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 能登の旅3 :ランプの宿から加賀屋へ

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      ・・八汐からランプの宿へ
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       輪島キリコ会館  輪島塗会館  上時国家
       ランプの宿


 第二日目
 3月21日(日
 朝食は7時、もちろん夕食より品数は少ないが、
 それなりの食べ応えがあった(他の宿でも同じ)。
 わが家では、チーズやハムを乗せたパンとコーヒー、
 卵、レタスなどの野菜や果物で、
 朝食に和食とはいかない。

 ホテル八汐を9時30分に出発(バスも検温とアルコール消毒してから)し、
 輪島の<朝市>に向かう。
 朝市はコロナ禍の中やはり出店は少なく、
 それでも今日は通常の6割程度あるという。
 あいにくの雨の中、人出はイマイチかな。
 


 約1時間、私は買い物せずに朝市の300mぐらいの一本道を
 傘をさしながらブラブラ歩いて、興味湧くと写真を撮ったりした。
 通りには「永井豪記念館」や西洋神殿風の建物、
 路地を入った先には小さな「市姫社」があった。

 市姫社 ;古来より商人開運の神として<市>が立つ場所で祀られている。

 ネコ :輪島の猫もやっぱりネコ


 キリコ会館

 朝市からバスに戻り、「輪島キリコ会館」に向かう。

 キリコ祭 :能登最大の祭
 
 キリコ祭は、残念ながら<黒島天領祭>と同様、
 コロナ禍で今年は中止のようだ。
 

 <キリコ(切籠)>とは「切子燈籠」の略称で、
 神事「キリコ祭」の御神灯のこと。
 大小さまざまなキリコが飾られている。

 キリコは背が高い直方体状で、
 前面中央部には漢字3文字で表した<キリコ吉祥文字>と呼ばれる
 地区ごとの願いや祈りを込めた文字を配し、
 <後美人>と呼ばれる背面には
 さまざまな絵(武者絵や竜など)が施されている。

 

 


 「キリコ祭」は能登最大の祭らしく、
 200地区で夏から秋にかけて行われ、
 神輿の供にキリコを担いだ氏子が練り歩く。
 2階のビデオを見ると、<練り歩く>といっても、
 激しく動き回ったり、<あばれ祭>とか海の中をキリコを担いだりとか、
 とても威勢がいい。

 あばれ祭 :今年は中止。

 海中のキリコ 今年は中止。

 大きなものでは、重さ2t・高さ15mもあり、
 これを100人で担いで練り歩くという。
  注)過疎により担ぎ手が減少した地区では車を付けている所もあると。


 キリコ会館から昼食の店に向かう。
 メニューは輪島のフグ炙り丼
 八汐でもフグ料理を食べたが、
 フグは<河豚>というように、魚肉というより動物の肉のようで、
 それが柔らかくなって味もさっぱりしている。
 しかし、やっぱりフグは<フグ刺し>がいい。

 フグ炙り丼

 昼食を終えて、バスが駐車している「輪島塗会館」に向かう。
 私たちは小雨の中、ここかなと、会館らしき建物に行くと違う。
 さてと、ちょうど中にいた警備員らしき人に尋ねると、
 親切に外に出て<あっちだ>と教えてくれた。
 見ると、横断歩道を渡るツアー一行の人たちがいて、
 私たちは添乗員の話をいい加減に聞いていたようだ。


 輪島塗会館

 輪島塗会館の2階では、
 輪島塗の品物が完成するまで、100種類以上の工程があると、
 実際の品で展示していた。
 とても見切れないのでザーッと見て、
 塗上がった完成品の<蒔絵(まきえ)>や<螺鈿(らでん)>の美しい塗りを
 じっくり見た。
 3階には美術館(有料)があって輪島塗の美術品が展示されていた。

