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    ニーチェ
      ・・快癒を求める思索者
        1844年10月25日~1900年8月25日

  フリードリヒ・ヴィルヘルム・ニーチェ
  (Friedrich Wilhelm Nietzsche)
   *)生まれた同日に、
    40歳の誕生日を迎えた国王フリードリヒ・ヴィルヘルム4世に
    ちなんでミドルネーム、ヴィルヘルムを付けられたが、
    ニーチェは後年これを捨てる
   *)ニーチェによれば、祖先はポーランドの貴族、
    自分の代までにドイツ人の<母親>の血が3人入ってるが、
    外国に行くとポーランド人とみられる。
   *)「ニーチェ」という姓は、ポーランド人の姓のニエツキーの訛り。

 ニーチェ思想へのリンク


 1)ニーチェの人物像

 79年以降、保養地から保養地へ、年金に頼る細々とした生活。
 ホテル住まいといえば聞こえはいいが、
 「シャンブル・ギャルニ」というベッドと机と椅子があるだけの安下宿。
 同宿の人たちといえば、誰も彼も人生にくたびれた老人ばかり。

 口髭をたくわえ、眉毛の濃い、頭髪のふさふさした肖像画から
 想像される<傲岸不屈な超人>とはおよそ反対に、
 いつも同じ黒い服を着て、肩を落として前屈みに、
 度の強いめがねをかけた半病人、これがニーチェの平常の姿だった。

 同宿の人たちに慇懃に挨拶するが
 誰とも深く交際せず、宿の貧しい食卓に腰を下ろし、
 粗末な料理をよく噛んで味わう。
 葡萄酒もビールもその他アペリチフもだめ、
 薄い紅茶だけが彼の胃に適している。
 食後のシガーやシガレットも禁物。
 うまい食事を十分に楽しんだことはなかったに違いない。

 たびたびの旅行には、若干の着替えと大事な原稿と、
 十冊ばかりの本。
 教授を辞任してからもうほとんど本を読まなくなって、
 ニーチェが頼るのは彼の記憶と想像と思索だけ。
 机の上には彼の書き残した紙片と、
 いろいろな薬壜のほか、これといった貴重品は何一つなかった。

  *)ペーター・ガスト(『ニーチェの思い出』1901年)
   「ニーチェは非常にまじめな人で、良い意味でも悪い意味でも、
    一切の役者的なものは全くなかった。
    彼には詩を繊細に深く理解する力はあったが、
    決して優れた朗読者ではなく・・・
    謝肉祭の演じものでも何の役も演じたことはなかった」
  *)『ヨーロッパの哲学』(H・グロックナー)
   「ニーチェは、健康なときも病気のときも低い声で物静かに語った。
    彼の声は穏やかで、快い響きを持ち、美しいメロディーを持っていた。
    彼の歩き方はいかにも物思いに沈んでいた。
    彼の歩みは、広く、大股で、しなやかであった。
    彼の人柄は善良で、彼の風采は上品で、異様なところはなかった。
    病的な目だけが異常であった。
    その目は強度の近視を物語り、
    たいていは何かを求めるように心の内に向けられていたが、
    時折悲しい告発に満ちて遠き彼方を眺めていた。」



 2)生涯と著作

 1844年10月25日
 プロイセン・ザクセン州リュッツェン近郊の小村レッケンの牧師館に生まれる。
 ルター派の裕福な牧師父カール・ルートヴィヒと
 母フランツィスカの子として。

 46年 妹エリザベート(~1935年)
 48年弟ルートヴィヒ・ジョセフが生まれる。

 49年
 5歳、父が頭のけが(脳軟化症)で早世(36歳)。
 50年 2歳の弟ヨーゼフ病死。
 これを機に、ニーチェ一家はレッケンを去り、近郊のナウムブルクに転居、
 父方の祖母と2人の叔母と同居。

 54年 
 ナウムブルクのギムナジウムに通う。
 音楽と国語の優れた才能を認められる。

 58年
 ドイツ屈指の名門校プフォルタ学院(全寮制・個別指導)に特待生として入学。
  *)卒業生にライプニッツ、フィヒテ、ランケ、シュレーゲル兄弟など
 ここで、古代ギリシア・ローマの古典、哲学を学ぶ、ラテン語に習熟。
 友人パウル・ドイッセンと知り合う

