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    サルトル
      ・・生涯・著作・回想2
        1944年~死去。



 44年(39歳)
 『出口なし』初演
 *パリ解放、8月、シャルル・ド・ゴール臨時政府主席。

 45年(40歳)
 *5月7日、ドイツ無条件降伏

 10月
 『レ・タン・モデルヌ(現代)』誌創刊第1号
  現代(Les Temps Modernes)は
  チャプリンの映画「モダンタイムズ」から。
  44年8月にボーヴォワール、
  メルロ・ポンティとともに編集委員会を立ち上げ、
  主幹としてサルトルの戦後の活動拠点になる。 
  「創刊の辞」 :アンガジュマン文学の提唱
   「<アンガジュマン文学>にあっては、
    アンガジュマンはいかなる場合にも、文学を忘れさせるべきではないこと、
    そして、われわれの関心事は、
    人々にふさわしい文学を与えようと試みることによって、
    人々に役立つと同じくらい、文学に役立ち、
    文学に新しい血を注ぎ込まねばならぬことを
    私は改めて喚起しておこう。」

  *以後、サルトルの著作活動の多くはこの雑誌を中心に発表される。
   評論や小説、劇作を通じて、戦後サルトルの実存主義は世界中を席巻することになる。
   特にフランスにおいて絶大な影響力を持った。
  *50年代からは徐々にサルトルはマルクス主義に傾倒して、
   旧ソ連を擁護する姿勢を打ち出す。
   これがアルベール・カミュや
   メルロー・ポンティとの決別の原因の一つになった。

 『自由への道
  第1部「分別ざかり」は1938年6月下旬のある2日間を描く。

  主人公マチウ・ドラリュはサルトルの自伝的側面をもつ。
  (05年生まれ、パリのリセの哲学教師、舞台はモンパルナス界隈)
  マチウは自由を愛し、
  自分が自由であり続けるためには何でもするが、
  それが内容空虚な自由であって、
  風雲急を告げる歴史の転換点(戦争)では
  何も役立たないことに
  次第に気付いてゆく。

  第2部『猶予』38年9月の1週間。

  「ミュンヘン会談」を中心に、
  映画的カットアップ手法を用いて、
  ヨーロッパのさまざまな都市で人々が
  歴史(戦争)に翻弄される姿を万華鏡のように描く。
  第1部の主人公マチウたちもエキストラ以上の扱いを受けない。
  *)スペイン市民戦争など歴史の巨大な歯車と、
   そこに否応なく巻き込まれた人間の姿を通して、
   戦争によって自由の幻想が打ち砕かれていく
   サルトルの思考と体験の軌跡をなぞっている。
  *)のちのサルトルの回想
   「戦争は私の人生をまっぷたつにした。
    戦争が始まったときは34歳だった。
    終わったときには40になっていた。
    そしてそれは青年期から壮年への移行だった」
   「あらゆる人間は政治的なのだが、
    私がそのことを発見したのは戦争によってであり、
    その本当の意味がわかったのは
    1945年以降のことに過ぎない。」


 社会現象としての実存主義ブーム
 45年10月
 サルトルは、クラブ・マントナンで
 「実存主義はヒューマニズムか?」と題して講演。
  *ボリス・ヴィアン『日々の泡』
   サルトルを戯画化したジャン・ソオル・パルトルの
   講演会入場場面
   「ジャン・ソオルは会場に近づきつつあった。
    象が鼻を鳴らす音が街路から聞こえた・・・
    遠くに、装甲を施した象籠からジャン・ソオルの輪郭が浮かび上がり、
    その下はざらざらしたしわの多い象の背中が
    赤いヘッドライトに照らされて異様な姿に見えた。

    象籠の四隅には、
    えり抜きの狙撃兵がまさかりを武器に持って身構えていた。
    象は人混みの中に道を切り開いてくるのだが、
    踏みつぶした肉体の間に揺れ動きながら
    巨大な4本の脚を鈍い響きで踏みならして冷ややかに近寄ってきた。

    入り口の前で象はひざまずき、選抜狙撃兵たちは降り立った。
    その真ん中に、一足飛びでパルトルが優雅に飛び降りた。」

 46年(41歳)
 『実存主義とは何か』(上記の講演)

