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ラスコーリニコフの下宿探し
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半地下式の住居 ラスコーリニコフの下宿へ
センナーヤ広場 あった!! 屋根裏部屋
下宿を起点として
①罪と罰巡り
サンクトペテルブルクの<市内観光の3日目>。
今回の自由行動はドストエフスキー『罪と罰』巡りとした。
「ネフスキー大通り」の繁華街で「文学カフェ」などに立ち寄りながら
ブラブラ過ごすのも悪くなかったが、
サンクトペテルブルグであれば、19世紀ロシア文学の故郷であり、
文学巡りも悪くない。
とにかく、モスクワのトレチャコフ美術館で再会した(?)
『ドストエフスキー』に焦点を絞ったわけ。
下の画像。
ドストエフスキーは、
比類無き壮大なテーマを扱った作家であると同時に、
生活身辺の記述では写実的な側面があり、
そこから「ラスコーリニコフの下宿」が推定できる。
(あるいは比定する研究もできるわけ)
しかし、かの有名なシャーロキャンの
「シャーロック・ホームズ熱」ほどではない。
また、ジェームズ・ジョイスの『ユリシーズ』では、
アイルランドのダブリン市を主人公が辿っていく場所を
丹念に描写するほどでもないけれど。
②半地下式の住居
ドストエフスキー『地下生活者の手記』でいう
「地下」については、
日本での地下のイメージで連想するほど、
地下の薄暗いジメジメした場面では無さそうだ。
ロシアばかりでなく、ヨーロッパの住居(建物)には、
「半地下式の住居」が多い。
例えば、ジェームズ・ジョイスの『ユリシーズ』の
主人公ミスター・ブルームの住居もそうであった。
ジョイスの場合は、意識的にアイルランド・ダブリン市の
市街区の詳細を『ユリシーズ』で描いた。
そこで、現在のダブリンでは、
ジョイスの<『ユリシーズ』巡り>が観光化されているようで、
機会があれば、私も一度行きたいと思っている。
「半地下式の住居」とは、
道路から半階ほど低く、階段を下りて住居の入口があり、
逆に半階ほど階段を昇ったところに正面玄関があるという形式。
そうした形式の建物は、
サンクトペテルブルグでは、4~5階の建物となっている。
(最近の新しい建物はそうでもないようだが)
サンクトペテルブルグの市街地の住居(建物)は
こうした「半地下式のもの」が多い。
例えば、一般商店に入る場合も半地下式の入口からであったりする。
また、入口の扉もそれほど大きくないので、
中にはいると意外に内部が広いことに気づく。
そして、その中に、一般商店やら何やら、
例えば、観光客用の免税品店などもあったりする。
道路に面する建物には、
窓も少なく、ショッピング用のショーウインドーもない場合が多い。
ロシア語ができない私にとっては、
具体的に何がこの建物にあるのか見当も付かない。
また、建物も、大部分は、方形(四角や長方形)のもので、
それで一区画をなしている。
そして、建物の中には、広いあるいは狭い中庭があって、
住居(あるいは商店など)の部屋の部分は
中庭に面して配置されていて、
各階には一種の回廊のような通路がある。
半地下式の建物のために、サンクトペテルブルグでは、
かつて、ネヴァ川の氾濫によって
逃げ遅れた多くの人々が溺死してしまう災害も、
しばし、起こったという。
それでも半地下式の住居が造られているということは、
恐らく、冬の寒さをしのぐには良いのであろう。
③「ラスコーリニコフの下宿」へ
話は横道にそれてしまったが、
第1の目標を「ラスコーリニコフの下宿」探しとして、
また、サンクトペテルブルグの地下鉄にも乗ろうと、
ホテルを出た。