 64年
 プフォルタ学院卒業。
 ボン大学入学、神学と古典文献学を学ぶ。
 ドイッセンとともに「フランコニア」というブルシェンシャフト(学生運動団体)に加わる。
 最初の学期を終えた頃、信仰を放棄して神学の勉強をやめたと母に告げる。
  *)『イエスの生涯』(ダーヴィト・シュトラウス)の影響
 古典文献学の権威、フリードリヒ・リッチェルと出会い彼に師事する。
 リッチェルは大学1年生のニーチェの類い希な知性を見抜き、
 ニーチェに受賞させるための懸賞論文の公募を大学当局に持ちかける。

 65年
 ニーチェは、リッチェルのライプツィヒ大学異動とともに、
 ライプツィヒ大学へ転学する。
 エルヴィン・ローデと知り合う。
 下宿していた古本屋の店で、
 ショウーペンハウエルの『意志と表象としての世界』を偶然手に入れ、心酔する。
  *)禁欲的解脱の教え、
   すなわち「倫理的雰囲気、ファウスト的におい、十字架、墓」

 67年
 野戦砲兵として服務年限をつとめるため入隊
 68年、落馬の怪我と強度の近視のため除隊
 リッチェルの紹介でライプツィヒ滞在中の
 リヒアルト・ヴァーグナーと面識を得る。
  *)ローデ宛の手紙で、ヴァーグナーとショウーペンハウエルを論じ合い、
   「音楽と哲学について語り合おう」と自宅に招待されたを伝える。

 69年
 24歳の若さで、バーゼル大学に古典文献学の員外教授として招聘される(翌年,正教授)。
 就任講演『ホメロスと古典文献学』
  *)博士号も教授資格もないニーチェだが、リッチェルの強力な推挙による。
 ニーチェはスイス国籍を取得するためプロシア国籍を放棄するが、
 取得できず、これ以後、終生無国籍者として生きる。
  *)バーゼル大学時代、終生の友人フランツ・オーヴァーベック(神学教授)や、
   ヤーコプ・ブルクハルトと親交を結ぶ。
 バーゼル大学時代のニーチェの業績は、
 古代の詩の基本単位が、近代詩のようなアクセントによるではなく、
 音節の長短によることを発見したこと。

 *70年~71年 普仏戦争起きる
 ニーチェはプロシア軍に看護兵として従軍、
 ジフテリアや赤痢に罹り1ヶ月足らずで送還される。
  *)この頃から、ニーチェの身体は恐るべき病魔の巣窟となる。
   第1がハンマーでたたかれるような激しい頭痛(失神することもたびたびある)、
   偏頭痛、胃痙攣、発熱、悪寒、寝汗、食欲減退、不眠症など・・
   不眠症のため抱水クロラールを常用。
   さらに、彼の視力(4分の3盲目といわれるぐらい)により
   厚い玉のようなレンズで読書。
   書き物をすると、すぐに目が腫れあがり涙が止めどもなくにじむ。

 *71年、ドイツ帝国成立、ビスマルク台頭、
 ニーチェは戦後のドイツに懐疑的

 72年
 『音楽精神からのギリシア悲劇の誕生』出版
  (再版以降、『悲劇の誕生』と改題) 
 ニーチェは、ヴァーグナーを現代におけるギリシア精神の体現者として称賛、
 文献学方面からは悪評(師のリッチェルを含め)。
  *)同年冬学期のニーチェの講義には聴講生2名(しかも他学部)のみ
  *)この頃から、ヴァーグナー宅の集まりで、
   リベラルな女性マルヴィーダ・フォン・マイゼンブーク
    *)女性解放運動家、レーやニーチェにルー・ザロメを紹介。
   音楽家ビューロー(コジマ・ヴァーグナーの前夫)、
   パウル・レーと交友を持つ。

