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実存の思想
・・サルトルとハイデガーをめぐって
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存在(ある) 実存 再び実存とは
サルトルとハイデガーの違い
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サルトルの実存主義 existentialisme
1945年10月、サルトルは、クラブ・マントナンで
「実存主義はヒューマニズムか?」と題して講演した。
サルトルの実存とは
①「実存は本質に先立つ」L'existence précède l'essence
人間は、何よりもまず、実存してしかるのちにみずからを考え、
実存へのこの出現ののちにみずから欲するところのものになる。
逆に、本質が実存に先立つ場合。
例)職人とペーパーナイフ。キリスト教の神(創造者)と人間。
古代哲学では、デミウルゴスとしての神が
パラデイグマ(原型)にしたがって世界を創造。
近代では、神なしで、個々の現実的な人間の存在に先だって、
<人間性一般>を思考の前提とする。
ディドロ、ヴォルテール、カント・・・
②「人間は、彼がみずからつくるところのものより以外の何ものでもない」
L'homme n'est rien d'autre que ce qu'il se fait.
*)ジュール・ルキエ「行為する。行為することによって自己をつくる」
faire et en faisant se faire.
③「主体性 subjectivité から出発しなければならない」
④人間の孤独とは神が存在しないこと。
ドストエフスキー。
「もし神が存在しないならば、すべてが許されるであろう」
キルケゴールは、
「神にとってはすべてが可能である」という信仰のうちに、
実存者の生きるべき呼吸を見いだした。
サルトルは、無信仰の態度を絶望と呼ぶならば、
根元的な絶望から出発する。
サルトルによる批判
ある種の世俗的道徳は、
神の存在を無用で有害な仮説と見なしながら、
しかも社会的秩序や文明世界が存続するためには、
いくつかの価値がア・プリオリに存在し、
従前通りに神聖なものとして通用しなければならない、
と妥協的態度をとる。
例)アラン
「神は、あたかも神が存在しないかのごとくであらねばならない」
「存在」「ある」とは?
英being 仏etre 独sein
①もっと普遍的な、しかももっとも単純な概念で、定義することが出来ない。
パスカル『幾何学の精神』
「存在」、「ある」を定義しようとすれば、
「それは・・・である」(C'est・・・)と言わねばならず、
定義されるはずの語が定義の中で使用される不合理に陥る。
なお、中世哲学では、一つの「超越概念」。
ヘーゲルでは、「無規定的な直接性」
②アリストテレスによると、「存在は多様に語られる」
存在者(実体)についての「存在」「ある」は、
「どんな」(性質)、「どれだけ」(分量)、「いつ」(時間)、
「どこに」(場所)など、<範疇の諸形式>にしたがって
「存在」「ある」が言われる。
*)また、偶然的・付帯的、真・偽、可能的・現実的などの範疇により。
アナロギア(類比)の統一ともいう。
存在は、多様な意味が或る一つのものから出て、
或る一つのものに帰するような類比的な関係にある。
「存在」という概念は、数において、種において、類においても
一つであることができないが、
類比(アナロギア)において一に帰する、と言われる。
③「存在」「ある」の二つの意味
「・・・である」( être )と、
「・・・がある」( il y a )
「Aは人である」の「A」は、主語として、現実的個別的な存在を、
「人」は述語として抽象的一般的な(普遍的な)存在をあらわす。
アリストテレスの用法では
主語Aをトデ・チ(tode ti)=「このもの」と呼び、
「個物」「個体」にあたる。
こちらが「・・・がある」( il y a )の意味の存在。
述語「人」をト・チ・エン・エイナイ(to ti en einai)
=「何であるべくあったか」と呼ぶ。
こちらが「・・・である」( être )という意味の存在。
そして、その「・・・」が定義の内容になる。
*)to ti en einai をラテン語で直訳すると、
クォド・クィド・エラート・エッセ(quod quid erat esse)で、
エッセンチアessentia(「本質」)という。
エッセンチア(本質)は、「もともと何であったか?」という問いに、
「これこれだ」と答える時の「これこれ」を指す。
<定義>
エッセンチア「本質」の概念的表現が「定義」
①アリストテレスの哲学では、
第一義的に端的に存在するのは、ウーシア(実体)であり、
この実体はまず第一に「このもの」(個物)であり、
普遍はこの個物を離れては存在せず個物のうちにのみ存在する。