 実存の思想(講演)へのリンク


 『ユダヤ人に関する考察』
  『存在と無』で試みた現象学的考察に基づき
  反ユダヤ人思想の心理分析。
  ユダヤ人を嫌う人間は、人間のあり方の根底にある構造、
  悪をなすことができるという事実を恐れる人であり、
  反ユダヤ主義者は、
  すべての責任を悪の権化であるユダヤ人におしつけ、
  自らの責任を逃れようとし、善悪に二元論に陥る。
  「ユダヤ人とは、
   他の人間がその人をユダヤ人と見なす者のことだ」
  *主体としてのユダヤ人を扱っていないと、
   ハンナ・アーレントなどユダヤ人思想家から批判される。
  *のちサルトルもユダヤ人問題の歴史、宗教、
   経済、文化的な諸要因を捨象する論考を不十分と認める。
   しかし、差別の基本構造、
   差別主義者側の心理的な善悪二元論の分析としては有効。
   以降、サルトルの関心は、すべて差別される者に向かう。

 サルトルは戦前からアメリカ文学に関心を持ち、
 ドス・パソス、フォークナーなどの評論を行う。
 戦後、アメリカに招待されアメリカ滞在により多くの記事を書く。(『シチュアシオンⅢ』所収)

 『恭しき娼婦』
  この劇は、アメリカ南部を舞台に、
  ある上院議員が息子の無罪のため娼婦のリズィーに頼み、
  黒人を身代わりにさせようとする。
  アメリカの黒人差別をとおして、抑圧と疎外の問題を扱う。

 「唯物論と革命」(『シチュアシオンⅢ』所収)
  フランス戦後政治においては、
  マルクス主義と実存主義との関係をどう考えるかが
  サルトルにとって重要な課題となる。
  この論考では、教条的なマルクス主義(フランス共産党)批判と
  その批判を通して、
  革命を可能にする哲学(自由、実存を基礎とした)を素描している。

 *第4共和制成立
 *インドシナ戦争始まる

 47年(42歳)
 『文学とは何か』
 『シチュアシオンⅠ』

 48年 
 このころ『倫理学ノート』、『真理と実存』を執筆、未公刊。

 『汚れた手』
  革命をナイーヴに信じる新入り党員ユゴーと
  老練な党首エドレルをめぐる政治劇。
  党内の暗殺事件をプロットとする、
  政治状況における倫理的規範をテーマとする。
  *「スターリンによる粛清問題」が
   ヨーロッパで取り上げられた時期で、
   このサルトルの戯曲が大きな反響を呼ぶ。
   サルトルも、トロツキー暗殺事件に想を得たという。

 「革命民主連合」(RDR)を組織
  冷戦下のヨーロッパで共産党以外の社会主義勢力を結集し、
  米ソ二大陣営から独立したヨーロッパの構築を提唱。
  参加者各自が自分の政治的思想を守りつつ
  民主的な革命の実現を目指す。
  *その後、一部幹部が親米に傾き、
   49年、サルトルは脱退、ほどなく組織も崩壊した。

 *50年 朝鮮戦争始まる。

 51年(46歳)
 『悪魔と神』初演

 52年(47歳)
 *アンリ・マルタン事件、
  海軍兵士マルタンが戦争の惨状を目のあたりにして
  戦争反対のビラを配って逮捕され、
  軍法会議で5年の禁固刑に処せられる。
 サルトルはマルタンを積極的に擁護するよう訴える。
 ミシェル・レリスらとともに擁護する本を出版(53年)して論陣を張り、
 世論もマルタンに同情的になり、彼は釈放される。
  *ドレフュス事件の時のエミール・ゾラのように、
   フランスでは社会的事件に知識人が積極的に活動する土壌がある。

 「共産主義者と平和」(『シチュアシオンⅣ』54年)
 サルトルはフランス共産党に急接近する(同伴者的姿勢)

 <カミュ・サルトル論争>
  カミュの『異邦人』(42年)は
  サルトルの『嘔吐』(38年)とともに、
  実存主義の作品と見なされ、二人は親交を深める。
  カミュが哲学的エッセイ『反抗的人間』(51年)を発表、
  『現代』誌でサルトルの弟子フランシス・ジャンソンが書評を載せると、
  カミュ激怒して編集長サルトル宛に反論、
  これにサルトルが応えるという形で論争となる。
  「アルベール・カミュに答える」
   サルトルは、革命を斥け反抗を擁護するカミュの立場が
   歴史の現実に自ら目を背けることだと批判。
   政治的アンガジュマンの問題は、
   アルジェ生まれのカミュにとって
   54年に始まるアルジェリア戦争で
   苦渋の決断が迫られた。