 73年~76年 
 ニーチェは4本の長文の評論を発表。
 『ダーヴィト・シュトラウス、告白者と著述家』(73年)
 『生に対する歴史の利害』(74年)
 『教育者としてのショーペンハウアー』(74年)
 『バイロイトにおけるヴァーグナー』(76年)
  *)この4本を、のち『反時代的考察』(76年)として出版。
  *)発展途上のドイツ文化について文明批評。
   ショーペンハウアーとヴァーグナーの思想を下敷きにする。
  *)ヴァーグナーとの決別はまだ抑えられている。

 76年冬
 イタリア・ソレントのマイゼンブークの別荘に、
 レー、マイゼンブークと3人で滞在。
 別荘での議論を下に、レーが『道徳的感覚の起源』を執筆、
 ニーチェは高く評価し、
 レーの思想と交友が、
 ニーチェのショーペンハウアー風のペシミズムからの脱却に影響を与える。
  *)偶然近くのホテルに滞在中のヴァーグナーと会う、
   これが両者の最後の出会いとなった。

 78年
 『人間的な、あまりに人間的な』出版
 形而上学から道徳、あるいは宗教から性まで
 多彩な主題をもつアフォリズム集、
  *)ショーペンハウアーとヴァーグナーとの決別を明らかにする。
  *)ニーチェ思想の初期から中期の分岐点となった。
   初期ニーチェの良き理解者であったドイッセンやローデとの交友も途絶えがちになる。
  *)のち、第2版で第2部として、
   アフォリズム集『さまざまな意見と箴言』(79年)
   『漂泊者とその影』(80年)を組み込む。

 79年春
 34歳、バーゼル大学教授辞任を申し出る。
 激しい頭痛と嘔吐その他に襲われ、これまでの病も治癒せず、
 大学の仕事に支障をきたして辞職。
  *)許可した大学は、ニーチェに以後6年間、
   3千フランの年金(今日の日本では二百万円相当?)を支給する。
   この年金が以後のニーチェの唯一の収入源となる
   (時には友人たちからの経済的支援もある)。


 <以降、ニーチェの在野時代>
 79年春 バーゼルを去って、
 この年の夏、オーベル・エンガーデンのサン・モーリッツで過ごす。
 9月、母の住むナウムベルクに帰る。
  *)以後も時折ナウムブルクに帰るが、
   妹エリザベートとの衝突と和解を繰り返す。

 79年
 この1年のうち118日(およそ1年の3分の1)を病魔で苦しんだ!?。
 この年の冬は、
 「自分の活力の最低点に達した」、「生涯の最も暗い冬」という。
  *)36歳で死んだ父、自分もやがて36歳になることを意識する。
  *)ペーター・ガスト宛(9月11日)
   「私は35年の生涯の終わりに立っている。
    ・・・いまや私は人生の半ばに立って、実に、いつ何時、
    死の手に捉えられているかもしれないように、
    <死に囲まれ>ている」

 80年3月
 太陽を求めてイタリアのヴェネチアに、
 夏にはボェーメルヴァルトの東、マリエンバートに滞在。
 次いで、冬(11月)にはイタリアのジェノヴァに移り、
 『曙光』を完成

 81年4月
 ジェノヴァを去り、北イタリアのレコアロへ、
 健康の悪化により次いで、スイス・グラウビュンデン州サン・モーリッツ近郊の村、
 シルツ・マリーアに初めて3ヶ月滞在、
  *)Sils Maria ドイツ語読みジールス・マリーア(シルス・マリア)、
   ロマンシュ語読みでシルツ・マリーア。  
  *)イン川の水源をなすこの辺の湖は一括してエンガーディナ=ゼーエンと呼ばれる。
   日本の上高地をもっと雄大にした風景、奥の湖は標高1797Mになる。
  *)現在、ニーチェの宿泊した宿は、ニーチェ記念館として保存されている。
   ニーチェは、こぢんまりとした部屋数も少ない2階建ての宿の、
   裏山に面した眺望も何もない狭い部屋で、
   83年以来88年まで一夏を過ごす(冬はニースで)
   88年狂気に襲われる最後の年はトリノで)。