*)プラトンのイデア論の否定
ただ「このもの」(個物)はそれだけでは、
これを定義することも認識することもできない。
定義によって認識されるのは個物の「本質」である。
この「本質」は「素材における普遍」「素材に内在する形相」である。
*論理学における類と種差の結合
例)「人間は理性的動物である」
人間の本質は、「動物」という類、「理性」という種差の結合。
②ヘーゲルでは
「本質とはあったところのものである」Wesen ist war gewesen ist
「もともとこれこれであったが、いまもなお変わらずにこれこれである」の
「これこれ」を指す。
ヘーゲル『精神現象学』
「これ」といって指示されるような個々のものの実在性を否定した。
*)「このもの」、「この人」が、そのように認められ言い表されるかぎり、
それはすでに「このものならぬもの」であり、
しかもそれと同時に、
「このもの」でも「あのもの」でもありうるような一般者である。
ヘーゲル流にいえば、
「このもの」として「いま」「ここ」に指し示されるている当のものは
感覚的な確かさの中でそれを指し示していると思っているだけで、
それを言い表すことはもとより思い浮かべることもできない、という。
「このもの」「いま」「ここ」とか「個物」とか言っているのは、
「すべてのそれ」である。
同様に、「私」あるいは「この個別的な私」と言うことによって
言っているのは、一般に「すべての私」である。
*)ヘーゲルの弁証法的な一般化に反対して、
絶対的に個別的な「このもの」、この恋人、この友人について
恋人一般、友人一般は存在しない、と反論できる。
では、実存 Existence とは?
英仏 existennce 独 Existenz (通常は「存在」と訳す)
ラテン語 エクシステンチアexistentia
語源的に動詞 ギ語 existanai 、ラ語 exsistere、existere で、
「・・・から外に出で立つ」(ex hors de +sistere, s'élever)、「現れる」の意味。
そこから、「現実にあらわれている存在」=現実存在
中世スコラ哲学では、
エクシステンチア(存在)existentiaと
エッセンチア(本質)essentia の区別
*)近代ヨーロッパ諸語はこの区別を継承
Daseinの用法 :ハイデガーが独特の用語としている。
ドイツ語では、ExistenzとEssenzの対立概念より、
前者をDasein、後者をWesenというのが普通。
ドイツ語のDaseinは従来の用法では
Existenzとともに現実存在を意味する語で、
フランス語のexistenceと同様、<生活、生存>の意味でも用いられる。
例)Daseinskampt 「生存競争」
*)ヘーゲルの論理学では、Seinが全くの端緒で無規定的な存在であるのに対して、
Daseinは「すでにそこに(現)これこれのものとしてある」という、
規定された存在である。(「定在」「定有」という訳語)
例)「神の存在証明」
フランス語 preuve de l'existence de Dieu
ドイツ語 Beweis vom Dasein Gottes
ハイデガーによるDasein
ハイデガーの独特の用語として「現存在」と訳す。
<Dasein>は文字通りに訳せば、「da(そこに)・sein(ある)」
<da>にハイデガーが「存在がそこで開示される場」、
「存在のあらわれの場」という意味を持たせた。
要するに、<暗黙の存在了解>をもって存在している現存在は、
「存在を求める問い」の通路であり、「存在のあらわれの場」でもある。
*)フランス語ではドイツ語のDaseinもExsistenzも「existence」で言い表すので、
サルトルは『嘔吐』や『存在と無』では、直訳の「 être-là」を用いる。
サルトルの<là>は、「諸々の事物が帰趨する中心としての私の場所」
という意味が強い
ハイデガーでも意味内容からすれば、
Daseinはmenschliches Dasein「人間的現存在」であるので、
サルトルは「人間的現実」(réalité humaine)と言い換えている。
ハイデガーの「存在者」(Seiende)と「存在」(Sein)の区別
ハイデガーによると、日常の言葉で存在と言ってるのは
ほとんどすべての場合「存在者」(存在物)を指している。
「ある」が問題なのに「ある」を忘れて
「あるもの」ばかりを問題にしている(存在の忘却)。
「存在を求める問い」で問われているのは「存在」であり、
問い求められているのは「存在の意味」、
この問いを誰に向かって問うか、
これはたとえ漠然としていても存在を了解する存在者でなければならず、
これがわれわれ人間である「現存在」である。
問いかける者も問いかけられる者も現存在としての人間である。
*)現存在としての人間は、自己の存在において、
この存在自らが問題になり、
何らかの仕方で自己の存在において自己を了解している。
再び実存とは?
