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   椎根の石屋敷~豆酸~萬松院~厳原八幡宮神社
   ~お船江跡~対馬朝鮮通信使歴史館~ホテル
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    豆酸(つつ) 萬松院


 第二日目 4月16日(土)
 朝食が<6時半から1階ロビーで>というが、
 わが同居人はどこ・だれから仕入れたのか、
 <早く行った方が良い、遅いと品薄になるらしい>と。
 それで、私たちは早めに朝食をとり、9時の集合までゆとりを持つことにした。

 今日は、ガイドや運転手は変わらないけれどバスは中型バス。
 ガイドの岩佐さんによると、対馬の道路はちょうど魚の骨のようで、
 中央の背骨が太くてそこから細い骨が何本も出ている状態、
 背骨には大型バスが走り、小骨には中型バスとなる。
 中央の背骨にあたるのが国道382号線で、
 この382号線は対馬ー壱岐ー佐賀県唐津市を結び、
 要するに<海中も走る?>珍しい国道となっている。

 ホテルを9時に出発、バスで「椎根の石屋敷」に向かう。
 確かに道が狭くなり、時々道路に伸びた木の枝にぶつかる。
 <石屋敷>とは高床式の倉庫で、
 屋根が瓦じゃなく切り出した石を二・三段積み重ねた昔風の建物。
 台風など強い雨風に耐えられるように建てられた、対馬独特の建物らしい。
 現在は椎根地区にわずかに残っていて、見学していると、
 付近の民家の中にはガラス戸にガムテープを貼っている家もあり、
 島の風雨の激しさが分かる。

 付近に、対馬独特の養蜂、<蜂洞>のモデルが展示されていた。
 こうした蜂洞はミツバチが樹木の洞を巣にしているので、それに似せて作っている。
 これを近くの山々に仕掛けて蜂蜜を採集するのだが、
 中にはお年寄りが自分の置いた蜂洞の場所を<忘れちゃった>ということもあるらしい。
 一般に養蜂はセイヨウミツバチによるらしいが、
 対馬の養蜂はニホンミツバチによるという。

 ニホンミツバチの養蜂は日本でも限られた地方で行われているという。
 だから、対馬のお土産には<蜂蜜>が欠かせないようだ(結構高価だ)。


 豆酸(つつ

 次いで、豆酸崎に向かう。
 豆酸崎は対馬の西南端にあり、
 そこで対馬海峡と朝鮮海峡とに分かれる先端になる。
 そこで、豆酸崎は荒波に削られた断崖になっている。

 豆酸崎の高台には<豆酸崎灯台>があり、周囲が遊歩道になっている。
 三々五々わがツアー一行は歩いて、この遊歩道から海上をの景色を眺め、
 写真を撮りながらぐるりと廻る。
 途中に、豆酸崎の先端に行くことができる<展望所>があったが、立入禁止だった。
 また、海上を眺めていると、断崖の下でなんと釣りをする二人を見かけた。
 こんな断崖を背にして釣りをするとは、
 断崖を降りる処でもあるのか、ボートで来るのか、と思う。
 まぁ今日は晴れて風もなく、絶好の釣り日和かもしれない。
 地元の人なら釣り場を良く知っているから、
 断崖絶壁の釣り場を<楽しめるのかな>と思う。

 そういえば、昨日も今日も晴れて風も穏やかだ。
 対馬や壱岐では、バスガイドさんの話では、
 雨と強風になると観光旅行は<悲惨に>なるらしい。
 特に対馬は山々また山で、強い風雨に晒されると<ヤバい>かと。
 この4日間の旅の行く末はどうか、<祈るばかりか>とも。

 ところで、<豆酸>を<つつ>と読む、或いは<つつ>を<豆酸>と表記したのか。
 いずれにしても、対馬方言の中でも豆酸方言は独特らしい。
 その上、豆酸地区は古代以来の文化を現在もなお維持しているようだ。

 海洋に突き出した豆酸崎の南側に豆酘湾が広がり、そこに町並みがある。
 そして海に面した町並みは丘陵に囲まれている。
 こうした地勢から、
 豆酸の町の交通は古代ならば陸よりも海に依るのではないかと思われる。
 いわば、古代以来、対馬の中でも豆酸の町は
 <独自な在り方>をしているのではないか。