ホテルから地下鉄の駅までは結構離れているので、
*プリバルチースカヤ・ホテルは
ヴァシリーエフスキー島の北、
フィンランド湾に面している。
そこで、通常は、タクシーか定期バスかであったが、
便利なことに、最近できたのが、
「路線タクシー」。
(一種の「乗合自動車」(7~8人乗りのマイクロバス)
ホテル近くからそれが出ているという。
恐らく定期バスでは不便というので、
市民の利用が多いのだろう。
同乗したロシアの人たちは、皆親切で、
私たちが地下鉄「プリモルスカヤ駅」に行くと知って、
降りるときにプリモルスカヤ駅の方向を教えてくれた。
ただ、モスクワもサンクトペテルブルグも
地下鉄(メトロ)駅の表示はわかりやすい。
「M」の大きな表示があるから。
地下鉄で目指す駅は
「セーンナヤ・プローシャチ」(センナヤ広場)で、
「ガスチーヌイ・ドヴォール」に出て、
(この駅が、「ネフスキー大通り」の中心駅)
別の路線に乗り換えて、「セーンナヤ広場駅」に降りた。
モスクワの地下鉄と変わりはなかったので、
今度は多少余裕を持って迷わず乗降できた。
ただし、モスクワのメトロと違っているのは、
また、日本のメトロと違っているのは、
地下鉄のホームに扉があること。
電車とホームの乗降はこの扉で行われる。
(最近、日本でも、安全のため低い扉が設置されるようになった)
例えば、地下鉄の電車に乗っていた場合、
駅についてもホームは見えない。
電車が停まって駅に着いたらしいというので、
電車のドアに近づくと、
ホームにある扉が開くという仕掛けになっている。
④セーンナヤ広場
セーンナヤ広場こそ、『罪と罰』では最大のメイン場面。
ソーニャがラスコーリニコフに罪の告白を求め、
ラスコーリニコフが世界に向かって「老婆殺し」の罪を告白し、
地上に伏し跪いて贖いを求めた場所であった。
しかし、今日の広場は私のイメージと違って、
路面電車の線路が走り、雑然とした市場が立ち、
狭い空間となっていた。
この旅行で目にしていた
サンクトペテルブルグの多くの広場(公園)と違って、
いうならば、「場末の駅と小さい駅前広場」というものだった。
恐らく、ドストエフスキーの当時にはもっと広い空間があって、
路面電車(貨物用か)の線路はなかったに違いないが。
ただ、雑然とした市場の様子は変わらないかも知れず、
それだけ庶民的な広場だったのかも知れない。
というわけで、私は多少の失望を感じながら、
この広場からラスコーリニコフの下宿探しを始めることになった。
探す場所は、ほぼセーンナヤ広場からすぐの、
「グリバエードフ運河」(3つの運河の真ん中の運河)を
越えた地点であった。
ただ、ロシア語の表記がたどたどしく読めるだけの私にとって、
そう簡単に探すことはできない。
↑ここに広場
地図を見ると、
左上方にイサク寺院があり下方にセーンナヤ広場がある。
これを結ぶ線上に「ラスコーリニコフの下宿」がありそう。
運河と「ヴォズネセンスキー大通り」、
及び「プリェハーナフ通り」の交差する範囲内ではあったが、
全く土地勘のない状態ではどうすることもできず、
あれこれ迷いながら、このあたりだろうと見当を付けた場所で、
通りがかりの中年のロシア人男性に拙い英語と地図を指しながら、
手振りも交えて、場所の特定をしようとしたが、
相手も親切に辛抱強く聞いていたが、結局分からずじまいであった。
近くに警官(どこかの警備員かも知れない)らしい若い男もいたが、
ロシア語しか分からないという表情で相手にならない。
また、ロシアではよく見かけたのだが、
街角に何をするでもなく、
ただ立っていて周囲を見ている男の姿が、ここでもあった。
だからといって、決して不気味な感じでもないのだが、
何故そうしてただ突っ立ているのかが良く分からないのだが。
⑤あった!!
