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能登の旅2 :八汐からランプの宿へ
能登の旅
・・3月20日~3月23日
出発~金沢~八汐
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ヤセの断崖 黒島集落 白米千枚田
ホテル八汐
GOTOトラベルを利用して旅に出ようと思っていたら、
ちょうど大手旅行社の能登旅行の企画が目に触れた。
能登の天文台とランプの宿の2つ企画があった。
私は冬の夜空を飾るオリオン座を見ていたので
天文台とプラネタリウムに興味があった。
しかし、妻はランプの宿に行ってみたいと。
また、ランプの宿の近くに思い出深い神社があるので、
しかも緊急事態宣言が解除されそうなので、
<まあ行くか>と申し込んだ。
しかしながら、宣言延長になり、出発の3月20日は解除前となった。
それでも、コロナ禍の東京脱出の旅と考えて、
キャンセルせず(GOTO無し)に実行することにした。
東京から、というと嫌われるらしいが、旅行社の名古屋企画であった、
それで金沢駅の集合・解散でもあった。
まあ、コロナ禍の旅行はどうなのかと多少興味もあった。
第一日目
3月20日(土)
居住の町田市成瀬から東京へ、東京駅から
北陸新幹線・「はくたか509号」(10:24発)に乗って金沢駅へ。
久しぶりの新幹線は座席の前後が広く、パソコンも使える。
かつては狭くて窮屈な思いをしたものだ。
金沢着、集合の13時15分前に、在来線改札口前に行き、
時間があるので金沢駅内外を見て回った。
実は喫煙場所探しも兼ねてだが見当たらず、目立たないようにして一服した
(帰りの金沢駅では、反対側に喫煙所を発見した)。
集合場所で体温を測り、ツアーのバスに乗車する際アルコール消毒をした
(ツアー中乗車の時、常におこなった)。
座席は12番と13番、ソーシャルディスタンスのため2席分を一人で、
座席はツアー中、前・中・後で入れ替えられる。
一行は13人(東京から4人)で、コロナ禍のバスツアーらしく少人数だ。
添乗員木村由紀さん、バスガイド村松美和さんで、
バスガイドさんは、<久しぶりにガイドやります>と笑顔で挨拶した。
コロナ禍の非常事態宣言さなかで、観光バスツアーがほとんど無いらしい。
ここの駐車場にも他に1台もなかった。
注)その後に行った先々の駐車場にも私たちの観光バス以外に見あたらない。
その代わりか、自家用車は多く、少人数での観光らしい。
さて、いよいよ出発。
金沢駅(13:15発)からバスで「重伝建の黒島集落」へと。
途中・車窓から巌門や通称・能登二見(機具岩はたごいわ)、
岸壁の母の歌碑の場所、能登富士(前田利家が能登平定を祈願した)、
<ヤセの断崖>が見える。
バスガイドの説明は上手であった(説明が下手だと興味も半減する)。
ヤセの断崖
バスは「能登金剛」を北上して、「前野鼻」に向かっていた。
<ヤセの断崖>や<義経の24隻舟かくし>がある。
特に、松本清張原作「ゼロの焦点」の映画で有名になった
ロケ地・ヤセの断崖(高さ55m)は、
断崖から身を乗り出して下を覗くと<身がやせる思いがする>ことから
<ヤセ>といわれるようだ。
帰宅してから私は、DVDで映画(1961年製作)を見た。
50年ぶりの能登の旅に、奇しくも60年前の映画であった。
付近には松本清張の歌碑がある。
映画の影響で、自殺の名所になってしまった
(多い年では18人という)から、清張が鎮魂のために歌碑を立てたようだ。
下の歌碑
「雲たれて ひとり たけれる 荒波を かなしと思へり 能登の初旅」
注1)2007年3月の能登半島地震により、幅10mにわたって崩落した。
映画はそれ以前だから、かつての様子が分かる。
注2)原作も読んだ。小説を映像化する工夫が<違い>を生むようだ。
「ゼロの焦点」を「読書経験」のページに掲載した。
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ゼロの焦点へのリンク
次いで、朝ドラ「まれ」にまつわる浜辺を見た。
土屋太鳳主演の「まれ」は能登を舞台にしてして、
能登の祭「キリコ祭」や能登の塩田、輪島の朝市など
能登の観光スポットが出ているようだ。