 想像するに、豆酸地区は古代に海上から渡来人が入植し、
 いつしか彼らは倭人と混在・混血して、現在に至る。
 ちょっとロマンめくが、
 このツアーでも<古代ロマンの架け橋>と銘打ってるから、
 私も豆酸にロマンを見いだした次第。


 豆酸に今なお残る信仰や風習として、例えば、<天道信仰>がある。
 天道は<天童>ともいい、要するに、太陽とその子どもを意味し、
 この信仰は太陽と穀物霊をご神体とする。
 豆酸の北方には<龍良(たてら)山>とその原生林があり、
 古来から天道信仰の聖地とされ、入山も伐採も禁止されていたという。
 残念ながら、とても観光ツアーでは行かない処だが、
 信仰の聖地なら一度は行ってみたいと思うのは、私だけかな。
 まあ、日の出などで、<おてんとうさま>に手を合わせ拝む風習は、
 東京や全国にあるけれど、
 対馬のこの天道信仰はその原点を表しているのかもしれない。

 その他、豆酸だけに残る<亀卜占い>や<赤米>の神事がある。
 亀卜は悠久の昔の中国から朝鮮、そして日本に伝えられ、
 現在なお<占う>のは豆酸だけらしい。
 また、赤米は赤い穂の稲で、稲の原生種らしく、
 今なお豆酸で栽培されている。


 さてなお、聞き逃せない伝説が豆酸にあった、
 それは<豆酸美人>の話。
 <秋田美人>は有名だけど、対馬は<美人>が多いらしい。
 対馬出身の明治のグラビアアイドルに
 <洗い髪のお妻>がいた。


 豆酸では<鶴王御前>の伝説、
 村娘の鶴王(王は美称かな)はその美しさを見初められて、
 都で宮仕えすることになった。
 ただ、病弱な母を残すに忍びず、
 旅の途中、舌を噛んで自害してしまう。
 (その場に<美女塚>がある)。
 死に際に鶴は、
 自分のように<美しく生まれなかったら良かったのに>と言ったという。
 美しさの故に命を失う、いわば美人薄命の話かとも思う。
 それから、豆酸の娘さんは、
 つぎはぎした着物(<ハギトウジン>)を着て
 美しさを隠すようになったという。
 (秋田美人は顔に煤を付けて美しさを隠すとも)

 いろいろ興味深い豆酸崎と豆酸地区を訪ねたわがツアーは、
 バスに乗って12時半頃、昼食のためを割烹「八丁」に行く。


 萬松院

 次に見学するのは「萬松(ばんしょう)院」。
 ここは対馬藩主宗氏の歴代墓所、
 それと徳川歴代将軍の位牌や朝鮮国王から贈られた<三具足>が公開されている。
 対馬藩の歴史については別掲するとして、将軍の位牌があるなど、
 徳川幕府と朝鮮の国交で、対馬藩が特別な地位にあったことを窺わせる。
 また、江戸時代の鎖国といえば、<長崎出島>を思い浮かべるけれど、
 釜山には出島よりはるかに大きい<倭館>があり、
 対馬藩の役人や商人たちが居住したという。
 
 宗氏の歴代墓所に行くには132段の石段(百雁木という)を登らなければならない。
 烏帽子岳展望台といい此処といい、対馬は階段のある観光地が多く、
 私はこの観光巡りを<階段巡り>と名づけている。
 墓所への石段には手すりがなく、所々に石燈籠があるけれど年代物の燈籠、
 それで杖代わりの長い棒が置かれていて、それを使ってゆっくり登ることになった。
 墓所の手前に樹齢1300年という大スギがある。
 (他に、1200年、800年の2本のスギも)


 初代藩主は宗義智(宗家19代)で、
 彼のために2代目の宗義成が萬松院を創建し、歴代藩主の菩提寺となった。

 資料編の内容③を参照

 また、萬松院には珍しい<諫鼓(かんこ)>があった。
 領主に諫言するため鼓を打ち鳴すもので、
 諫言を聞き入れた領主は善政を行う。
 たしか韓流ドラマにもあって、
 <諫鼓鶏>(<閑古鳥>とか)の言葉の発祥らしい。
 善政が続く結果、諫鼓に鳥が止まるほど使われない、要するにヒマの意味のようだ。
 そこから<閑古鳥が鳴く>とは、お店なら全然客がいない、はやっていないとなる。


