トップ

   サルトル
     ・・生涯・著作・回想1
       出生~1943年

  1944年以降へのリンク



 1905年6月21日 パリ16区に生まれる
 父ジャン・バティスト・サルトル(理工科学校出身の海軍士官)
 母アンヌ・マリー

 *第1次ロシア革命

 06年 生後15ヶ月、父の死(黄熱病)。
 母アンヌ・マリーとともに母方の祖父母の家に身を寄せる。
 祖父シャルル・シュヴァイツァーは、
 博士論文を書き大学教授資格者でもあり、
 ドイツ語教授として成功、
 子ども時代のサルトルに大きな知的感化を与える。

 *シャルルは、1844年生まれでアルザス地方の出身、
  1871年の普仏戦争でフランスが敗北し、
  アルザスとロレーヌの2州がプロイセン領となると、
  アルザスに戻らずフランス人であることを選ぶ。
  家庭ではカルルとアルザス風に呼ばれた。

  *)アルザス地方は、言語的にはゲルマン系。
   1686年ウェストファリア条約により初めてフランスに統合された。
   それ以来、ロレーヌ地方とともに何度も独仏の係争の的になる。
   普仏戦争ではドイツ領、第1次大戦で1918年フランス領となる。

  *)アルフォンス・ドーデの短編『最後の授業』が有名。
   普仏戦争でプロイセン領となり、
   フランス語の授業が出来なくなる時、
   アメル先生が最後の授業で生徒にメッセージを残す。
   「フランス語は世界で一番美しく、一番明晰で、一番堅固な言葉です。
    この言葉を私たちの間で守り、決して忘れてはいけません。
    なぜなら、たとえある民族が奴隷に陥ったとしても、
    自分たちの言葉をしっかり持っているかぎり、
    牢獄の鍵を持っているようなものだからです。」
  *)フランスでも、中央集権政策を推進し、
   <不可分にして単一であること>を標榜する共和国として、
   コルシカ、ブルターニュ、南仏、バスクと同様、
   アルザスでもフランス語習得を重視し、地域語を弾圧していた。

 サルトルの母方のシュヴァイツァー家の親戚には、
 1952年のノーベル賞を受賞したアルベルト・シュヴァイツァーなど、
 また父方も医者や技術者のエリートを出す。
 サルトルはこうした知的環境の<文化資本>に恵まれた。

 サルトル3・4歳頃 
  トラウマ :風邪をこじらせて右目の角膜に白斑が生じ失明、
  それが原因で右目は極端な外斜視となる。
  のち、斜視と背の低さがコンプレックスとなった。

  容姿のコンプレックスを持つ少年サルトルは、
  言葉によって人を魅了しようという根源的な選択に至り、
  彼は生涯外見に無頓着であることを装うが、
  知性においては誰にも負けまいとする攻撃的な姿勢が表裏をなしている。

 13年(8歳) 
 モンテーニュ高等中学校(リセ)に登録するが、すぐ祖父がやめさせる。
 *14年 第1次大戦始まる

 15年(10歳) 
 パリのアンリ4世校(リセ)の第6学級に登録、
 翌年第5学級でポール・ニザン(1905~1940と一緒になる。

 17年(12歳) 
 サルトルの母アンヌ・マリー再婚、
  相手は父と同窓の理工科学校出身の技師ジョゼフ・マンシー。
 サルトルも一緒にラ・ロシェルに引っ越す。
  *)最愛の母の再婚となれない地方暮らし、
   ラ・ロシェルで受けたいじめなどが、
   この思春期の数年はサルトルの生涯で<挫折の年月>の時期という。
  (サルトル自身の回想)

 *ロシア革命
 *18年 第1次大戦終了、アルザスがフランスに返還される。

 20年(15歳)
 サルトルは、一人でアンリ4世校に戻る。
 サルトルの育ったのは、パリ左岸、リュクサンブール公園すぐ前のル・ゴフ街。
 アンリ4世校はすぐ近く、高等師範学校のあるユルム街も一足、
 戦後に根城になったサン・ジェルマンやモンパルナスも徒歩で20分ぐらい。

 21年
 大学入学資格試験(バカロレア)第1次合格
 22年(17歳)
 アンリ4世校からルイ・ル・グラン高等中学校(ルイ大王校)に転籍。
 高等師範学校準備学級で受験準備。

 23年(18歳)
 準備学級に在学中、友人たちと刊行した「題名のない雑誌」(同人雑誌)に
 短編小説『病める者の天使』を発表する。

 24年(19歳)
 サルトル、高等師範学校に入学
  *)高等師範学校 :準国家公務員扱いで衣食住保障、
   給費支給、「知的にも物的にも自由の天国」
  この年の文科定員24名、サルトル7番で合格、
  同期生にレーモン・アロン(社会学者)、
  ジョルジュ・カンギレーム(哲学者)、
  ダニエル・ラガシュ(精神科医)、ポール・ニザンなど