①ハイデガーの実存(Existenz)
現存在は、「存在それ自ら」に対して、
あれこれの態度を取ることができ、またつねに何らかの態度を取っている。
この「存在それ自ら」を「実存」と名付ける。
そして、現存在は、自己自身をつねに自己の実存から了解している。
*)自己自身であること(実存する)も、自己自身でないこと(実存しない)も
できるという自己自身の「可能性」から自己自身を了解している。
肝心なことは<実存すること>
実存的(existenziell) 単に経験的に実存するあり方
実存性(Existenzialität) 理論的に明らかにされた実存の構造連関
*)実存性に規定される現存在の存在性格を「実存範疇」Existenzialien と呼び、
現存在以外の存在者には「範疇」(カテゴリー)をあてる。
②世界内存在
ハイデガーでは
現存在の根本的構造は「世界ー内ー存在」In-der-Welt-seinであり、
現存在が環境世界のなかで「気をくばる」ことによって
最初に出会うのは、道具という存在者である。
*)道具(存在者)のあり方は、
「何々のための或るもの」(etwas,um zu ・・)という存在性格を持ち、
「手元にある存在」「用いられる存在」としてZuhandenseinと呼ばれる。ーー「道具存在」
ジャン・ヴァールは、「道具および障碍としての存在」と呼ぶ。
*)反対に障碍となる存在を含めて
サルトルでは、人間をとりまく諸々の「道具ー事物」は
それぞれ有用率や逆行率を持ち、私の周りに私のためにまたは私に逆らって、
それぞれの潜在性を展開する、という
*)道具存在の背景に「眼の前にある存在」
「ただそこにありあわせている存在」の意味で、Vorhandenseinがある。ーー「事実存在」
*)ヴァールが「単なる光景としての存在」と呼び、
サルトルが「ただの事物」choses brutes 「ただの存在物」existants brutes と呼ぶもの。
サルトルでも
「人間存在」の根本的特徴を
「世界ー内ー存在」être-dans-le-mondeとして捉え、
道具存在や事物存在をひとまとめに
「世界のーただなかにーおけるー存在」être-au-miliueu-du-mondeとする。
例)たんなる石(事実存在)が金槌代わりに用いられる(道具存在)と、
「何々のための或るもの」となり、
道具連関によって「目的となる何ものか」Wozu, pour quoiを指し示し、
「目的となる何びとか」Worumwillen, pour quiに行き着く。
*)この行き着く地点がハイデガーでは現存在。
サルトルでは、道具複合が人間存在に至って停止するわけでなく、
人間でさえも風景の一点在なら事物存在と変わりなく、
多くの場合人間は「他者のための道具存在」に陥っている。
人間は道具複合の無限指向から逃れることはできない。
*)事物存在、道具存在、人間存在(現存在)は
三つの存在領域でなく、
存在者のそのときどきのあり方を示す区別にすぎない、という。
実存思想・・サルトルとハイデガーの違い
①サルトルは人間存在réalité humaine をそのまま実存 existence とする。
人間の実存は一つの企て、企てるprojeterは、語義通り、前に投げかけること。
脱自ek-stase(エクスターズ)としての実存。
*)エクスタシス ekstasis, extase 「恍惚」「忘我」「有頂天」
語源的に「外に出で立つ」を意味する。自己の外に
*)実存existenceの語源も「・・・から外に出で立つ」こと。
人間は、自分が現にあるところものであらぬように、
自分がいまだあらぬものであるように、
