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   資料編
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     対馬の名の由来と元寇による被害 対馬藩主・宗義智

     小西マリア 国書偽造・改竄問題


 ①魏志倭人伝」
    陳寿 撰
 原文           原文訳
  倭人在帶方東南大海之中  倭人は帯方東南、大海の中に在り。
  依山㠀為國邑       山島に依り国邑を為す。
  舊百餘國         旧百余国。
  漢時有朝見者       漢の時、朝見する者有り。
  今使譯所通三十國     今、使訳通ずる所は三十国なり。

 口語訳
 「倭人は帯方郡の東南、大海の中に在る。
  山がちの島に身を寄せて、国家機能を持つ集落を作っている。
  昔は百余国で、漢の時、朝見する者がいた。
  今、交流の可能な国は三十国である。」


 原文          原文訳
  從郡至倭 循海岸水行  郡より倭に至るには、海岸に循ひて水行す。
  歴韓国 乍南乍東    韓国を歴て、乍南乍東し、
  到其北岸狗邪韓國    その北岸、狗邪韓国に到る。
  七千餘里        七千余里なり。

 口語訳
 「(帯方)郡から倭に至るには、海岸に従い水上を行く。
  韓国を通り過ぎ、南へ行ったり東へ行ったりしながら、
  その(=倭の)北岸の狗邪韓国に到着する。
  七千余里である。」


 <対馬> 
 原文        原文訳
  始度一海千餘里   始めて一海を度ること千余里にして
  至對海(對馬)国  対海国(対馬)に至る。
  其大官日卑狗    その大官は卑狗と曰ひ、
  副日卑奴母離    副は卑奴母離と曰ふ。

 口語訳
 「始めて一海を渡り、千余里で対海(対馬)国に至る。
  その大官はヒコウといい、副官はヒドボリという。」

 <対馬の地勢>
 原文        原文訳
  所居絶㠀      居する所は絶島にして、
  方可四百餘里    方四百余里ばかり。
  土地山險多深林   土地は山険しく深林多し。
  道路如禽鹿徑    道路は禽鹿の径の如し。
  有千餘戸      千余戸有り。
  無良田       良田無く、
  食海物自活     海物を食らひ自活す。
  乗船南北市糴    船に乗り、南北に市糴す。

 口語訳
 「居する所は、近寄り難い島で、およそ四百余里四方。
  土地は、山が険しくて深い林が多く、
  道路は鳥や鹿の道のようである。
  千余戸の家がある。
  良田は無く海産物を食べて自活している。
  船に乗って南北に行き、商いして穀物を買い入れている。」


 <壱岐>
 原文         原文訳
  又南渡一海千餘里   又、南に一海を渡ること千余里、
  名日瀚海       名は瀚海と曰ふ。
  至一大國       一大国に至る。
  官亦日卑狗      官は亦た卑狗と曰ひ、
  副日卑奴母離     副は卑奴母離と曰ふ。

 口語訳
 「また、南に一海を渡る、千余里、
  名はカン海という。
  一大国に至る。
  官は、亦、ヒコウといい、副はヒドボリという。」

 <壱岐地勢>
 原文       原文訳
  方可三百里    方三百里ばかり。
  多竹木叢林    竹木叢林多し。
  有三千許家    三千ばかりの家有り。
  差有田地     やや田地有り。
  耕田猶不足食   田を耕すも、なお食らふに足らず。
  亦南北市糴    亦、南北に市糴す。

 口語訳
 「(一大国の)大きさはおよそ三百里四方。
  竹、木、草むら、林が多い。
  三千ばかりの家がある。
  いくらかの田地があるが、住民を養うには足りないので、
  (対馬と同じ様に)南北に行き、商いして穀物を買い入れている。」

 魏志倭人伝は以下、末盧國から伊都國へ、
 さらに邪馬壹國へと記述するが、略す。



 ②<対馬の名>の由来と元寇による被害

 対馬を<対の馬>と表記するのは何故か、
 この素朴な疑問を抱くのは私だけだろうか。
 もとは<津島>ともいい、
 船の停泊する津(港)のある島の意味らしい。
 また、朝鮮半島から見ると、
 中央の浅芽湾の<くびれ>から島が二つに見え、
 二頭の馬の姿に見えるからとも。

 或いは、朝鮮の地名、
 歴史的には<合浦>で知られる<馬山>と
 対の意味で<対馬>とか。
 この説には、<馬韓と対>という説もあるが、
 距離的には馬山ではないかと私は思っている。


