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   チベット仏教



 日本仏教は、<中国化された仏教>を摂取したといえる。
 中国で翻訳されたインド仏教の経典は8世紀頃までのものであり、
 9・10世紀にはほとんど翻訳されなくなった。
 それらの翻訳された経典は、中国やシルクロードなどで付加された
 さまざまな解釈が重要な要素となっている。

 インド仏教の後半から末期の思想はほとんど日本に伝来していない。

 他方、チベットでは、9・10世紀が仏教経典翻訳の最盛期で、
 以後13世紀にインドで仏教が衰退するまで翻訳が続き、
 インド仏教の後期の思想をほとんど夾雑物なしに 受け入れることができた。

 仏教がインドで衰退した後にも、チベット仏教は繁栄していた結果、
 インドのサンスクリット語の原典で散逸したものもチベット語訳で残っていて、
 チベット語訳『大蔵経』として存在し、仏教の研究に欠かせないものとなっている。



 また、見逃せないことは、吐蕃王国時代のチベットの隆盛が、
 中国からシルクロードにかけて一時的に版図を広げた結果、
 内陸アジアの諸民族にチベット仏教・文化が伝えられたことである。

 それが、モンゴル族の元王朝や満州族の清王朝によるチベット仏教の受容へと結実した。
 中国・漢民族の圧倒的な文化圏に対抗するために、
 漢民族を支配した元や清王朝は、チベット仏教(文化)を摂取したのであった。

 この間に、チベット仏教による<後期密教文化>がめざましく発展し、
 寺院建築や父母仏の造形など、チベット独特の文化が成立した。
 また、チベットの人々独自な信仰がみられる。

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 1,インド仏教の主な学派は
  上座部仏教(小乗仏教、または声聞乗、阿毘達磨哲学)系の
  A)説一切有部、B)経量部があり、
  主な経典にヴァスバンドゥ『阿毘達磨倶舎論』がある。

  大乗仏教(般若乗、菩薩乗)系として
  A)唯識哲学、B)中観哲学(これに、自立論証派と帰謬論証派がある)。
  主な経典は、ナーガールジュナ『中論』、シャーンティデーヴァ『悟りへの道』がある。
  これを小乗・大乗の顕教の4大学派という。

  さらに、秘密真言乗(密教)として、以下の4区分がある。
  A)所作タントラ  『蘇悉地経』
  B)行タントラ  『大日経』
  C)ヨーガ・タントラ 『金剛頂経』
  D)無上ヨーガ・タントラ 『時輪タントラ』『勝楽タントラ』『秘密集会タントラ』

  チベット仏教では、以上のうち、無上ヨーガ・タントラを最上のものとしていて、
  日本仏教ではほとんど伝えられなかったものである。


 2,チベット仏教の特徴は
  論理学に裏付けられた主知的・論理的な存在論と、
  その教えを実現するためのシステム化された修行体系にある。
  インド仏教の主知主義的な存在論を受けて、きわめて精緻な論理を駆使する。
  具足戒を受けて僧侶になると、先ず、大乗・小乗の顕教を学ぶ。
  顕教の学習は、経典の理解と高僧との問答を中心としているが、
  これに20年前後かかるといわれる。
  その後、密教を学習する。
  顕密両教を習得した者は「ゲシェ」(博士)と呼ばれるが、
  ここまでに30年以上かかるという。
  「リンポチェ」(高僧の称号)は寺院の座主などになり、また活仏となる。


 3,チベット仏教の諸派
 A)ニンマ派
  『チベット死者の書』を聖典の一つとする。
  「ニンマ」とはチベット語で「古派」の意味。
  8世紀にインドから迎えられたパドマ・サンバヴァ(グル・リンポチェ)を祖とする。
  吐蕃王朝時代からのチベット仏教を継承する。
  チベットの土着信仰であるポン教の影響もあって呪術的な傾向があり、
  在家の密教修行者の伝統を持つ。

 B)カギュ派
  仏典翻訳に功績のあるマルパが開いた。
  彼の弟子ミラレパは吟遊詩人的要素があり、現在でもチベット人に人気が高い。
  在家の密教の宗派であり、
  また宗教集団というより氏族を基礎とした宗派であったので、
  停滞した時期もあったが、転生活仏制度を初めて導入した(カルマ・カギュ派による)。

 C)サキャ派
  チベットの名家クン氏の氏族的教団として発足。
  パスパがモンゴル元王朝の庇護を受け、
  一時、チベットを政治的にも支配した。
  チベット仏教のモンゴル人への布教の初めとなる。

 D)ゲルク派
  1409年、ツォンカパがガンデン寺を建立して興した。
  現在チベット仏教の主流となっている。
  ダライ・ラマはチベット仏教全体の政治・宗教の指導者であり、
  かつゲルク派の中心でもある。

  ゲルク派の教義は中観帰謬論証派の見解を重視する。
  帰謬論証とは、相手の論証の矛盾から相手の誤りを指摘する論証法で、
  帰謬論証派は、この手法を用いて、
  「空」や「縁起」その他の仏教理論を間接的にしか証明できないという立場をとる。


 チベット仏教に特徴的な転生活仏制度は、
 <菩薩が解脱しても、衆生救済のために輪廻して現世に生まれ変わる>
 という思想に由来する。
 かくして、チベット仏教では現在もなお多くの活仏が活躍している。
 ダライ・ラマは観音菩薩の生まれ変わりであり、
 パンチェン・ラマは阿弥陀如来の生まれ変わりされる。


 4,チベットの歴史
  前127年の即位したニャティ・ツェンポが最初のチベット王とされ、
  チベット暦もこの年を元年としている。
  しかし、6世紀以前のチベットは、神話と伝説に包まれていて、はっきりいない。

  620年代に初めて統一王朝が成立し、それが吐蕃王国である。
  ヤルルン王家のソンツェン・ガムポ王(593年即位)がチベット統一に成功した。
  ソンツェン・ガムポ王は、640年に中国・唐から文成公主を迎え、
  643年ネパールを破り、ティツン王女を妻とする。
  文成公主とティツン王女は仏教信仰に篤く、
  彼女たちによってチベットに本格的に仏教が導入されるようになった。

  その後、吐蕃王国の最盛期と衰亡があって、
  13世紀にチベットはモンゴル軍の脅威 にさらされたが、
  モンゴル人に仏教を布教することで逆に庇護を受けるようになった。
  1270年、サキャ派のパスパが元王朝のフビライ・ハンの帝師の地位に就き、
  チベットの支配権を認められ、仏教政権が成立した。

  ツォンカパ(1357~1419)は、戒律を厳守するゲルク派を興した。
  1578年モンゴル族のアルタン・ハンにより
  デプン寺のソナム・ギャンツォが『ダライ・ラマ』の称号を受けた。
   *ダライはモンゴル語で「大海」の意味。ラマはチベット語で「師」。
  これが「ダライ・ラマ」の称号のはじまり(後で、ソナムは3世とされた。)。

  ゲルク派のダライ・ラマ5世(ガワン・ロサン・ギャツォ)が、
  1642年、ツァン王を倒して政治・宗教一致の政権が成立した。
  5世は、ラサを首都に定め、ポタラ宮を建立し、統治機構を整えた。
  以後、さまざまな変遷をたどりながら、チベット仏教は存続している。



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