そうこうするうちに、
私に分かったことは、どうも街区名が日本と違って、
一つの通りに面した左右両方の建物が通りの名によって
交互に何号、何号と付けられているということであった。
通常、日本では、何丁目何番と付けられている場合、
一つの区画に番号を付け、
一つの建物には何番という番号表示が一つだけになっている。
それが極当たり前の気がしていたが、
ロシア(ヨーロッパではそのようだ)では、そうでなく、
同じ建物でも通りに面した部分の入口に
番号表示があるということが分かった。
そこで、「ブルジェヴァリスキー通り」と、
「グラジダンスカヤ通り」の交差点にある
「5階建ての建物」(19号)といえば、
ここしかないと思いながらも、今ひとつ確信がなく迷っていると、
今度は親切そうな買い物かごを持った中年女性が通りかかったので、
再び、この場所を尋ねたのであった。
ただ、英語で何か言っても分からないだろうし、
直接この場所を尋ねることもあきらめて、
「ドストエフスキー、ラスコーリニコフ」と
繰り返し日本語で発音したのであった。
そうすると、少し考えてながら間をおいて、
女性の方から「ラスコリニコフ?」と聞き返してきたので、
そうだと思わずうなずいたのであった。
こうして話が分かると、この中年女性は、
ニコニコしながら親切にも建物の入口から中庭まで
私たちを案内してくれて、
建物の右側の<階段を昇ればいい>とそぶりで示した。
しかし建物にそのまま入っていいのだろうかと
私たちが躊躇していると、そこに都合良く、
建物の住民の若い主婦が買い物から帰ってきたので、
中年女性はこの主婦に親切にも話しかけくれた。
私たちは、この中年女性に感謝しながら、
主婦の後から階段を昇って行き、
途中主婦と別れて、そのまま最上階に昇った。
そこには、壁一面に落書きやらがあって、
今までここにやってきた人々が記念に残した落書きのようなので、
私たちも<やっとたどり着いた>と一安心したのであった。
⑥屋根裏部屋
ラスコーリニコフが住んでいたという(?)屋根裏部屋は、
残念ながら板が張り付けあって閉まっていた。
最上階から屋根裏部屋への階段は確かに13階段で、
ここを駆けおりて1階の門番小屋から斧を持ち出して
老婆殺害に向かうことになるのだ、
と私は13階段を確かめたのだった。
下宿の前で(写真)
残念ながら、この屋根裏部屋にたった一つある窓から
彼が聖イサク寺院を毎日眺めていたという様子は
うかがい知れなかったが、
ともかく私は満足し、記念写真をついでに撮って、
建物を出たのであった。
ともかく、あの親切な中年女性がいなかったならば、
とてもここだと分かっていても、
屋根裏部屋まで登れなかっただろうと思い、
再度女性に感謝したかったがすでに姿はなかった。
⑦下宿を起点として
「ラスコーリニコフの下宿」からすぐ交差点の向かい側にある、
「ブルジェヴァリスキー通り」(ストリャルヌイ横丁)の
7号が「商人アローキンの家」で、
ここでドストエフスキーは
『罪と罰』、『賭博者』を執筆したという。
だから、ドストエフスキーは、
ラスコーリニコフの「下宿」を<ここ>と
具体的に決めて書いたのだ。
さらに行くと、
「カズナチェイスカヤ通り」との交差点を左に折れて、
この通りと運河がぶつかる角にある
カズナチェイスカヤ通り1号2階が「ソーニャの家」で、
ここでドストエフスキーは『死者の家の記録』を書いた。
私たちはその建物の中庭に入ってみたが、
中庭や住居には人影らしきものはなかった。
このあたりは、ほとんど人通りもなく、ひっそりとした感じであった。
ここから、「ヴォズネセンスキー大通り」に出ると、
バスや自動車の往来も多く、人々が行き交う。
こうした大通りをちょっと入った横丁(道)になると、
とたんに人通りがわずかになる。
「ヴォズネセンスキー大通り」を渡って少しまっすぐ行くと、
ソーニャとラスコーリニコフが出会った「酒場」
ということだが今はない。
また、この大通りを下って(南へ)行くと、
「リムスキー・コルサコフ大通り」(エカテリンドフスキー大通り)
との交差点にあるのが、「警察署」(もちろん今は違っていた)で、
ラスコーリニコフが予審判事のポルフィーリに尋問されつつ
彼の思想を語った場所であった。
ここから、「リムスキー・コルサコフ大通り」を行くと、
やがて「グリバエードフ運河」と再び突き当たる。
そこの横丁に入ったところの角に、大きな建物があって、
その104号が高利貸しの「老婆の家」という。
ラスコーリニコフは、
下宿から運河にかかる「K橋」(コクーシキン橋)を渡り、
ちょうど730歩目で「老婆の家」の前に着いのであった。
ただ、残念ながら、私には「老婆の家」は確認できなかった。
このあたりは、ちょっと分からない。
恐らくこれがそうなのだろうかと、ほとんど信じられないままで、
これでドストエフスキーの文学巡り、『罪と罰』シリーズは終了した。
とにかく、「ラスコーリニコフの下宿」を探し当て、
幸運にも「13階段」に辿り着いたのだ。
また、12時集合という「自由行動」の制約があっては、
十分な成果といえるだろう。
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