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サンクトペテルブルクの旅1
(旧レニングラード)
ホテル~デカプリスト広場~聖イサク寺院
~血の教会~エルミタージュ美術館
~サンクトペテルブルク市内~ネフスキー大通り
~夜・テレビ
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デカプリスト広場 血の教会
エルミタージュ美術館
ネフスキー大通り 夜・テレビ
朝
プリバルチースカヤ・ホテル
このホテルが私たちの宿舎になった。
ちょうど割り当てられた部屋は、
ホテルの裏手に当たり
バルト海につながるフィンランド湾に面しており、
景色も良く朝方はさわやかな感じで申し分なかった。
朝食後、早速、海を見に行ったが、
風が強く夏とはいえ冷え込んでいたので、
ホテルの周囲を見やりながら帰った。
市内観光1日目
一応、<サンクトペテルブルグの歴史>を
垣間見ておく。
サンクトペテルブルグは、
ピョートル1世(大帝)が、
スウェーデンとの北方戦争(1700~21)の際に、
スウェーデンの侵入を防ぐため
ペトロパヴロフスク要塞(1703完成)を築いたこと、
北方戦争の「ポルタヴァの戦い」(09)に勝利後、
バルト海への出口を確保して港を建設し、
1712年首都をここに移した。
ピョートルが、ロシアの近代化・西欧化をめざして、
フィンランド湾に面した海港都市として、
また、西欧文化吸収の窓口として
新たに建設した首都とした歴史経過から、
市街地はほぼ整然と区画されている。
ネヴァ川河口に建設されて、
ネヴァ川対岸の
ペトロパヴロフスク要塞に守られた市街地の中心は、
三重の運河囲まれている。
(中心の拡大とともに運河が建設された)
旧海軍省と青銅の騎士像のある
「デカブリスト広場」を中心とした
放射状の三つの通りが通りがあって、
その一つが現在最も繁華街となっている
「ネフスキー大通り」である。
デカブリスト広場(元老院広場)
「旧海軍省」は、現在も海軍の施設で、
サンクトペテルブルグ市街の起点となり、
周囲には三つの公園(広場)がある。
その一つがデカブリスト広場で、
この広場の名は、
対ナポレオン戦争に勝利した
ロシアの青年貴族たちがパリに行って、
<カルチャーショック(ロシアの遅れを痛感)>を受けて帰国し、
反乱を起こした事件(1782)、
「デカブリストの乱」(12月党の乱)を記念して命名された。
ここにある「青銅の騎士」像は、
ピョートル大帝の記念像で、
女傑エカテリーナ2世(ドイツ出身、夫を暗殺)が
ピョートルの後継者であることを宣揚するために製作させた、
ロシア最初の記念像といわれる。
聖イサク寺院
デカブリスト広場の南側にそびえ、
金色に輝くクーポル(円屋根)を持つ大きな聖堂。
高さ100mを越えて市内のどこからでも見えそう。
サンクトペテルブルグ市を象徴する聖堂で、
完成するまで40年間を要したという。
湿地帯のサンクトペテルブルグでは
こうした巨大聖堂を建てるのは大変困難であったようだ。
また、第2次大戦にナチス・ドイツの包囲・攻撃にさらされて
大きな被害を受けたが、復元・再建された。
内外の装飾・レリーフ、モザイク画など見応えがあり、
また、聖堂内部の広く深閑とした空間の感じは、
いかにも正教会らしい。
血の教会 (血の上の救世主教会)
1997年10月にオープンした、
観光スポット用に新装された教会。
「スパース・ナ・クラヴィー聖堂」(キリスト復活聖堂)という。
モスクワの「聖ワシリー聖堂」を模した
「ネギ坊主」と赤壁が華麗。
内部の装飾は見事なモザイク画で全面覆われている。
天井の大きなモザイク画も素晴らしい。
これらのモザイク画は新しく作られたというのではなく、
社会主義時代のロシア正教会がほとんど活動できなかったとき、
諸教会・聖堂は
こうした様々な装飾品・美術工芸品を保管する倉庫となっていたので、
それで、案外、散失せず傷みもなく残っていたらしい。
教会の活動が自由になった今、倉庫に大切に保管されていた品々が
やっと日の目を見るようなったという。
現在でも、一部、工事中。
「血の教会」を出てバスに戻るとき、
数人のロマ族(ジプシー)の親子がバス付近にいた。
乳飲み子を「おくるみ」に包んで抱きかかえているが、
「物乞い」であった。
いかにも貧しそうな衣装であったが、
ロシアにもこうしたロマ族人口は存在する。
前回のスペインで見たロマ人は、
(「ジプシー」というのは、差別語のようなので、使用しない)
日本人のイメージに合った衣装をしていたが、
このロマ人の女性たちは、
「衣をまとった」といった感じだった。
東南アジア・インドの映画などで見かけるような
庶民的な衣装に近いので、
寒いロシアの冬ではどうするのかなと。
エルミタージュ美術館
大英博物館・ルーブル美術館と並ぶ美術館。
収蔵コレクションは300万点以上、
大小1000以上の部屋というから、
これだけで規模の大きさが分かる。
そればかりでなく、この美術館の中心は
歴代皇帝が住んだ「冬の宮殿」が中心で、
建物の内部装飾も豪華絢爛としており、
ロマノフ王朝の贅を尽くした様子が分かる。
「冬宮」といえば、ロシア11月革命の時を告げる宮殿、
ネヴァ川に浮かぶ戦艦オーロラ号の冬宮砲撃が
革命の合図であったことは良く知られている。
このエルミタージュ美術館は、