 次いで、「厳原八幡宮神社」を見学。
 この神社は神功皇后の<三韓征伐>にゆかりがあり、後に八幡神が祀られた。
 <二の鳥居>から見ると三本の参道階段があり、左に<天神神社>の、
 中央に<宇努刀(うのと)神社>の、右手の階段が厳原八幡宮の参道となっている
 (やっぱりここも<階段巡り>か)。

 祭神として神功皇后やその他いろいろな<人物?>が祀られているが、
 キリシタン大名小西行長の娘、小西マリアも祀られていた。
 (社号・今宮若宮神社 祭神・小西夫人マリア)
 詳しくは説明文にあるが、
 有名な細川ガラシヤ夫人と同様の悲劇がこの対馬にもあった。
 小西マリアは初代藩主・宗義智に嫁ぎ、やがて離縁され、長崎で亡くなる。


 資料編の内容④を参照


 さらに、対馬藩「お船江跡」を見学。
 これは対馬藩の御用船を係留する<船泊まり>で、
 現存するものでは良く原型が残っているという。

 今日の観光は、予定通り「椎根の石屋敷」から始まり「お船江跡」まで巡って
 ホテルに4時頃に着くことになった。
 時間が早いので、わが同居人の希望で「対馬朝鮮通信使歴史館」を見学するため、
 ホテルに着く前にバスを降りることにした。

 わが同居人は、朝鮮通信使に関連した<国書偽造>問題について、
 以前から関心を持っていた。
 歴史館の展示には折よく国書偽造に関する展示があり、
 学芸員さんの解説を聞くことができた。
 また、釜山にあった倭館の模型展示や、
 朝鮮外交における雨森芳洲の事績の展示を見た。
 ガイダンス室では朝鮮通信使と対馬の関係についてのビデオを見たり、
 通信使の正使が着る<金冠朝服>に前で、
 館員さんが記念写真を撮ってくれた。
 (コロナ以前にはこの金冠朝服を実際に着て記念撮影できたらしい)


 記念館を出てホテルの戻る途中、
 対馬藩宗氏の居城であった<金石城跡>(櫓門が復元されている)の前を通り、
 観光物産協会で、司馬遼太郎「街道をゆく」や「旅する長崎学」の「壱岐」編を買い、
 土産物を仕入れたりしながら、ホテルに到着した。
 このホテルは厳原町の中心の大通りに面していて、場所も分かりやすく、
 交流センターなどで土産物を買うには適している。

 ホテルに着いた私たちは、夕食のための6時50分集合に間に合うよう、
 大通りの向かいにある交流センター、スーパーなどで対馬土産を買うことにした。
 私はわが同行者のお供をしただけだが、対馬特産の<蜂蜜>などを買った。

 夕食は「味処 千両」で、対馬の郷土料理を味わう。

 明日は<壱岐へ>というので、ホテルに帰った私たちは荷物の整理をする。
 と言っても、私はわが同居人の指示に従っているだけなので、
 わが同居人は私の部屋を行き来しているうちに、
 カードキーを抜かずに来てしまい、部屋に戻れなくなった。
 カードキーはかざすだけでドアが開くので、
 <便利だ>と私はいつもSuicaを使う定期入れに入れている。
 とにかく、1階のフロントに行って部屋に入れないと知らせなくてはと私が廊下に出ると、
 ちょうど良く添乗員さんが来て、一緒にフロントに降りる。
 数分でカードキーは再発行された。
 後で考えると、私だけでフロントに来ても、私がその部屋の関係者かどうか確認する間、
 ちょっと手間取ったかもしれない。添乗員さんがいて良かった。
 
 荷物の整理が終わり、一息ついてシャワーで入浴を済ませ、
 明日の壱岐への旅立ちに思いをはせる。
 添乗員さんがあらかじめ朝食用に食事パックを用意して、ホテルを早朝6時25分に出るという。
 明日はあわただしい一日かもしれない。


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