 『聖ジュネ』

 *アルジェリア独立運動
  サルトルはアルジェリア民族解放戦線(FLN)を支持する。

 53年(48歳)
 メルロー・ポンティとの決別
  メルロー・ポンティが『現代』誌の実質的な編集長であったが、
  彼は手を引く。
  50年の朝鮮戦争以来、
  メルロ・ポンティはフランス共産党の政策に失望し、
  政治情勢の判断をめぐってサルトルと意見が対立。
  次第に共産党に接近するサルトルと、
  反比例するように離れて行く彼の関係は悪化していった。

  メルロ・ポンティのサルトル批判は、
   『弁証法の冒険』(55年)で
   サルトルの思考をウルトラ・ボルシェヴィズムと呼び、
   遺稿『見えるものと見えないもの』でも継続する。
   *サルトル批判の要点
    <哲学の次元>
     サルトルの意識と物を峻別する二元論的思考では、
     歴史、シンボル体系、作られるべき真理といった
     中間世界への視点が獲得できず、
     そのため実在を取り逃がすことになる。
    <政治の次元>
     サルトルの政治思想の思弁的性格を批判、
     マルクス主義的弁証法の破綻は
     「共産主義と革命」のサルトルに最も究極的に現れている。
   *ボーヴォワールが
    「メルロ・ポンティと偽サルトル主義」(55年)で反論するが、
    サルトル自身は反論せず。
    61年の追悼の論考「メルロ・ポンティ」(『シチュアシオンⅣ』)で
    メルロ・ポンティを惜しむ文を捧げる。
   *61年、メルロ・ポンティの急逝で
    二人の関係は修復されずに終わった

 『キーン』
 *スターリン死去

 54年(49歳)
 サルトル、ソ連を初めて訪問、翌年中国。

 *インドシナ戦争終結。
 *11月1日、アルジェリア独立戦争始まる。
  サルトルは戦争開始後、
  すぐさまフランス植民地主義を批判する論陣を張る。

 55年初め
 『現代』誌でアルジェリア民族解放戦線(FLN)の支持を表明、
 その後も毎号のようにフランス政府の植民地政策を批判する論考発表。

 『ネクラソフ』

 56年(51歳)
 「植民地主義は一つの体制である」(1月、反戦集会での講演)
  サルトルは、植民地主義の様々な言説に潜む欺瞞を明快に暴き出し、
  植民地主義を放棄して
  「アルジェリア人民の側に立って、植民地の暴政から
   アルジェリア人とフランス人を
   同時に解放するために戦うこと」を呼びかける。

 *スエズ事件
 *ハンガリー動乱
  サルトルは「スターリンの亡霊」を書き
  ソ連の軍事介入を批判するが、
  ソ連の非スターリン化過程の錯誤として
  全面的批判を留保する。
   *サルトルは「仏ソ協会」を脱退するが
    ソ連との関係を維持、
    60年から63年まで準国賓待遇でソ連訪問。

 57年
 『方法の問題』
  マルクス主義こそ現代の唯一の哲学、
  実存思想はその動脈硬化を防ぐ役割を果たす
  イデオロギーという立場まで変貌する

 『アルトナの幽閉者』初演
  アルジェリア戦争での拷問や市民に対する残虐行為が
  日増しに明らかになる中で、
  戦争における拷問の問題を背景として書かれる。

 59年(54歳)
 サルトルとボーヴォワールは革命直後のキューバ訪問、
 カストロ、チェ・ゲバラと会談。
 *ボリビアでの革命運動で死亡した、
  アルゼンチン出身の革命思想家に支持を寄せた。


 60年(55歳)
 『弁証法的理性批判』第1巻、
  序説として『方法の問題』を含む

 「ジャンソン機関」の存在、
  裁判で、サルトルは弁護と支援活動に取り組む。
  *FLNを支持し、脱走兵を救援する
   フランシス・ジャンソンを中心とした組織、
  *ベトナム戦争では、小田実らの「ベ平連」で同様の運動。

 「アルジェリアにおける不服従の権利に関する宣言」(121人の宣言)に署名。

 61年(56歳) 
 サルトルや『現代』誌へのテロ
  アルジェリア支配を推進するOAS(秘密軍事組織)が、
  サルトルの運動に猛反発、
  サルトルの住居にプラスチック爆弾を仕掛け(61,62年、2度)、
  重要な原稿のいくつかが灰になる。
  *『現代』誌も政府当局によりしばしば発禁処分となる。