 会館を出てバスに向かう途中、バスガイドさんが<輪島塗どうでした?>と。
 私は<よく分からないなぁ>と、曖昧な返事をする。
 会話の中で、ガイドさんによれば、塗り師の後継者がなかなか育たないと、
 輪島塗の将来を気に懸けていた。
 輪島塗の土産物ならいざ知らず、
 美術品として仕上げるような技は
 まさに高度な<職人技>が必要なのは分かる。

 さて、バスは「(本家)上時国家」へ向かう。
 途中・車窓から前日見学した<白米千枚田>、
 「名舟白山神社」の鳥居と社殿を見る。
 この神社には<御陣乗太鼓>が奉納されている。
 キリコ会館の3階では付近を一望できる展望と
 この太鼓を演奏するという舞台があった。


 上時国家

 「上時国家」に着いた頃、雨が本降りとなった。
 正門から入ると、屋敷に行くには少し急な石畳の坂を登って行かねばならない。
 気をつけて歩く。

 上時国家(分家の下時国家もある)は、
 平清盛の義弟、平時忠の子・時国を始祖とする能登随一の名家とされる。
 時忠の後を継いだ時国は、<>の姓を返上したという。
  注)平姓を返上したので、なんと名乗ったのだろうか。
   時国をそのまま苗字にしたのかな?

 屋敷は4~5階建ビルに相当する木造民家で、
 能登半島地震にも倒壊しなかった頑丈な造りだ。
 上時国家の格式は<大納言>といい、
 「大納言の間(御前の間)」には<緑金折上格天井>があり、
 加賀藩主(中納言)でも天井に紙を貼ってから入室したという。
  注)折上格天井(おりあげごうてんじょう)とは、
   格天井(碁盤目に組んだ角材の上に裏板を張った天井)の中央部を
   一段高くした格式高い重厚な作りのようだ。
   さらに、縁に金を塗ったのが大納言の間の天井かな。

 下の写真、大納言の間
 

 下の写真、上部が<折上格天井>で、中央が欄間の<透かし彫り>

 

 さらに、広間の襖には、
 家紋でもある平家定紋の「丸にあげは蝶」を金箔で描いて連ねている。

 平家定紋 :実際に見たものと違うけれど。

 また、座敷の境上部には両面彫りの欄間を飾り、
 御前の間の欄間は蜃気楼を描いていて珍しい、という。

 歴史的逸話によると、
 平時忠は壇ノ浦で義経に捕らわれたが、
 その縁で義経と親しくなり、娘を義経の室としていた。
 義経が頼朝に追われ奥州平泉へ逃れる際に
 能登を通過したという伝承があり、
 前野鼻にも義経が24隻舟を隠した場所があったように、
 時忠の配流先の能登を舞台に伝承ができあがったかもしれない。
  注)時忠が配流で済んだのも義経の助力によるか。


 上時国家見学から今日の宿泊先、「ランプの宿」に向かう。
 途中、車窓から曽々木海岸の<窓岩>が見える。
 ここで義経と弁慶が休息したという。
 さらに行くと、真裏海岸、滝が直接海に注ぐ<垂水の滝>がある。

 さらに、「角花菊太郎の塩田」が見えた。
 この塩田は江戸時代からの<揚げ浜式製塩>を守っている。

 

 バスガイドの話では、
 戦後、専売公社が民間の塩販売を禁じた時、
 製塩業者の廃業が相次いだが、角花さんは頑なに塩田を守り抜き、
 公社も最終的に角花さんの塩田だけは認めたという。

 ランプの宿に向かう途中、バスは道の駅「狼煙」に休憩した。
 狼煙は能登半島最北端の「禄剛崎灯台」の麓にある。
 降りると、小雨だが突風がたまにあり、
 傘がオチョコ(ただ私の傘は柔軟で折れたりしない)になりそうだ。
 いよいよ、バスは念願のランプの宿に向かい、
 ランプの宿が崖下にあるので、崖上の駐車場に着いた。