 8月のある日、
 「永劫回帰」の思想の襲来。
 ニーチェは近くのシルヴァプラーナ湖畔の森を散策中に、
 「人間と時間の彼方6千フィート」のところで、
 永劫回帰の着想を得た。
  *)ガスト宛(8月14日)
   「私の地平線上には、
    かつて見たこともなかったような思想が昇ってきた
    ーー私はおそらくなお2,3年生きねばならないだろう」
  *)シルツ・マリーアの夜の静寂
   一歩戸外に出れば、真の闇、
   前面にそそり立つ岩山の稜線によって限られた空には、
   無数の星がきらめく。
   <これが人生というものだったのか?、死に向かって言おう、
    よし!それならばもう一度>
   という深刻めいた表現も、この神秘な夜のもとでは少しもおかしくない。

  *)『曙光:道徳的先入観についての感想』発表(90年、完成)
   後期の思想、価値転換の時代、キリスト教排撃。
   扉、「いまだ光を放たざる、いとあまたの曙光あり」
   (『リグ・ヴェーダ』より)
  *)曙光について(『あの人を見よ』)
   「あの新しい朝を、これまで発見されなかったあの優しい曙光を、
    どこに求めるか? それによって再び一つの日が、
    ーーああ、新しい日々の系列そのものが、世界が!
    ーー始まる朝を、曙光を?」

 冬(10月1日)にジェノヴァに戻る。

 82年
 3月末ジェノヴァを去り、シシリー島への船旅、メッシナに移る。
 4月 
 ローマでルー・ザロメと知り合う
 (マイゼンブークとパウル・レ-を通じて)

 ルー・ザロメを巡る三角関係
 5月、スイス・ルツェルン、夏テューリンゲン州タウンテンブルクで
 レーやザロメと過ごす。
  *)ルツェルンでは、レーとニーチェが馬車を引き、
   ザロメが鞭を振るという悪趣味な写真を、ニーチェの発案で撮る。
 その後、ニーチェはレーをさしおいて
 ザロメを追い回し、求婚するがつれない返事(レーも同様に振られる)。
 *)三角関係の解消
  82~83年冬に破綻
 レーとザロメはベルリンに去り同棲生活。
 ニーチェの妹エリザベートが、ザロメに嫉妬し、
 三角関係を不道徳としてニーチェとザロメの仲を引き裂く。
  *)兄の手紙を破棄、あるいは偽造、ザロメを中傷するなど。


 『悦ばしき知識』第1部発表
 永劫回帰の思想、「神は死んだ」
  *)オーヴァーベック宛(82年9月)
   「あなたがもし「聖なる一月」を読んだら、
    あなたは私が<回帰線>を踏み越えことに気付かれるでしょう。
    私の眼前の一切が新しくなった。
    私が、私の遙かなる生涯の恐るべき面貌を目のあたりにするのも、
    遠いことではないでしょう。
    この長い豊かな夏は、私にとって一つの試練の時であった。
    私は極めて勇敢に誇りを抱いてこの夏に別れを告げた。」

 83年冬
 ルー・ザロメとの破綻、
 傷心のニーチェはイタリア・ラッパロに逃れ、
 10日間で『ツァラトゥストラはかく語りき』第1部を書き上げる。
  *)『この人を見よ』で「インスピレーションを得れば十分であった」
    と豪語しているが、遺稿では10日間は疑わしい。
 『ツァラトゥストラはかく語りき』第1部

 85年
 『ツァラトゥストラはかく語りき』第4部
  (40部印刷、一部を友人に献本)

 86年
 この頃からニーチェ思想への関心が徐々に、
 本人気づかれないほど遅遅としいるが、高まって行く
『善悪の彼岸』自費出版

 87年にかけて、これまでの著作の第2版を再刊
 『悲劇の誕生』、『人間的な、あまりに人間的な』、
 『曙光』、『悦ばしき知識』

 カール・シュピッテラーやゴットフリート・ケラーと知り合う。
  *)シュピッテラー、処女作『プロメテウスとエピメテウス』は
   『ツァラトゥストラ』から影響。1919年ノーベル文学賞受賞作家。
  *)ケラーの教養小説『緑のハインリヒ』を
   ニーチェは、ゲーテ『ヴィルヘルム・マイスター』、
   シュティフター『晩夏』とともにドイツ文学中で最も高く評価。