朝ドラはほとんど見ないので、見ていたら良かったかも、と。
黒島集落
そうこうするうちに、重伝建の「黒島集落」に到着した。
小雨の降る中バスを降りながら、
私たちは使い慣れた傘をさし、用意周到だったと思った。
能登の天気予報を見て、携帯カサではなく旅が終われば捨ててもいいと、
荷物になるが持って来たのだった。
重伝建とは重要伝統的建造物群の保存地区の略称で、
黒島は加賀藩内の天領で
かつ日本海の物流の中心であった北前船の拠点(寄港地)として栄えた。
この地区の代表的な建物が「旧角海家」。
<角海(かどみ)家>は廻船問屋として黒島の中心であり、
船主として重厚な屋敷を構えていた。
しかし、能登半島地震で建物が倒壊し、現在は復元されている。
地元の保存会の案内人のガイドにより3グループに分かれて建物内を見学した。
次いで「北前資料館」、黒島天領の説明や「黒島天領祭」関連の曳山などを見学した。
<曳山(ひきやま>とは大阪城や名古屋城をかたどった豪華な神輿のようだ。
下の写真、黒島天領祭の曳山(ネットから)。
残念ながら、今年の天領祭はコロナ禍で中止となったようだ。
また、バスガイドの話では、海が荒れると、
北前船の船頭や水夫(かこ)たちは付近の漁港に海難を避けて泊まる。
すると当然遊女たちが相手となる。
やがて、恋仲になった女たちは
海が荒れて男たちが出帆できないようにと<願かけ>をした。
それが<肌掛け地蔵>で、女が地蔵に自分の肌着を懸けると、
地蔵が怒ってその怒りで海が荒れるという話。
実際に肌掛け地蔵が祭られたという。
白米千枚田
バスは予定より早くホテルに着きそうなので、
翌日の<白米(しろよね)千枚田>に向かうことになった。
白米千枚田は山と海の間のわずかな傾斜地に棚田があり、1004枚の棚田という。
一枚の棚田は面積は狭く、
「田植えしたのが九百九十九枚あとの一枚蓑の下」と謡われたという。
蓑の下に隠れていた一枚をつい忘れていたということ。
下の写真のように、<さもありなん>と。
現在、世界農業遺産にも登録されいて、
日本古来の農法「苗代田」を復活させ、種籾から苗を育成し、稲作を行っているという。
バスガイドの話では、現在は2000以上あり、
オーナになることもできるようだ。
また、農業高校の修学旅行生たちが何年かボランティアに来ていたとも。
バスを降り、千枚田を一望できる場所で、添乗員に写真を撮ってもらった
(つい、マスクを付けたままで、やっぱりコロナ禍?)。
ホテル八汐
白米千枚田から輪島温泉のホテル「八汐」に17時頃到着、
検温とアルコール消毒(どのホテルでも)してからチェックインして、
温泉に入って、くつろいだ。
このツアーの売りが<寛ぎ>で、
時間に追われることのないゆとりある日程を組んだ旅となっている。
夕食は、ソーシャルディスタンスにより、
テーブル席で向かい合って二人が座り、
テーブルの間はほぼ2mぐらい間隔が開けられていた。
ツアー一行13人と添乗員だけで他の客はいない。
もちろん、みなマスク、仲居さんたちもマスク。
翌日の朝食の席も同様だった(ランプの宿も加賀屋でもほぼ同じ)。
夕食は十品以上の料理、<おしながき>によると、
御凌ぎとして<素麺>や鍋物として<能登名物いしる鍋>、
焼物として<鰈(かれい)の味噌幽庵焼き>、
揚げ物として<輪島ふぐの唐揚げ>などなど。
下、夕食のほんの一部。
素麺は輪島が産地として栄えた時代があり、信長や利家にも献上されたらしい。
また、<いしる>とは魚を原材料とした魚醤で、能登の郷土料理という。
さらに、<輪島ふぐ>は輪島港で水揚げされた天然ふぐで漁獲量は日本一という。
いずれにしても、普段<食べ慣れないご馳走>なので残さず食べて満足した。
夕食後、部屋に戻ると、蒲団が敷かれてあった。
さて、困った。ベッドで寝ることにずっと慣れていて、
寝起きする際起きあがるのに一苦労する。
いつも座布団に座るより椅子に腰掛ける生活だし、
床にひっくり返るのはテレビを見るときぐらいだ。
八汐は全館座布団と蒲団の部屋なのだろうか、
椅子とベッドに慣れた私には、他は満足できたが、
これだけが不満足となった。
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