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五十年一昔
・・50年ぶり、須須神社再訪。
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コロナ禍の東京脱出して、20日から3泊で、
私と妻は能登の旅に出かけた。
一番の目的は50年ぶりの須須神社を訪れることであった。
能登の旅行記は別に掲載するとして、
神主さん本人との50年ぶりの再会を果たした、
その顛末を「思い出の記録」として残すことにした。
<須須神社へ>
3月21日、午後4時頃~5時45分頃、滞在。
白米千枚田を前日見たので、「ランプの宿」到着が早まり、
パック旅行一行とは別に私たちは宿の車で直接神社に向かう。
あいにくの雨だったが、神社の参道を登りながら、
50年前の記憶は全くないので、途中社務所を探しながらであった。
社務所に着いて名乗ると、
神主さんの奥さんが一寸びっくりした顔をすぐ笑顔に変えて、
どうぞと迎え入れてくれた。
来訪予定より早かったからで、私たちを居間に招き入れ、
神主さんを呼びに奥に向かった。
しばらくすると、神主さんが現れ、
私たちが挨拶すると笑顔で会釈して座るように促してくれた。
奥さんが茶菓持って来て、
私たちが座布団に座るのをためらっていると、
その様子を見てすぐ気づいて、
側にあった床几に「どうぞ座って下さい」と促し、
もう一つ床几持って来てくれた。
私たち二人ともお礼を言い腰掛けた。
このパック旅行への参加を決めたのは、
かつての神社にも行けると思ったからで、
神主さんの名が<猿女>という
「古事記」にも出てくるような苗字だったことを記憶していた。
50年前の当時、私は「日本書紀」や「古事記」を読んでいて、
<猿女>という名が印象深く残っていたようだ。
旅行社に連絡すると、
「須須神社」の宮司の名が確かに<猿女>だと確認がとれた。
猿女宮司に50年前に結婚の祝詞をあげてもらったことなどの
いきさつを書いて手紙を送ると、
先方からまもなく電話があり、歓迎されることになった。
ただ、宮司さんは当時修行のため他所(白山比咩神社)にいて、
祝詞をあげたのは先代の宮司だろうと。
また、「ランプの宿」と神社の間の交通利用は、
宮司さんから宿の社長に依頼してくれることになった。
再会
宮司さんと実際に会って、
いろいろ話してみる(奥さんも三人の話を聞いていた)。
私 「50年前に祝詞をあげてもらった神主さんは、
私より年上の30歳代で、もっと年配の方が別にいました。」
宮司さん 「昭和43年に修行を終えてここに戻った。」
私 「私たちは昭和46年3月にここに来ました。」
上の話から、私たちに祝詞をあげてくれたのは、
目の前にいる宮司さん本人だったことが確認できて、
実に印象深い会話となった。
<五十年一昔>というけれど、
宮司さん本人と再会できるとは思ってもみなかったので、
再会を果たせたことに深く感銘を受けた。
話の中で、私の方から、当時「古事記」や「日本書紀」を読んでいて、
猿女という古来の苗字が記憶に残っていたことや、
生まれた長男の名を「古事記」の<倭建命>から採ったことなど。
また、宮司さんの名刺からサークルの会員と分かり、
私たちのカメラもキャノンです、と。
宮司さんからは、「須須神社」の由来や、
キャノンフォトサークルで入賞したこと、
弟さんが東京の洗足池にある「千束八幡神社」の宮司である
(奇遇なことに私たちも一時近くの上池台に住んでいた)などと、
和やかに会話が弾んだ。
そうこうするうちに、新聞記者が玄関先に現れ、居間に通された。
宮司さんが事前に連絡していたのか、
記者は私たちにインタビューし、新聞に掲載するとのこと。
また、奥さんがフォトサークルで入賞した
額入りの大きな写真を二点持って来て飾った。
下の写真、京都・嵐山、「渡月橋」
私たちがインタビューを受けてる間に、
宮司さんは神社に向かう支度のため奥に行き、
インタビューを終えた記者と私たちは、
社務所から神社への階段を登り手を清め、
神社の前に立った。
神社(高座宮本殿)の正面に立つと、
50年前とは全く様変わりしていて、
50年前の面影(何となく古めかしい社殿)はなく、