 妹エリザベートが反ユダヤ主義者のベルンハルト・フェルスタートと結婚、
 パラグアイに「ドイツ的コロニー」を設立する計画を立て、旅立つ。
  *)書簡の往来を通じて兄妹は対立と和解の間を揺れ動く。

 87年
 イポリット・テーヌやゲーオア・ブランデスと文通。
 長時間の執筆できないなか、『道徳の系譜』書き上げる。
 ドストエフスキーの著作(『悪霊』、『死の家の記録』など)を読み、
 その思想に共鳴している。
  *)テーヌに『善悪の彼岸』を寄贈、好意的な礼状を受け取る
  *)ブランデスに『道徳の系譜』を寄贈、
   ブランデスは88年コペンハーゲン大学でニーチェ思想の講義、
   これによってニーチェの名を世上に知らしめた。
   彼にはキルケゴールとニーチェを本格的に取り上げた功績があり、
   また、ニーチェにキルケゴールを読むように勧めた。 
  *)キルケゴールの思想を解説・批評した2次資料のいくつかを
   ニーチェが読んでいたことが現在明らかになっている。
    (55年キルケゴール死、89年ニーチェの発狂)
  
 88年2月10日
 ラインハルト・フォン・ザイトリッヒ宛
  「もしかすると、私は現代の第一の哲学者であるかもしれない。
   いやそれよりも少し優れた者、
   二千年にわたって立つ決定的な何ものか、
   運命的な何ものかであるかもしれない・・・
   ドイツでは、私はもう44歳になり、
   およそ15冊の著作を出版したにもかかわらず、
   私の著作のうちただ一つでさえ、
   ほんの僅かでも注目すべき批評を受けたことがない。
   誰もが、風変わりだ(エクスツエントリシュ)、
   病的だ(パトロギッシュ)、精神病的だ(プシキアトリッシュ)
   というような言葉で片付けているのだ。」


 88年
 <発狂以前>
 健康状態も改善の兆しを見せ、夏は快適に過ごすことができた。
 秋頃からニーチェは彼の著作や書簡において
 自らの地位と運命に重きを置くようになり、
 彼の著作に対する世評も高まると、自分で過大評価するようになる。
 *)5冊の著作、
  これらは長らくあたためていた大作『力への意志』のための膨大な草稿をもとにしていた。
  『偶像の黄昏』、『ヴァーグナーの場合』、『アンチクリスト』、
  『この人を見よ』、『ニーチェ対ヴァーグナー』
 *)44歳の誕生日、自伝『この人を見よ』の執筆開始。
  序文「私の言葉を聞き給え! 
   私はここに書かれているがごとき人間なのだから。
   そして何より、私を他の誰かと間違えてはならない。」
  また各章題には
  「なぜ私はかくも素晴らしい本を書くのか」「なぜ私は運命であるのか」と。

 12月、ストリンドベリとの文通を始める。
 国際的な評価を求め、
 過去の著作の版権を買い戻し外国語訳をさせようとしたり、
 さらに『ニーチェ対ヴァーグナー』と『ディオニュソス賛歌』の合本出版を計画したり、
 『力への意志』を精力的に推敲、加筆したりするが、
 突如として彼の活動は終わる。



 3)狂気とその後

 88年12月頃から狂気の兆候現れる
 89年1月3日
 ニーチェはトリノの往来で騒動を引き起こして
 二人の警官の厄介になった。
 (それ以上の事情は明らかになっていない)
  *)逸話として、
   トリノのカルロ・アルベルト広場で、
   御者に鞭打たれる馬を見て
   奮い立ったニーチェがそこに駆け寄り、
   馬を守ろうと首を抱きしめながら泣き崩れ、
   やがて昏倒した、という。
  *)ドストエフスキーの『罪と罰』では、
   主人公ラスコリニコフが、
   少年時代に鞭打たれる痩せ馬を見て泣きわめいた
   という夢を見てうなされる場面がある。

