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キルケゴール
・・神に憑かれた思索者
1813年5月5日~55年11月11日
セーレン・オ-ビエ・キルケゴール
(Soren Aabye Kierkegaard)
*)Kierkegaard
デンマーク語の発音ではキアケガーアと読む
デンマーク語では
「教会の庭」(church garden)
あるいは「墓地」(churchyard ,cemetery)を意味する。
思想へのリンク
1,生涯と著作
1813年5月5日
コペンハーゲンで、父ミカエル・ペザーレン・キルケゴール(57歳)と、
母アーネ・セーヤンスダッター・ルンの7人の末子として生まれる。
37年5月
セーレン24歳、14歳の少女レギーネ・オルセン(1823~1904)と初めて出会う。
38年5月5日
セーレン25歳の誕生日に<大地震>を経験する。
*)父の告白ー>父の死(8月9日、82歳)
40年
27歳、レギーネに求婚。1年後、一方的に婚約破棄。
41年 ベルリン大学の聴講生となる
41年~42年冬学期、ベルリン大学でシェリングの「現実哲学」の講義を聴講
*)シェリングは、対立を調停する「同一哲学」からヘーゲル批判を通じて、
新たな現実的な哲学を発表すると期待されていた。
セーレンは最初の講義に感激するが数週間後には失望、
シェリングを「おしゃべり屋」とみなして帰国する。
43年
『あれかこれか』(第2版49年)、
*)「誘惑者の日記」を第1部に含む
『おそれとおののき』
*)4つの弁証法的抒情詩を含む、
『反復』
44年
『不安の概念』、『哲学的断片』
45年
『哲学的断片への結び、非学問的な後書き』、
『人生行路の諸段階』
47年
『愛の業(わざ)』
48年
「コミサール紙」(風刺、ゴシップ紙)が
セーレンに対して彼を戯画化した記事を載せ攻撃。
*)「コペンハーゲンのソクラテス」
セーレンは彼の著作で評価を受けていたが、
レギーネとの婚約破棄事件では非難され、
身体的特徴など揶揄され、痛烈に嘲弄される
*フランス二月革命(ドイツ3月)の余波、
セーレンは無関心。
49年
『死に至る病』、『現代の批判』、『野の百合、空の鳥』
50年 『キリスト教の修練』
54年初~ デンマーク教会を批判
*)新任首座大監督マルテンセンが前任者を<真理の証人>と呼んだことに反発。
「キリスト教は断じて学説ではない。実存の伝達である」
1855年11月11日
2・3週間前、路傍で倒れ、病院で死亡(42歳)
*)生活のために働かず、父親の遺産をすべて使い果たした。
死後
1870年代 キルケゴールの膨大な遺稿、発見
1879年 ゲオルグ・ブランデルにより本格的なキルケゴールの紹介
*)イプセンの『ブラント』(1866年)のモデルはセーレンなど。
以後、キルケゴールの思想の真価が理解されるようになる。
2,キルケゴールの2大事件
1)<大地震>
セーレンが生まれたときすでに57歳であった父、
ミカエル・ペザーレン・キルケゴールの持つ激しい信仰と
罪の意識(病的に憂愁で罪に観念に悩む)の中で育てられる。
父はセーレンを神学者にすることを望み、
彼を溺愛する一方で、宗教的厳格さによって育てる。
*)セーレン
「子供であるという喜びを私は一度も持ったことがなかった」
「転んで骨を折ることが罪であるとでも言われるようなら・・、
あまりの不安のために本当につまづいて
たぶん骨を折ってしまうだろう。
そうでなくても、骨を折ってしまうところだった
ということに、罪を感じるだろう」
*)木から落ちて脊髄を打つ経験があり、それが罪。
キルケゴール家は西ユトランド半島のセディング、
そこの教会付属領地の農奴であった。
*)北海に面する最果ての地で農業もできない荒野、
羊飼いと泥炭堀りでかろうじて生活する。
セーレンの父ミカエル(9人の兄妹)は、
幼い頃から羊の番をさせられていて、
ある日、飢えと寒さと孤独に耐えられなくなって神を呪った。
*)この出来事は、生涯、
ミカエルの秘密となり、彼は罪の意識につきまとわれる。
やがて、ミカエルは首都コペンハーゲンで商人として成功。
*)11歳の時、コペンハーゲンの毛織物商に奉公に出される。
彼の努力と幸運により商人として成功し
40歳にならない前に産をなした。
38歳の時、妻、クリスティーネ・ニールスダッター・ロイエンを迎えるが、
2年後に肺炎で死亡。
妻の存命中にセーレンの母、
女中のアンネ・セーレンスダッター・ルンと交わり妊娠させたこと。
子供のあいつぐ死
40歳で事業を人に譲り隠退生活に入る。
内縁関係にあったアンネを後に後妻として迎え、
97年9月7日に生まれた女児を始めに3女4男
(1813年5月5日に生まれた末子がセーレン。ミカエル57歳)
*19年、5番目の次男。22年、長女。32年、次女。33年、3男と妻、3女の死。
4番目の長男ペータと末子セーレンが生き残る。
5人の子がミカエル34歳までに死亡。
*)イエスの十字架刑34歳との符合、
セーレンは34歳までの死を覚悟し、
彼が生き残ってることに驚く(手記)。
1838年5月5日
セーレン25歳の誕生日に<大地震>を経験する。
父ミカエルに彼の秘密を打ち明けられた?