冬宮に付設された建物、
「エルミタージュ」(フランス語「隠れ家」の意味)に、
皇帝たちが西欧美術品を収集し鑑賞したことから始まるようだ。
メインは2階の19世紀までの西欧芸術作品の展示、
イタリア・スペイン・オランダ・ドイツなどの
巨匠たちの作品が所狭しと展示されている。
また、3階には19~20世紀の西欧芸術のコレクションがある。
フランス印象派からキュビズムまで、
例えばマチスの大作『ダンス』や
ピカソの「青の時代」の作品群など・・・
また、展示室の合間に、
宮殿として使用されていた時代の大小のホール・部屋がある。
例えば、大ホール「紋章の間」、「コブラン織りの廊下」など。
いずれにしても、美術愛好家の皆さんだったら、
この美術館を見るだけで
1日は軽く過ぎてしまうだろう(いや、もっと!!)。
エルミタージュ美術館前は広い「宮殿広場」となっており、
向かい側に旧参謀本部の建物、
中央には対ナポレオン戦争の勝利(1812、祖国戦争の勝利)を記念する
1個の花崗岩で作られているという「アレクサンドルの円柱」など、がある。
また、エルミタージュの外観は、
薄緑の壁の色と白い柱のコントラストがきれいだ。
建物自体の外回りの装飾はゴテゴテしたところがなく、
「ロシア・バロック様式」ということで
すっきりとして、空の青さの中で映えている。
サンクトペテルブルグの主要な建物の外観は、
だいたい古典様式で、
壁の色は、薄緑や青、黄色などの一色でほぼ統一されており、
すっきりした美しさがある。
黄色は、一時、「皇帝の色」として使用されたらしい。
サンクトペテルブルグ市内
歴史的・文化的な遺産を残す範囲はそれほど広くなく、
半日あればバスで回れる範囲といえる。
といっても、実際に見て回れば相当時間がかかる訳だが。
前に記した3運河、
一番外の「フォンタンカ運河」で囲まれた地域と、
ペテロパブロフスク要塞、ヴァシリエフスキー島の一部が、
その範囲であって、
その範囲外では、
少し離れた場所にある「ドストエフシキー記念館」や、
「アレクサンドル・ネフスキー修道院」、
11月革命で革命本部が置かれていた
「スモーリヌイ修道院」(付属の旧女学校)ぐらいである。
とにかく、このサンクトペテルブルグ市は、
公園(広場)や寺院(聖堂)、
記念碑など歴史的・文化遺産がたくさんあり、
まさに全盛期のロマノフ朝ロシアの首都であり、
そして、11月革命の土地であることが分かる。
ネフスキー大通り
デカブリスト広場と蜂起広場を結ぶ「ネフスキー大通り」は、
新旧取り混ぜた繁華街となっている。
1905年、「血の日曜日」にこの大通りをデモ行進した群衆は、
宮殿広場(デカブリスト広場の横手に当たる)で
第1次ロシア革命の狼煙を上げたのであった。
また、「蜂起広場」は1917年2月革命で、
帝政の守護者、民衆弾圧の手先、コサック騎兵が
群衆の側に寝返った場所で、
まさにの17年革命の蜂起を記念する広場となった
この大通りに面して、半円形回廊を持つ「カザン聖堂」や、
市内最大のデパート「ガスチーヌイ・ドヴォール」があり、
作家たちが良く通い、
プーシキンがここから決闘に出かけたという「文学カフェ」、
少し横手の通りに出れば、
大きな劇場や「芸術広場」、などなど。
夜・テレビ
ホテルのレストランで夕食。
前に書いたとおり、
ボーイさんが手にした布の下から
「キャビアの缶詰」の注文を取っていた。
私たちパック旅行の人々も「安い」というので
注文に応じていたが、
私と同行者も同様に買った。
テレビチャンネルをバチバチ変えてみていると、
前回のスペイン・ポルトガル旅行でもそうだったが、
スポーツ番組のトップはサッカー、
そして、意外に、視聴者参加番組が多いということ。
また、ヨーロッパ各国の電波がキャッチされていて、
チャンネルも国際的であった。
(ロシアのテレビチャンネルは多くなかったが)
そうして見ていたところ、
ニュース画面に何やら騒ぎが映った。
建物の扉の前で、
入れろ入れないというように争っているようだ。
もとより、ロシア語が理解できない私にとって、
きっと銀行の倒産による取り付け騒ぎかと
想像するばかりであった。
ロシアの経済混乱による
ロシアの銀行の倒産という図式で想像した見ていた。
(建物の様子から銀行と思った)
その後、日本に帰ってから、
ロシア国内の<ドルとルーブルの交換停止>と分かって、
これは確かに大問題だったのだと、分かった。
ルーブルの価値
旅行中の知り得たことから言うと、
ルーブルでの売買が公式のもの。
観光旅行での入場料などのチケット販売はルーブルだし、
一般商店での買い物も当然ルーブルなのだが、
どうもそれ以上になると<ドル売買>になるらしい。
観光土産品はドル(もちろんルーブルも通用)で買える。
しかし、ロシア人ガイドさんの話によれば、
何とアパートの賃貸契約はドル契約だそうで、
そうした重要な長期・短期の契約(売買)が「ドル建」ということは、
手持ちドルが無ければ大変なことになる。
そうなれば、ルーブルは紙屑同然になってしまう。
ともかく、一国の通貨構造が
外国通貨と自国通貨の二重になっていて、
しかも自国通貨がどちらかというと補助通貨という経済状況は、
現在の日本は想像を絶することだろう。
(ひょっとしたら、日本でも起こるかもしれない)
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