 4日以後、友人たちに謎のような手紙を書き送る。
  *)署名 Der Gekreuzugte(十字架にかけられし者)、
   あるいはDionysos
 ブルクハルト宛(6日)
 「私はどこへ行くにも学生上着を着て、
  あちこちで誰彼の区別もなく肩をたたいては、こう言います
  ーー俺たちは満足しているのか? 
  俺は神だ、俺はこんなカリカチュアをしてしまったのだ・・・と。
  ・・・コジマ夫人・・アリアネド・・のために残された物が
  ときどき魔法にかけられます。
  私はカイパスを拘束させてしまいました。
  昨年には私自身もドイツの医師たちによって延々と磔にされました。
  ヴィルヘルムとビスマルク、
  すべての反ユダヤ主義者は罷免されよ!・・・」
   *)カイパス :イエス時代のユダヤ祭司長

 コジマ・ヴァーグナー宛
 「私が人間であるというのは偏見です。
  ・・・私はインドにいた頃は仏陀でしたし、
  ギリシアではディオニュソスでした。
  ・・・アレクサンドロスとカエサルは私の化身ですし、
  ヴォルテールやナポレオンだったこともあります。
  ・・・リヒアルト・ヴァーグナーだったことが
  あるよう気もしないではありません
  ・・・十字架にかけられたこともあります。
  ・・・愛しのアリアネドヘ、ディオニュソスより」
   *)コジマへの横恋慕がヴァーグナーとの決裂に関係した?
   *)コジマはニーチェを<夫を侮辱した男>と見ている。
    「あれほど惨めな男は見たことはありません。
     初めて会ったときから、ニーチェは病に苦しむ病人でした」
     (マイゼンブーグ宛)

 ブルクハルトは、彼宛の手紙をオーヴァーベックに見せる。
 翌日オーヴァーベック宛にも手紙が届く。
 オーヴァーベックは急遽トリノに行き、
 狂人を連れてバーゼルに戻り、彼を精神病院に入れる。

 まもなく母親が来て、
 彼を故郷に近いイェーナの大学病院精神科に入院させ、
 オットー・ビンスヴァンガーに診て貰う。

 11月~翌年2月、ラングベーンが治療、彼はやがて信頼を失う。
 母フランツィスカは、90年3月ニーチェを退院させ、
 5月ナウムブルクの実家に引き取る。
 妹エリザベート、91年(93年?)、南米パラグアイから帰国。
  *)89年、夫が「ドイツ的コロニー」経営に失敗して自殺。

 97年、母親の死。
 妹エリザベートは、ニーチェを連れてワイマールに引っ越し、
 彼の面倒を見る。
 訪問する人々(ルドルフ・シュタイナーなど)に
 意思疎通できない兄ニーチェとの面会を許す、


 ニーチェの狂った意識は戻らず、
 10年後、1900年8月25日
 肺炎に罹り55歳で没する。
  *)遺体は、故郷レッケンの教会の父の隣に埋葬された。
  *)葬儀。軍関係者や知識人たちによって盛大に行われる。


 発狂以前の遺書でニーチェは
 「私の葬儀には数少ない友人以外は呼ばないでほしい」と記すが、
 エリザベートは友人たちに参列を許さない。

 ペーター・ガストの弔辞
 「未来のすべての世代にとって、あなたの名前が神聖であらんことを!」
  (「私は聖者になりたくない、道化の方がまだましだ」(『この人を見よ』))

 ニーチェの狂気について、初期の解説者は梅毒説、症状から脳腫瘍説もある。
 また、ニーチェの狂気と哲学の関係について多くは無関係と見るが、
 ジョルジュ・バタイユやルネ・ジュラールは
 彼の狂気を哲学によってもたらされた精神失調とする。


 4)ニーチェ死後の著作出版

 ニーチェの生前に、オーヴァーベックとガストが、
 未発表作品の扱いを相談していた。
 ニーチェの受容と認知の最初の波を迎えようとしていた。
 89年1月、『偶像の黄昏』(すでに印刷・製本)を刊行、
 2月、『ニーチェ対ヴァーグナー』(私家本50部)発注
 (版元ナウマンひそかに100部印刷)
 『アンチクリスト』と『この人を見よ』は
 あまりに過激な内容であるとして出版を見合わせる。