*)父の憂愁、罪、経歴はセーレンのそれとなり、
父の高齢は神の祝福ではなく神の呪い、
神の罰は家族全体に加えられ、
父は家族の滅亡を見るまでは死ぬことができないこと。
これがセーレンのうちに「肉体の棘」となった。
神に逆らった罪の贖いのためには
我が子セーレンを生贄の子羊として神に捧げるほかはない。
父の最後の願いはこれであった。
*)5月19日のセーレンの日記
一生を神に捧げることを決意した者の歓喜。
*)8月9日、ミカエルは82歳で死ぬ。
*)8月11日の日記
「父は死んで私から去ったのではない、
父は私の代わりに死んでくれたのだ」
2)<レギーネ・オルセンとの婚約破棄事件>
1837年5月
セーレン24歳、
14歳の少女レギーネ・オルセン(1823~1904)と
初めて出会った。
39年2月2日の日記
「私の心の女王(レギーネ)よ、
私の胸のもっとも奥深いところにひそむ
知られざる女神よ!」
40年9月8日
レギーネに愛の告白、
10日に求婚、レギーネの承諾。
*)レギーネはテルケル・オルセンの末娘、
(コペンハーゲンの商業顧問官)
父も婚約に同意する
11日
セーレンは翌日この婚約について後悔する。
*)後の「彼女に対する私の関係」(手記)
「翌日、私は自分が過ちを犯したことに気づいた。
一人の懺悔者でしかない私、
私の経歴、私の憂愁、それだけで十分であった。
私はその頃言いしれぬほど悩んだ」
婚約の期間を通じてレギーネはしだいに献身的になり、
他方セーレンの憂愁はますます深まる。
41年8月11日
セーレンは手紙とともに婚約指輪を送り返す。
「ほかのことなら何でもできるが、
一人の娘だけは幸福にすることのできなかった
男を赦してください」
10月11日 セーレンはレギーネを最終的に突きはなす。
*)翌日レギーネの父の願いで、レギーネと会う
*)「セーレンの手記」
「そのとき彼女は言った。
<私があなたにしたことを許してください>。
私は答えた。
<私の方こそあなたに許しを乞わねばなりません>。
彼女は言った。
<約束してください、私を憶えているって>
私はそれを約束した。
彼女は言った。
<抱いて接吻して!>
私はそうしたーーだが、情熱なく。
神よ憐れみ給え!」
<婚約破棄の謎>
(「誘惑者の日記」など)
*)レギーネは婚約破棄の撤回を求めるが、
むしろ彼は、著作の中で彼女を突き放そうと試みている。
*)レギーネは、その後、
47年、フレデリック・シュレーゲルと結婚。
*)セーレンは
49年レギーネとの和解を求めた手紙を夫宛に投函、
封をしたまま送り返される。
すぐ後に、レギーネは、夫フレデリックが
デンマーク領西インド諸島の総督になって一緒に旅立ち、
彼女の帰国前にセーレンは死亡。
<諸説 >
1,放蕩と罪の意識
セーレン23歳、まだ大学生、
1836年4,5月頃に
川向こうのクリスチャンハーフン近辺の娼家に泥酔したあげく立ち入る
*)ヨルゲン・ヨルゲンセンという45歳の万年大学生、
才気あふれた放蕩児と一緒に
2,性的不能
少年時代にセーレンは木から落ちて脊髄を打ち、
それが後々に及ぶ彼の身体的欠陥の原因(性的不能もその一つ)となった。
*<くる病>
3,父から子への罪意識の継承:<大地震>
<死の直前の打ち明け話>
病床のセーレンは幼なじみに語る。
「私は自分の棘をパウロのように
自分の肉体の中に持っている。
それで私は普通の境遇のうちに入っていけなかった。
そこから自分の課題は特別なものと結論づけた。
私は摂理の翻弄された。
摂理は私を投げ出し、
私は使い古されるべき運命にあった。
ある時はこう、ある時はこうと。
今は摂理は私に手をさしのべて
私を再び箱舟に引き取ってくれる。
それが何と言っても特殊な使徒の宿命なのだ。
それがまたレギーネとの間を邪魔したものである。
私はそれが変わるだろうと信じたが、
そのようなことはあり得なかった。
こうして私は彼女との関係を取り消した」
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