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サンクトペテルブルクの旅3
~罪と罰巡り~余話
~ツァールスコエ・セロ
~エカテリーナ宮殿~帰途
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表通りと裏通り 自由行動の後
エカテリーナ宮殿 サンクトペテルブルクの市名
市内観光の3日目
今日の自由行動は
ドストエフスキー『罪と罰』巡りとし、
ラスコーリニコフの下宿探しを計画して、
現在、彼の下宿とされる部屋を発見することができた。
それを下記の別ページに掲載した。
罪と罰巡り
罪と罰巡り余話
ラスコーリニコフの下宿探しの間にも、
一般商店(注8)に立ち寄り、
ロシア名物の「アイスクリーム」を食べたり、
街角の写真を撮ったりしながらしていたが、
やはり大通りのすぐ横丁に入ると、
いかにも老朽した建物とゴミゴミした様子が
見て取れるのであった。
<注8>
例によって、品物が入ったガラス戸の陳列ケースには
鍵が掛けられていて、品物を見定めた後、
お客は、レジ(カッサ)で料金を払いチケットを受け取り、
(日本のでいえば、レジの領収証ということ)
それを売り子に渡す。
すると、陳列ケースの鍵が開けられて、
はじめてお客は品物を受け取る。
このように書くといかにも面倒くさそうだが、
実際はそうでもないのだろう。
私たちのようなロシア語の分からない観光客に対しては、
結局、売り子がレジにいくらと料金を告げ、
私たちは、レジで料金を払い受け取った紙切れを
売り子に渡しながら、品物を受け取るというだけである。
表通りと裏通り
大通りの横町の貧しそうな界隈(裏町)では、
半地下式の住居の窓(道路と同じ高さ)から、
かわいい女の子二人が人形で遊んでいる姿もあったが、
失業者らしい半裸の男が、
窓から観光客の私たちに何やら罵声を浴びせるようなこともあった。
また、人通りの少ない運河沿いの歩道などには
<うんこ(人糞?)>もあった。
かくして、サンクトペテルブルグの表通り(表の顔)と、
裏通り(裏町)のコンストラストは、
結構大きいことが分かったのであった。
ところで、「表の顔」といえば、
サンクトペテルブルグの「新婚さん」たちは、
「デカブリスト広場」や「宮殿広場」などで
記念写真を撮りながら、友人たちに祝福されて、
新婚旅行に出かけるようだ。
そうしたカップルを何度か見たが、
モスクワでは「新婚カップル」の姿を
見かけなかった。
小都市と大都市の違いだろうか。
ともかく、ガイドさんの話では、
経済的に余裕のあるカップルは、
ロシア外のヨーロッパに旅行するという。
自由行動後
自由行動後の集合地点は「聖イサク寺院」前で、
私たちの着いた時間は何と集合時間前であった。
急ぎ足で歩けば、距離的に意外に近い。
そういうわけで、サンクトペテルブルグは、
ブラブラ1日歩いてみても良さそう。
昼食にはレストランで「ぺレメニ」、
中華料理の「水餃子」と同じでうまかった。
同席したパック旅行の「新婚カップル」とも話は弾み、
満足した自由行動であった。
ツァールスコエ・セロ
サンクトペテルブルグの郊外、
現在名「プーシキン」市、
かつての「ツァールスコエ・セロ」(皇帝の村)に、着いた。
ここは、市名が表すとおり、
プーシキンゆかりの地で彼の作品の多くはここで書かれ、
彼の家は「記念館」として公開されている。
そしてまた、ここは「皇帝の村」というように、
ツァーリの私的な別荘があった場所(領地)で、
17年革命の際、
ニコライ2世とその家族はここに避難しており、
革命後、
退位したニコライと彼ら家族はここに軟禁されていて、
やがてシベリアに送られて殺害された。
エカテリーナ宮殿
エカテリーナ2世の夏の離宮。
女傑エカテリーナは、無能な夫のピョートル3世を殺害、
自ら皇帝となったわけで、