 妹エリザベートは、兄の名声がようやく高まるにつれて、
 オーヴァーベックとガストの刊行計画を妨害し、
 計画の支配力を振るうようになり、
 オーヴァーベックを追放、ガストを彼女に従わせる。
  *)自分で全集刊行を計画する。
   兄の死の1年前、1899年から1912年、全19巻で完結。

 エリザベートは反ユダヤ主義の立場から、
 ニーチェの死後
 1901年『力への意志』(Der Wille zur Macht)を編集、刊行。
  *)Machtを政治権力の意味で、
   権力志向を肯定する著書であるかのように編集する。
   後に、「ニーチェの思想はナチズムに通じるものだ」
   という誤解を生む原因となった。
  *)彼女の恣意的な編集がニーチェの意図を
   正確に反映したものでないことは知られている。
  *)『グロイスター版ニーチェ全集』編集者
   マッツィノ・モンテネリは「贋作」と言い切る。
  *)エリザベートは自分に都合良く、
   事実に基づかない伝記の執筆や書簡の偽造を行い、
   ニーチェの虚像を広めた。
  *)1935年まで生きた彼女とナチズムの関係?


 5)生前の著作
   *)ほとんど自費出版

 1887年、43歳の時まで、
 遺稿となったものを除いてほとんど自費で出版。
 7月18日、若い友人ペーター・ガスト宛の手紙
  「この3年間に印刷費を500ターレルも支払った。
   しかも報酬は一銭もない。
   これが今まで15冊も本を出版させ
   43歳になった男のていたらくだ」とこぼす。
   *)ペーター・ガスト
    ニーチェが付けたペンネーム。本名ハインリッヒ・ケーゼリッツ
    ニーチェのかつての生徒で音楽家、終生ニーチェに従う。
   
 同年、折も折、思いがけない遠方から、
 デンマークの文芸評論家ゲオルク・ブランデスから、
 ニーチェの著作を取り上げて講演したいと申し入れがあった。
 ニーチェは、喜びのあまり、出版社に命じて自分の全著作を
 ブランデスのもとに送らせ、手紙で自著の解説を書き、
 履歴書まで添える。
  *)ブランデスは、大著『19世紀文学の主潮』を出して売り出す。
   キルケゴールの紹介者でもあった。

 88年4月初め ニースから
 イタリア・トリノのカルロ・アルベルト街の安下宿に移る。
 コペンハーゲンから「ドイツの哲学者フリートリッヒ・ニーチェについて」
 というブランデスの連続講演を報知した新聞が届けられ、
 有頂天となったニーチェは、友人たちに手紙で触れまわる。 
  *)ついでに、初めて移り住んだトリノの町もすっかり気に入る。
  「私の心に適った唯一の都会です。落ち着いた荘厳な都会です。
   それに都会の真ん中にいてアルプスが見られる。
   私のところから50歩向こうに、
   カリニャーノ宮殿があり、それが私の壮大な相手です。」
  *)安下宿の食事までおいしくなる。
  「野菜入りの米スープ、または米料理に大きな焼き肉一切れ、
   野菜、パン、おいしいものばかりだ。」

 88年6月 いつものシルツ・マリーアに移る。
 だが、この年の山の気候は雨が多く、ニーチェの健康に良くなかった。
 10月 トリノに戻る。
  「部屋代はサービス料を入れて月5フラン。長靴も磨いてくれる。
   レストランでは、一食1フラン15サンチーム払うが、
   もう10サンチーム添えてやる。その代わり野菜スープをたっぷり貰う。
   柔らかい肉の一切れ、わけても仔牛の肉のおいしさ、
   これは今までに食べたことがなかった。それに、ほうれん草などがついてくる。」
   *)故郷の母にも、
   「仔牛の肉の柔らかさといったら、私は生まれて初めてです。
    また、念入りの洗練された料理。
    今まで私は食欲とはどんなものか知りませんでした。」


 6)ニーチェの「反ユダヤ主義」嫌い

 もともとニーチェは自らの家系をポーランド貴族の末裔と思っていた。
 また、プロイセンの国籍(のちのドイツ国籍)を放棄し、
 以後、無国籍者として過ごし、国家に対する帰属意識を持たなかった。
 普仏戦争の際に看護兵として従軍したのだが
 ドイツ帝国、ビスマルクへの反感。