朱に塗られた立派な社殿となっていた。
50年前の記憶に残るのは周囲の鬱蒼とした樹木だった。
社殿の入口で宮司さんと私たちは会い、
記者が三人の記念写真を撮り、中に入って娘さんに記帳を受け、
社殿の正面に腰掛けた。
拝礼
しばらく待つと、正装した宮司さんと
<神楽>を舞う巫女姿の娘さんが現れた。
社殿の奥の扉を巫女さんが開けると、
その奥に鏡(御神体)があり、
いよいよ祝詞をあげてもらうことになった。
とにかく神社に行けると思っていただけで、
さあ、50年ぶりの<祝詞>の進行はどうなるのか、
見当もつかなかった。
50年前は巫女さんの<神楽>の舞はなかったし、
ともかく巫女さんの助言で、と。
あらかじめ下調べしてくれば良かった(特に玉串拝礼を)、
と思ったが致し方ない。
巫女さんが太鼓を打ち鳴らし神楽を舞い、
宮司さんが御神体の前で祝詞を唱え、
私たちが御神体に幣帛と玉串を捧げて戻り、
さらに、神楽を舞いながら巫女さんがお祓いをして、
とりあえず、無事に式は終わった。
宮司さんと巫女さん私たちの四人の記念撮影も終わり、
宿に戻る時間も迫っていて、
宮司さんの「一服していかないか」との誘いの言葉を、
申し訳なく辞退して私たちは
雨で滑りそうな参道の階段をゆっくり降って行った。
下の写真、須須神社拝殿、私たちを見送ってくれる娘さん。
下の写真、須須神社参道、神社は鬱蒼とした樹木におおわれている。
途中、社務所の前の参道で奥さんが待ち受けていて、
「ランプの宿の社長さんが鳥居の前で待っています」と言う。
まさか社長さん直々に迎えに来ているとは、
私たちはありがたいと思いながら、
神社の鳥居にたどり着いた。
社長(刀祢秀一)さんは笑顔で車から傘もささずに降りて来た。
お礼かたがた話をすると、
社長さんは「50年前なら、私は7歳だった」と、笑顔で気さくに言う。
せっかくなので、鳥居の前で私たちの記念写真をと、
気軽に引き受けてくれた。
帰りの車中で、社長さんと同居人が50年前のいきさつやら話ながら、
やがて箱根の登山電車みたいにスイッチバックして降りて、
崖下の宿に無事到着した。
新聞記事
さて、帰宅後、しばらくして、
北國新聞の記事が宮司(猿女貞信)さんから送られてきた。
見ると、3月28日付の記事で(石川県の選挙と重なり遅くなったらしい)、
「金婚記念珠洲再訪」と題されて、
<私たち夫婦と語り合う猿女宮司>というの写真も載っていた。
「東京都町田市の私たち夫婦は27日までに、
結婚50周年の金婚式の節目に、新婚旅行で立ち寄った
珠洲市三崎町寺家の須須神社を再訪した。
夫婦はこれからの健康を願って神前に祈りをささげ、
私は<再び2人で思い出の地を訪れることができた>と笑顔を見せた。
私たち夫婦は1971(昭和46)年3月25日に結婚した。
この頃、鉄道で東京から金沢までは早くて5時間はかかる時代で、
せっかくの新婚旅行はなるべく遠いところに行きたいと
2人で話し合い、行き先を能登にした。
特に計画は立てず、思いのままに金沢から能登を巡った2人。
当時の記憶はほとんど残っていないが、
たまたま立ち寄った須須神社で
若き日の猿女宮司(83)の祈祷を受けたことは覚えていた。
21日に須須神社に参詣した。
妻は<境内の様子や神社の建物は変わっていたが、
神木はそのままで昔のことを想い出した>と懐かしそうに語った。
猿女宮司は
<長い間、神社のことを覚えていてくれてありがたい>と話した。」
注)記事では私たちの本名を記載している。
その後、北國新聞からも大型パネルにしたものが送られてきた。
<参考>
玉串拝礼 :以下、須須神社の説明文から
<玉串奉奠と拝礼の作法>
玉串を受け取り神前に進みます。
玉串は、右手で根元を持ち、
左手で中程を下から支える様に受取り、
胸の高さに持ちます。
神前に直立し(正座し)、軽く一礼します。
神前の案(机)に玉串を供えます。
一旦根元を自分の方へ向け、
祈念を込めます。
左右の手を持換え、時計回りに回します。
根元を神前に向けて供えます。
二度深くお辞儀します(二拝)
二度拍手します(二拍手)
もう一度お辞儀します(一拝)
軽く一礼して席にかえります。
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