 サルトルは学生時代を<千人のソクラテス>時代と名付け、
 希望に満ちた楽観主義の日々
  *)ポール・ニザン『アデン・アラビア』
   「私は20歳だった。
    これが人生の最も素晴らしい年齢だなどとは、
    誰にも言わせない」

 27年(22歳)
 サルトル、ニザンと共に
 ヤスパースの『精神病理学総論』(仏訳)の校正を行う。  
  *ハイデガー、『存在と時間』出版
  *サルトル、このころ九鬼周造のフランス語個人教授。
   ハイデガーとも親交のあった九鬼周造から『存在と時間』を贈られたらしい?

 28年 
 哲学の「教授資格試験」(アグレガシオン)に失敗
 29年 
 サルトル24歳
 シモーヌ・ド・ボーヴォワール22歳に出会う。
 哲学の教授資格試験に1番で合格、2番がボーヴォワール、ニザンも合格。
 ボーヴォワールと2年間の契約結婚
  *結婚関係を維持しつつ、お互いの自由恋愛を認める。
   何度かの波乱があったものの、サルトルの逝去まで50年にわたり
   この関係は維持された。
  *ソルボンヌ大学でのフッサールの講演(サルトル聴いていない)。
 サルトル、兵役につく。
 *世界恐慌始まる

 31年(26歳)
 サルトル、1年半の兵役終了し、ル・アーヴルでリセのの哲学科教師になる。
  *その後、ラン、37年パリ郊外ヌイイで教職。
 兵役を終えたサルトルは、海外赴任を希望、
 日本でのポスト(日仏学院)に応募したが採用されなかった。

 サルトル、雌伏の時期(~37年)。
 ベルリン留学期間を除き田舎教師として都落ちと失意の時期
 <千人のソクラテス>がたった一人のソクラテスになってしまった。
  *親友ポール・ニザンは、『アデン・アラビア』(31年)、
   『アントワーヌ・ブロワイエ』(33年)ですでに有名作家。
   ニザンは、35年6月、パリの反ファシズムの「文化擁護国際会議」では、
   「ヒューマニズム」について講演。
    アンドレ・ジッド、ルイ・アラゴン、
    アンドレ・マルロー、ボリス・パステルナーク、
    ハックスリー、ベルトレト・ブレヒトに伍して。

 ただし、ボーヴォワールと、毎年、夏の国外旅行を楽しんでいた
 (この年、スペイン)。
  *教員には、長い夏期休暇がある。
  *ボーヴァワール(『娘時代』)
  「サルトルは書くためにのみ生きていた。
   彼のすべての経験が作品に有益でなくてはならず、
   彼にとって文芸作品は絶対的な目的であった。
   それはそれ自体にとっての存在理由であり、
   その創造者の存在理由であり、
   ひょっとしたら、
   全宇宙の存在理由だと思っていただろう。
   彼は政治や社会問題に興味を持っていた。
   ニザンの立場にも好意を持っていた。
   ただし、サルトルのなすべき仕事は書くことにあって
   他のことは二の次であった。」

 33年(28歳)~34年
 *ドイツ、ヒトラー政権成立
 サルトル、現象学の発見
 ボーヴォワールの回想(『女ざかり』)
  「レーモン・アロンはその年をベルリンのフランス学院で送り、
   歴史の論文を準備しながらフッサールを研究していた。
   アロンがパリに来たときサルトルにその話をした。
   私たちは彼とモンパルナス通りのベック・ド・ギャーズで一夕を過ごした。
   私たちは店のおすすめ<あんずのカクテル>を注文した。

   アロンが自分のコップをさして、
   <ほらね、君が現象学者だったらこのカクテルについて語れるんだよ、
    そしてそれが哲学なんだ!>と言うと、
   サルトルは感動でほとんど青ざめた。
   それは彼が長いあいだ望んでいたこととぴったり一致していた。
   つまり事物について語ること、彼がふれるままの事物を・・・
   そしてそれが哲学であることを彼は望んでた。」

 1年間のベルリン留学(奨学金)
  『フッサール現象学における直観の理論』
  (1930年、エマニュエル・レヴィナス)を手引きとして研究、
  留学中に『イデーン』を中心にフッサール研究。
  帰国後研究成果を『自我の超越』などで発表した。