 歴史上では合浦(馬山)は、
 <元寇>の時に元(と高麗)軍による
 日本侵攻の出発基地だった。
 元軍は合浦から対馬・壱岐へ、さらに博多へと侵攻した。
 文永の役では、対馬の惨状について、
 日蓮が以下のような当時の伝聞を伝えている。
 「去文永十一年(太歳甲戌)十月ニ、
  蒙古国ヨリ筑紫ニ寄セテ有シニ、
  対馬ノ者、カタメテ有シ総馬尉(そうまじょう)等逃ケレハ、
  百姓等ハ男ヲハ或ハ殺シ、或ハ生取(いけどり)ニシ、
  女ヲハ或ハ取集(とりあつめ)テ、
  手ヲトヲシテ船ニ結付(むすびつけ)
  或ハ生取ニス、一人モ助カル者ナシ、
  壱岐ニヨセテモ又如是(またかくのごとし)」
   ー『日蓮書状』(高祖遺文録)
 また、
 「壱岐対馬九国の兵並びに男女、
  多く或は殺され、或は擒(と)らわれ、
  或は海に入り、或は崖より堕(お)ちし者、
  幾千万と云ふ事なし」
  とも記している。


 ③対馬藩主・宗義智

 宗義智(よしとも)
 宗氏19代当主にして対馬府中藩初代藩主。
 彼は小西行長の娘(小西マリア)の婿であり、
 秀吉による2度の朝鮮出兵(文禄の役、慶長の役)に際し、
 秀吉軍の先鋒として行長と共に戦う。

 次いで、天下分け目の<関ヶ原の戦い>では、
 小西行長が石田三成主導の西軍につくと、
 宗義智もこれに従い前哨戦の伏見城の戦いに参戦した。
 実際の<関ヶ原の戦い>には家臣を派遣していた。
 西軍の敗戦は当然義智も処罰を免れないはず。
 しかし、徳川家康は、
 朝鮮出兵以来関係が途絶していた朝鮮との通交再開を望み、
 交渉役として欠かせない義智の罪を問わず、本領を安堵した。
 これにより宗義智は<対馬府中藩>の初代藩主となる。
  注)対馬の厳原は当時府中と呼ばれていた。
 その後、対馬府中藩は江戸時代を通じて、
 徳川幕府が唯一正式な国交を持つ朝鮮との
 外交実務や貿易業務を独占的に担い続けることができた。


 ④小西マリア

 末社の一つの説明に足を止めた。
 由来を伝える掲示板には、こんな一文があったのだ。
 社号 今宮若宮神社
 祭神 小西夫人マリア

 キリシタン大名・小西行長の長女である
 マリアは、名前をという。
 輿入れした天正18(1590)年には15歳であった。
 夫の宗義智は、永禄11(1568)年生まれと伝わるから、
 7歳違いの22歳か。
 今宮若宮神社の由来によると、
 宗義智はマリアの影響で
 洗礼を受けてダリオと名乗ったとされている。
 洗礼まで受けるほどだから、夫婦には始めは政略結婚としても、
 愛情が生まれたのだろう。
 しかし、夫婦仲とは別に運命は過酷だった。

 宗義智の項で前述したように、
 所領が安堵されても問題はマリアであった。
 いくら許されたといっても、行長の娘を正室としていて、
 いつか<二心あり>と疑われるかもしれない。
 そのため慶長6(1601)年10月、
 マリアは離縁されてしまう。
 もはや頼るところもないマリアがたどり着いたのは、
 交易で栄えキリシタンが多く暮らしていた長崎であった。
 マリアはこの地で信仰生活をおくり、
 5年後の慶長10(1606)年に世を去ったという。

 対馬では、
 逆賊の娘かつキリシタンであったマリアを祀ることは、
 あまり表立ってできなかったようだ。
 そして、なにか不幸な出来事や不穏な騒動が起こると、
 マリアの怨霊ではないかと畏れられた。
 そこで、マリアの霊魂を慰めようと
 元和5(1619)年にこの神社が建立された。
 今はそうした畏怖も薄れ、
 マリアの名前に相応しい聖母のようなイメージだけが残っている。
 それにしても、<祟りを畏れるがために>祀る、
 といった日本の土着的な信仰心はとても興味深い。


 国書偽造・改竄問題

 宗義智はマリアの死から
 9年後の慶長20(1615)年に死去している。
 宗義智の後を継いだのは
 まだ11歳の宗義成(よしなり)だった。
 (母はマリアではない)
 幼い義成を支えたのは
 代々家老職の柳川氏で、藩の実務をになっていた。