 *アルジェリア自決に関する国民投票

 62年(57歳) 
 *アルジェリア独立。
 *キューバ危機。
 *中ソ対立表面化。
 *クロード・レヴィ・ストロース『野生の思考』
  構造主義の台頭により、次第にサルトルの実存主義は
  <主体偏重の思想>として批判の対象となる。
  とりわけレヴィ・ストロースが『野生の思考』最終章「歴史と弁証法」で行った
  サルトル批判は痛烈だった。
  しかしサルトルはこの批判を一蹴した。

 64年(59歳)
 『言葉』
 ノーベル賞受賞拒否
 *ノーベル文学賞の候補に挙がってことを知って、
  あらかじめ辞退の書簡をノーベル賞委員会に送付していたが、
  到着が遅れたためノーベル賞受賞決定後に拒否した。
  「いかなる人間でも生きながら神格化されるには値しない」、
  「ノーベル賞委員会の評価を認めることは不可能であり、
   文学的優位性を置いて評価を付けることは、ブルジョア社会の習性」
  と主張して受賞を拒否した。


 65年
 『シチュアシオンⅦ』

 *アメリカ、ベトナム戦争への直接介入開始

 66年(61歳)
 ボーヴァワールとともに来日、
 3回講演「知識人の擁護」(『シチュアシオンⅧ』に所収)

 *中国文化大革命始まる

 67年 
 *ラッセル法廷
 68年
 *プラハの春
 *5月革命

 69年 
 母アンヌ・マリー死去。

 70年(65歳)
 『人民の大義』の編集長を引き受ける。

 71年
 『家の馬鹿息子』

 72年
 『シチュアシオンⅧ』

 73年(68歳)
 2月3日新左翼日刊紙『リベラシオン』創刊。
 ペニ・レヴィ、セルジュ・ジュリと共に。
  *後に、このリベラシオン紙はごく普通の主要日刊紙の一つになる。
 サルトル、この頃、激しい発作に襲われ、さまざまな活動を制限する。
 また、左目の眼底出血によりほぼ失明する。
  *75年のインタビューでは、<光、ものの形、色までは見える>と語る。
   「70歳の自画像」(『シチュアシオンⅩ』所収)
 サルトルは失明によりさまざまなことができなくなる。
  ギュスターヴ・フローベールの評伝(『家の馬鹿息子』)の完成は不可能
  ボーヴォワールとの対話の録音を開始(後に『別れの儀式』所収)
  ユダヤ人哲学者、ベニ・レヴィと取り組んだ、
  ユダヤ教思想に影響を受けた倫理学についての著作も未完成。
  *『いまこそ、希望を』がその1部。
 自力による執筆が不可能になったサルトルは、
 <共同作業>によって著作を完成させようとするがいずれも失敗。
 *フランソワーズ・サガン『私自身のための優しい回想』
  サルトルとサガンとの交流があったが記されている。

 78年
 中東和平促進のためイスラエル訪問。

 80年
 3月
 『いまこそ、希望を
 サルトルの死の直前1ヶ月前の対談。
  *べニィ・レヴィ(毛沢東派のピエール・ヴィクトールの本名)と。
 週刊誌『ル・ヌーヴェル・オプセルヴァトゥール』に
 1980年3月、3回にわたって連載された。
  *この週刊誌の創刊号(64年1月19日号)の第一面に
   サルトルのインタビューを掲載し、
   以後何回かサルトルの重要な発言を掲載、
   今回は800号を記念してか。


 4月15日(74歳)
 肺水腫により死去、
 モンパルナス墓地に埋葬される。
 *死をおよそ5万人が弔った(ベルナール=アンリ・レヴィや
  ミシェル・フーコーもいた)。 

 サルトルの死後
 主にボーヴォワールおよび
 養女のアルレット・エルカイムらの編集による多数の著作が出版された。
  *アルレット・エルカイムは34歳年下で
   1956年以降の愛人、65年養女、遺言執行人。


 死後出版
 83年 『奇妙な戦争ーー戦中日記』、『倫理学ノート』
 84年 『サルトル書簡集』、『フロイト』(シナリオ)
 85年 『弁証法的理性批判』第2巻
 89年 『真理と実存』
 90年 『初期作品集』
 91年 『アルブマルル女王あるいは最後の旅行者』



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