  フッサールから「志向性の概念」を学ぶ。
  「あらゆる意識は何かについての意識である」
  志向性により、実在論と観念論を同時に超克し、
  当時のフランス講壇哲学(新カント派)を批判。
  *のちのポール・ニザン『番犬たち』
   マリタン、ベルグソン、レオン・ブランシュヴィック、
   ジャン・ヴァール、ガブリエル・マルセル、
   ポール・ヴァレリー、ジュリアン・バンダなどの
   思想家、哲学者を1930年代の西欧文明の番犬として批判。

  *アレクサンドル・コジェーブのヘーゲル講読ゼミ(33~37年)
   レーモン・クノー(作家)、ジャック・ラカン、
   メルロー・ポンティ、ジョルジュ・バタイユ、
   ピエール・クロソフスキー(作家・思想家)などが熱心に出席。
   *サルトルは興味なかったらしい。

 35年(30歳)
 「想像力」についての論文執筆中のサルトルは、
 友人の医師・ラガシュ(サン・タンヌ病院精神科医となっていた)の
 メスカリンの実験台になる。
 サルトルはこの際に全身をカニやタコが這い回る幻覚に襲われ、
 以降も幻覚を伴う鬱症状に半年以上悩まされる。
 至る所に幻覚を見、不気味な怪物や甲殻類が彼を追跡し、
 存在がそのむき出しの不気味な相貌で迫ってくる。

 36年 
 *人民戦線内閣(ブルム内閣)成立。スペイン内戦(~39年)。
 *)フランスのヴァカンス
  労働組合のゼネスト、政府が労使双方の調停には入り、
  結果として労働者側は週40時間労働と年15日間の有給休暇を勝ち取る。
 サルトル『想像力』
 37年
 サルトル『自我の超越』

 38年(33歳) 
 サルトル『嘔吐』出版
  初め『メランコリア』の題、
  ニザンの推薦にかかわらず出版社から突き返された原稿が、
  奇蹟的にもガリマール書店に受け入れられて題名変更して出版。
  批評家から注目され、
  ゴンクール賞(日本の芥川賞)などの候補作品となった。
  受賞しなかったが、サルトルの名は文壇に知れて原稿依頼も増える。

 *)ミュンヘン協定

 39年(34歳) 
 短編集『壁』
  「水入らず」、「壁」、「エロストラート」、「部屋」、
  「一指導者の幼年時代」所収。
  表題作「壁」
   スペイン人民戦線派の闘士が捕虜になり
   拷問の脅しを受けたときに、
   相手をからかうつもりで
   でたらめな仲間の隠れ場所を告げる。
   しかし、実際にそこに仲間が隠れていて捕まる。
   *)世界の存在が偶然であることの不条理、
     偶然性と自由の問題

 *第2次大戦始まる。
 39年9月2日、国民総動員発令。
 南仏休暇中のサルトルは第70師団の気象班に配属されて
 アルザス地方に駐屯。
  <奇妙な戦争> 
  宣戦布告がされながら40年5月のドイツ軍の電撃侵攻まで実際の戦闘はない。
  サルトルはこの間に駐屯地で読書と執筆三昧、『自由への道』を執筆、
  戦争の証言として日録や、ボーヴォワール宛の長文の手紙など。
  また、休暇を取ってパリに戻ったり、
  ボーヴォワールが駐屯地を訪ね暗号文で密会するなど、
  <思いがけない休暇>を楽しむ。
  「結局私はここでパリにいたときよりもたくさん仕事をしている。」
  *駐屯中の膨大な日記が『奇妙な戦争ー戦中日記』として
   死後出版される。
   *駐屯中の膨大な日記。
 40年
 『イマジネール』(日本語訳『想像力の問題』)
 *5月のドイツ軍の電撃侵攻、1ヶ月でフランス降伏。
 サルトルは誕生日の6月21日に捕虜となり、ロレーヌ地方の収容所、
 次いで8月中旬、ドイツのトレーヴ収容所に送られる。
  *)トレーヴ収容所内(2万5千人の捕虜)で神父たちと『存在と時間』の講読、
   自作劇『バリオナ』の上演など。

 41年春 
 サルトルは一般市民と偽って釈放の申請(偽の身体障害証明書)を出し、
 収容所から釈放される。
 パリに戻ったサルトルは
 知識人のレジスタンス集団「社会主義と自由」を組織する。
  ボーヴォワール、メルロ・ポンティ、ドゥサンティ夫妻ら、
  50人ほどの参加者、すぐ崩壊。

 43年(38歳)
 『存在と無』(副題「現象学的存在論の試み」)
 『蠅』初演

 44年
 『出口なし』初演
 *パリ解放、8月、シャルル・ド・ゴール臨時政府主席。


 トップへ戻る