 妹エリザベートの「反ユダヤ主義」
 エリザベートが反ユダヤ主義者と知られるベルンハルト・フェルスターと結婚し、
 南米パラグアイに移住(86年)たのち、
 87年の妹宛の手紙
  「おまえは何という途方もない愚行を犯したのか
   ーーおまえ自身に対しても私自身に対してもだ! 
   おまえとあの反ユダヤ主義者グループのリーダーとの交際は、
   私を怒りと憂鬱に沈み込めせて止まない。
   私の生き方とは一切相容れない異質なものだ。・・・」
 88年、兄ニーチェ宛手紙
 ニーチェを評価したブランデスがユダヤ人であること。
  「兄さんはまた有名病にとりつかれてますね。
   でも兄さんは、人もあろうに何という賤民を探し出したのでしょう!
   鍋という鍋を片っ端からなめまわすゲオルグ・ブランデスなんて人を」

 『善悪の彼岸』で「ドイツ的なもの」とその喧伝者への批判に1章をあてる。
   *)死後刊行された草稿、
    ドイツ人のいう「偉大な伝統」なるものを揶揄。
    「ユダヤ人こそがヨーロッパで最も長い伝統を持つ、
     もっとも高貴な民族である」
    「反ユダヤ主義にも効能がある。
     民族主義国家の熱に浮かされることの愚劣さを
     ユダヤ人に知らしめ、
     彼らをさらなる高みへと駆り立てられることだ」


 7)ヴァーグナーとの交友

 68年、恩師リッチェルの紹介で
 ライプツィヒ滞在中のリヒアルト・ヴァーグナーと面識を得る。
 ローデ宛の手紙で、
 ヴァーグナーとショウーペンハウエルを論じ合い、
 「音楽と哲学について語り合おう」と自宅に招待されたを伝える。

 ニーチェのヴァーグナー心酔
 バーゼル時代のニーチェは、
 スイス・ルツエルン市トリプシェンのヴァーグナーの邸宅に
 (23回の記録残る)行く。
 ヴァーグナーは、31歳年下の二ーチェをかれの親しい友人たちの集いに誘う。

 70年、ヴァーグナーの妻コジマの誕生日に
 「悲劇の誕生」の論文手稿を贈る。
 1848年のドイツ3月革命に参加したヴァーグナーは、
 『芸術と革命』などの論文で古代ギリシア文化(とりわけギリシア悲劇)を
 復興する芸術革命によってのみ自由と高貴さを獲得しうると、
 ロマン主義思想を述べる。
  *)革命家=ヴァーグナーと見立てる。
 72年、処女作『音楽精神からのギリシア悲劇の誕生』をヴァーグナー捧げる
     *)古典文献学的手法を踏み外して、
      ヴァーグナーを評価(文献学者から不評)

 <ヴァーグナーから離反>
 76年、落成したバイロイト祝祭劇場で
 第1回バイロイト音楽祭、初演の『ニーベルングの指輪』を観るが、
 上演の途中、失望したニーチェは抜け出してしまう。

 ヴァーグナーは、パトロンのバイエルン王ルートヴィヒ2世や
 ドイツ皇帝ヴィルヘルム1世といった各国の国王や貴族に囲まれて
 得意の絶頂にあった。
 しかし、劇そのものは不評で、
 そのためヴァーグナーは一時ノイローゼになる。

 ニーチェは、
 ヴァーグナーの音楽がしだいに大衆迎合的な低俗さを増し、
 そこには、芸術革命を唱えた姿はなく、
 古代ギリシア精神の高貴さではなく、
 ブルジョア社会の卑俗さしかないと確信した。

 78年、『人間的な、あまりに人間的な』を出版。
 公然とヴァーグナーを批判し、ヴァーグナーとの決別となる。
 この年、ヴァーグナーから『パルジファル』の台本を贈られて来たが、
 この通俗的な「聖杯伝説」の構想を得意げに語るヴァーグナーへの反感が募る。



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