 しかし、家老が柳川調興(しげおき)になると、
 彼は幕府直参の旗本になろうと企て、義成と対立する。
 寛永10年(1633)年、柳川調興は
 対馬藩が朝鮮との交渉で国書を偽造・改竄していたと
 幕府に訴え出る。
 これがお家騒動<柳川一件>なった。
 柳川調興は、非常な才人であり、
 家康の覚えも良く、幕閣有力者の支持もあった。
 彼は、辺境の対馬で家老で終わるより<旗本になる>ことを企て、
 <手土産代わり>に国書改竄・偽使節の暴露を行ったのだろうか。

 寛永12年3月11日(1635年4月27日)、
 将軍家光の前で、
 宗義成、柳川調興の直接の口頭弁論が行われた。
 江戸にいる1,000石以上の旗本と大名が総登城し、
 江戸城大広間で対決の様子が公開された。

 <柳川一件>は最終的に家光の判断に委ねられ。
 家光が下した判決は
 「国書改竄は柳川家によるものであり、宗義成は無罪」であった。
 結局、実務を担当していたのは家老職の柳川氏であり、
 また、幕府としては日朝関係に
 <これ以上の波風を立てない>という判断であったか。
 その後、調興は津軽へ流罪となり、その地で生涯を終えている。


 <問題の背景
 秀吉の朝鮮出兵(文禄・慶長の役)後、
 李氏朝鮮と日本とは断絶状態となった。
 もともと山地多く耕地の乏しい対馬では
 朝鮮との交易が不可欠であった。
 対馬藩は朝鮮を悩ませていた<倭寇>を取り締まるなど、
 関係改善に努力していた。

 他方、朝鮮でも明や後金(後の清)の脅威から、
 日本との関係改善に前向きとなっていた。
 徳川家康も関ヶ原の戦いで
 西軍に属した宗義智を処罰しなかったように、
 日朝間の外交・貿易に対馬藩が必要だと認識していたようだ。

 対馬藩は、
 朝鮮出兵時の日本に連れてこられた捕虜を送還する名目で、
 家康の許可を受けて日朝関の交渉役となり、
 朝鮮使節団(刷還使)の来日により交渉が行われるようにした。

 先ず、1605(慶長10)年、朝鮮側から、
 朝鮮出兵時に「朝鮮国王の墓を荒らした人物の引き渡し」と
 「徳川家康から朝鮮国王への国書の提出」の2点の要求があった。
 対馬藩は、1点目の墓荒らしを行った人物と偽って、
 朝鮮出兵とは全く無関係の罪人の喉を
 水銀で潰し声を出せなくした上で差し出した。
 さらに、家康の名を用いた<偽の国書>を朝鮮に提出した。

 これが、偽造・改竄問題の端緒となった。
 国書を先に出すことは、相手を<主と認める>意味もあるらしい。
 その意味では、対馬藩は
 徳川に国書を書いてもらえないと判断したのだろうか。

 かくして、慶長12(1607)年、
 朝鮮は、第1回目の使節団・「回答使兼刷還使」派遣し、
 使節は江戸城で将軍秀忠、駿府で大御所の家康と謁見した。

 回答使は幕府の国書に回答する役で、
 刷還使とは捕虜の帰還を扱う役だが、
 対馬藩は使節団を正規の「通信使」と偽り、
 回答使の返書も改竄(朝鮮側の国書として)している。

 慶長14(1609)年には
 貿易協定である<己酉(きゆう)約条>を宗氏と朝鮮で締結した。
 その後も元和3(1617)年、寛永元(1624)年と三次に渡って、
 <いわゆる通信使>の来日の際、それぞれ国書の偽造、改竄を行っている。
 寛永13(1636)年、
 <柳川一件>が落着した第4回の来日で正規の「通信使」となった。


 <参考>
 秀吉の朝鮮出兵から第4回通信使来日の期間、
 李氏朝鮮では14代宣祖~15代光海君~16代仁祖の時期となる。
 当時、朝鮮では<倭寇>に悩まされ、さらに日本の侵攻に苦しんでいて、
 日本が撤退しても、明と後金(清)の間で動揺していた。
 大陸では中国王朝が明から清へと交替する激動の時期でもあった。

 光海君は、明と清に対して<中立政策>を採り、
 仁祖は、<親明政策>を採り、結局、仁祖は清王朝に屈服した。
 光海君には諡号が無い(暴君で有名な燕山君と同様)。
 彼は仁祖派のクーデターによって流刑となり、
 王の諡号が付けられなかった。

 *なお、興味ある方は、
  このHP掲載中の韓流ドラマ「王の女」をご覧下さい。
  私は韓流ドラマが好きで、
  ちょうど光海君時代の「王の女」などを見ていて、
  朝鮮側からの視点も参考になった。

 「王の女」へのリンク


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