かなたに向かってつねに自己を投げかける存在であり、
たんにあるところものである事物存在と異なって、
つねに自己の外へ、いまだあらぬ彼方へ向かって、
現にある自己から脱出していく存在である。
人間的実存は、本質や概念による限定を超えて外に出るばかりでなく、
自己から外に脱出する存在(脱自的なあり方)であること
*)「外に出で立つ」=自己の外に(脱自)=自己超越(超出)
②ハイデガーでは、実存Existenz の Ekを強調して、
Ek-sistenz(脱自存在)と言い換える。
その脱出するさいの「かなた」は、
いまだあらぬ自己の将来ではなく、あらゆる存在者の根源とも言うべき、
「存在の光」「存在の明るみ」である。
*)ハイデガーの存在論の根本思想は「存在」Seinの開示。
存在が、人間にかかわることによって、
現に「存在するもの」Seiendeとしてみずからを開示する、という。
この存在の開示性を「存在の真理」とも言う。
「実存」は、「自己から存在への脱出」
実存とは、<人間という存在者>(現存在)が
「存在それみずから」対してあれこれの態度を取っていることから、
この「存在それみずから」を指す。
逆に、人間の側から言えば、
実存とは、人間が脱自的にexstatisch「存在の明るみ」のうちに立つこと。
存在の現れに向かってあらわに立つときの<人間という存在者>(現存在)の存在の仕方をいう。
「本来性」と「非本来性」の区別
ハイデガーの「現存在」Daseinから「実存」Existenzへの移行には
「非本来的な自己」から「本来的な自己」へという自覚的な意味が含まれる。
*)ハイデガーの「実存」は、内容的には「自覚存在」。(「覚存」の訳も可能)
人間としての現存在は、「存在がそこで開示される場としての存在者」だが、
必ずしもそのことを自覚しているわけではなく、
たんなる「ひと」das Man(世人)として頽落し、本来的自己(実存)を失っている、という。
存在忘却
ハイデガーは、「ひと」として頽落している現存在(人間)は
存在を忘却しているとし、非本来的な日常性のなかで生きているとする。
われわれは、存在の光(明るみ)への深い内省、あるいは回想をとおしてのみ、
存在者の本来の故郷である「存在」を回復することができる、という。
エリート主義(選民意識)
「ひと」das Manはすべて存在忘却の淵に沈んでいるが、
少数の人間だけが、脱自的に存在の明るみに立つ「実存」というあり方を自覚し、
存在の声に耳を傾け存在のすみかに住むという自負を持つ。
③ハイデガーのエリート主義的実存か、サルトルの全人間的実存か
ハイデガーの存在忘却の思想は、
『存在と時間』以後の<後期ハイデガー思想>で顕著になっていき、
存在の真理のテオリアに向かう。
サルトルは、人間存在=実存としての自己のあり方を問い、
すべての人がみずから自己をつくる主体的行動へと誘う。
*)ハイデガーは、『ヒューマニズムについて』(Űber den Humanismus 49年) で、
サルトルの『実存主義はヒュ-マニズムである』を直接念頭において、 サルトルを批判。
*)ドイツ語Űberには「超えて」の意味もある。
「サルトルは従来の形而上学と同様、存在の真理の忘却のうちにとどまっている。」
*)ハイデガーの<従来の形而上学>とは、
存在者の存在を問うことを忘れた哲学であり、
プラトン以来の形而上学の伝統の思考であり、
近代においても人間のそのような存在忘却、故郷喪失を
ハイデガーはヒューマニズムと言う。
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