 ここで私と妻は一行と分かれて、「須須神社」に向かうことになった。
 旅行前に須須神社の神主さんに今日伺うと連絡し、
 神主さんがランプの宿の社長さんに車の手配を依頼してくれたのだった。
 かくして、宿の車に乗って須須神社に向かった。


 <須須神社へ
 この顛末は別に「五十年一昔」として掲載。

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 「五十年一昔」へのリンク


 神主さんとの再会を果たし、
 須須神社からランプの宿に向かう私たちを、
 ランプの宿の従業員ではなく、社長さんが直々に迎えに来てくれた。

 崖下のランプの宿に降りるには、
 急勾配の坂を箱根の登山電車みたいに
 スイッチバック(車は坂道を下り、そのあと少しバックして、また次の坂道を下る)する。
 宿の到着して、社長さんにお礼を言い、
 私たちは係の人に案内されて、フロントから2階の部屋に入った。
 すでに私たちの手荷物以外の荷物は部屋に置かれていた。


 「ランプの宿

 能登の最北端(聖域の岬)の<よしが浦温泉>郷
 泊まった部屋は「花こよみ」という一般客室の3号室で、
 昔の<古風な宿>の部屋という印象だった。
 そして、この部屋には、写真家のアラーキーが4度来て泊まったという。

 ランプの宿にはテレビがない。また、水道は引いてない。
 テレビがないことは聴いていたが、
 わが妻はテレビがないのはやはり不満らしい。
 しかし、水道を引いていないとは知らなかった(というと、地下水で?)。

 全館で13室の小さな宿でなかなか予約が取れないという人気の理由は、
 やはり周囲の風景によるのか。
 周囲を崖に囲まれて、宿の前面には波立つ
 <よしが浦>の浜辺(岩礁にうち寄せる波)が一望できる。

 


 


 創業は450年前という。
 この旅行前には、そんなに長い続く由緒ある宿とは知らなかった。
 そして、私たちを出迎えてくれた社長さんは、
 14代目当主の刀祢秀一さんであった。
 刀祢社長さんの創意により、伝統を重んじながら宿を改装して、
 現在の超人気宿に生まれ変わらせたという。
 私たちに気さくに接してくれた社長さんの人柄にも、とても好感を持てた。


 夕食はホテル八汐と同様に十品以上で、
 しかもより品数を盛り合わせた料理で、
 料理も宿の<売り>となってるのが分かる。

 とにかく、食べ慣れないご馳走ばかりで大いに堪能できた。
 <お造り>は料理長厳選のサヨリ、鰆(さわら)、鮪(しび・まぐろ)、
 甘海老と4品を合わせたものだった(さかなの漢字は難しい)。

 下の写真、上が<お造り>、中央は<お椀物>で蛤潮汁。
 

 注1)鮪(まぐろ)を志毘(しび)というのは、
  古く古事記(712)下にある歌謡が出典だった。
  <しび>を銛で突く漁法からで、
  「お品書き」に鮪のふりがながあったので
  帰宅して調べてみた。知識が増えた、ありがたい。
  「大魚よし 斯毘(シビ)突く海人よ 其が離(あ)れば
   うら恋しけむ 志毘(シビ)突く志毘」

 妻は中でも<蒸篭蒸し>の真鯛が美味しかったと。
 私は、魚介類ばかりのなので、
 <焼き物>の能登豚菜種焼きを挙げたい。

 下の写真、右が能登豚。左は蛍烏賊(ほたるいか)木の芽味噌和え。
 


 神社の往復で遅くなったので、夕食後に温泉に浸かり疲れを癒やすことにした。
 さて、愛煙家の私は食事を済ませ温泉に入ったので<ちょっと一服>と、
 宿の喫煙所を聞いてみると、宿の中にはなく外にあるとのこと。
 夜になり雨も降ってるので、仕方なく断念して、寝ることにした。
 八汐と同様、座布団と蒲団なのでこれも仕方ない。



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