ロシア帝国の発展については、
ピョートル大帝に次ぐ(あるいはそれを凌ぐ)
偉業を成し遂げた女帝という。
また、彼女はドイツ貴族の娘、ドイツ女であって、
ここからロシア・ロマノフ王家と
ドイツとの繋がりができているようだ。
トルストイの『戦争と平和』などの
ロシア文学の世界では、
ロシアは西欧のはずれにあり、
(あるいは、西欧とはいえない)
ロシア帝国(宮廷・貴族・知識人)にとっては、
フランス語が「優雅な日常語」であったはずだ。
しかしながら、縁戚関係では
ドイツの方が<縁が深い>(注9)ようだ。
ラストエンペラー・ニコライ2世の皇妃も
(怪僧ラスプーチンの虜になった)
ドイツ出身ということになる。
ともかく、この宮殿も、やはり素晴らしい。
「ロシア・バロック様式」というが、
宮殿の外観は、壁が青色で白い円柱とからなり、
ロシアの建物としては珍しく窓も多い。
その窓には緻密な彫刻が施されている。
また、なかには現在の技術では復元できないような
当時の技術が使われているものがという。
内部も、ロマノフ王朝の贅を尽くしたもので、
壁の金箔と、壁の間にある大鏡とからなる「金箔の間」は、
(中央広間で、日本の高校の体育館フロアーが二つ取れる広さがある)
今回の旅行で見たロシア宮殿の広間でも最大といえる。
また、日本史にも出てくる、
井上靖『おろしあ国酔夢譚』でおなじみの「大黒屋光太夫」が、
(エカテリーナの時代にロシアに漂着、やがて日本帰国を願った)
彼女に謁見したのがこの宮殿であった
。映画化に当たって数年前に日本からロケーションにやってきて、
撮影してい行ったという。
そのほか、『琥珀の間』があって、
内装全てが琥珀であったというが、
「レニングラード包囲戦」の時、
ドイツ軍が撤退した後には何もなく、
現在もここにあった琥珀は行方不明であるという。
サンクトペテルブルクの市名
<注釈9>
良く知られているように、
この「サンクト・ペテルブルグ」の市名はドイツ風だ。
(Санкт・Петербург)
市名は聖ペトロに、ピョートルを含ませて、
(ラテン語ではペトロ、英語でピーター)
<サンクト(聖)・ペテルブルグ>とされた。
意味は、「聖ペトロの町」ということになる。
ここから、ドイツ語では「ペテルスブルク」となるが、
(英語では「ピーターズバーグ」)
この「ブルク」(BURG=町・砦の意味)が
ドイツ風のところ(ブルクとブルグの発音の違いだけ)。
そこで、第1次大戦でロシアとドイツが開戦すると、
ドイツ風のペテルブルグの呼称を
「ペトログラード」に改めた。
「グラード」がロシア語で「町」の意味となる。
さらに、ロシア革命後は、
レーニンの名を取って「レニングラード」となり、
ソ連崩壊後、旧名の「サンクトペテルブルグ」に戻った
ということになる。
ソ連崩壊後は、モスクワでもサンクトペテルブルグでも
ロシア帝国時代の旧名に戻す動きが、
市名や街区名、通り・広場名など、いろいろある。
現在のロシアの復古ムードは、いかんともしがたいが、
ソ連型社会主義の失敗の後遺症ということだろう。
また、ロシア・ロマノフ王朝の紋章、
「双頭の鷲」が「ロシア連邦」の国旗となる日は近いかも知れない。
(実は、既に国章になっているようだ)
帰途
帰りは、サンクトペテルブルグから成田への直行便、
またまた、エアロフロートであったが、
機中何事もなくパイロットに腕は確かだと確信していたので安心して、
こうして、ロシアの旅は無事終了したのであった。
後日談としては、
例のロシアの金融危機(ドル・ルーブルの交換停止)が分かったり、
土産用に買った「ウオッカ」を職場の友人に渡したり、
「キャビアの缶詰」は、私の同行者(妻)がどこかに配ってしまった。
今回のロシア紀行を語ったりして過ごしたのであった。
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