ヴァロア朝のシャルル8世との結婚から始まる(1491年)。
  シャルル8世は、レンヌを包囲し、アンヌに結婚を迫った。
   *)レンヌは、現在、ブルターニュ地方の中心、
    当時、公爵家の居城があった。
  こうして、フランスとブルターニュ地方とが結びつく。

  やがて、シャルル8世が事故死すると、
  遠縁のオルレアン家からルイ12世が新王となる。
   *フランス王家は、フランク王国時代からの
    「サリック法典」により男子と定められていた。
  そうすると、アンヌはブルターニュに帰ってしまったが、
  新王はアンヌに求婚し、再婚する。
  二人の長女クロードが
  アンヌ死去後ブルターニュの女公爵となる。

  ルイ12世が死ぬと、
  また、遠縁のアングレーム伯爵(クロードの夫)が
  王位を継承(アングレーム家)し、
  フランソワ1世となる。
  フランソワ1世とクロードとの間に王子が生まれ、
  1524年、クロード死後、ブルターニュ公爵を相続する。

  32年にフランソワ1世は
  ヴァンヌの高等法院でブルターニュのフランス併合を承認させる。
  こうして、ほぼ42年の時間をかけて
  ブルターニュの併合がなったわけである。


 6)百年戦争。

  「第1次百年戦争」ともいわれることが、
  フランスとイギリスにおこっている。
  既述したように、ノルマンディ公国が成立後、
  公爵ギヨーム(英語名ウイリアム)が
  アングロ=サクソンの王家の内紛の際、
  イングランドを征服する(1066年)。
  その後も、アンジュー伯が縁戚関係から
  イングランド王になる(プランタジュネ朝)。
  かくして、
  イングランドではフランス語を話す王家の支配が続き、
  その間にフランス語からイングリッシュ(英語)が成立する。
   *)アングロ=サクソンの語ではない。

  そして、フランスのカペー王朝と
  イングランドのプランタジネット朝の間に
  12世紀に半ばから断続的にほぼ百年にわたって争いが続き、
  「ジョン失地王」の時、終わる。
  イギリスは、
  フランスにあったノルマンディーを含む広大な領地を失い、
  ギュイエンヌ公爵領だけが残った。

  百年戦争
  イングランド王エドワード3世の母イザベルが、
   *)カペー朝の本家、フィリッピ4世の娘
  1337年、息子のエドワード3世がイングランド国王であると同時に、
  自分がフランス国王であると公布した。
   *)「サリック法典」によりフランスの諸侯たちはこれを認めない。
  かくして、イギリス軍の侵入。
  最終的には、ジャンヌ=ダルクの活躍で知られるように
  フランスは苦境を脱して、
  イギリス軍はカレー市を除き大陸から撤退した。

  この百年戦争の意義は、
  第1次百年戦争のときには
  同じフランス語を話すイギリスとフランスの王家の争いと見られるが、
  この戦争では相互に「敵国」という意識がたかまり、
  「国家意識」が芽生えたと言われる。


 7)ブルボン王朝

  ユグノー戦争を終結させたアンリ4世により、
  王権が再興された。
  ドイツが宗教改革の激化と
  その後の三十年戦争の混乱から荒廃したのに対して、
  フランスはブルボン王朝のもとで繁栄する。

  リシュリューやマザランなどの補佐を受けた
  ルイ13世やルイ14世により、
  フランス絶対主義が確立する。
  太陽王ルイ14世の親政の時期が絶頂期で
  ヴェルサイユ宮殿の建設と古典主義の文芸が隆盛した。
  ルイ15世の時期に衰退に向かうが、
  啓蒙主義思想が普及し、
  フランス革命への思想的準備も進展していた。

  ルイ14世、15世時代のフランス文化などについて
  他のページに逸話も含めて掲載した。

  他ページへのリンク

 8)フランス革命

  1789年の革命については、
  革命後の新体制に対して
  「アンシャン・レジーム」(旧体制)との断絶が
  強調されるきらいがあるが、
  現在の歴史学は断絶よりも継続性に焦点を当てている。
  特に、絶対主義王政下の中央集権体制(官僚体制)が
  フランス革命後も政治の基盤となっていることが指摘されている。

  フランス革命の一番大きな意義とは、
  「国民国家の形成」とされる。
  「対仏大同盟」の結成に対する革命の危機に直面して、
  志願兵(国歌「ラ・マルセイエーズ」の由来で知られる)による
  国民軍の結成から、
  1973年の政令によって「徴兵制による軍隊」の結成に至る。
  かくして、フランス革命は国民=ナシオン(nation)の形成による
  近代国家の原則を生み出したわけである。

  しかしそれは同時に、
  「ヴァンデの反乱」やブルターニュ地方の「ふくろう党」など、
  反革命として革命政府から弾圧された。
  ヴァンデの反乱は組織的であったため、政府軍による虐殺事件も引き起こした。
  日本でも徴兵制に反対する小規模な抵抗があったが、 
  ヴァンデ地方の民衆にとって、
  反革命というよりも徴兵制への抵抗であった。

  現在のフランス憲法には
  第2条で「フランスは一にして不可分の共和国である」と規定している。
  既述したようなフランスの歴史から見ると、
  フランスは
  「一にして不可分」への歩みであったことが分かる。



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