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  サンクトペテルブルクの旅2
    ネヴァ川クルーズ~ペトロパヴロフスク要塞
    ~昼食~サンクトペテルブルク郊外
    ~ピョートル大帝の夏の宮殿
    ~バレー鑑賞

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    ペトロパヴロフスク要塞 
    サンクトペテルブルク郊外
    ピョートル大帝の夏の宮殿
    バレー鑑賞

 市内観光2日目

 

 再び、ホテルの裏手のフィンランド湾に面した海岸に行って、
 潮の香りと海面の波の動きを見ながら、
 ここからバルト海へ抜ける、船団などを想像して過ごした。
 海岸といっても当然護岸されていて砂浜はない。
 遠くかすかに陸影も見える。
 相変わらず、風もあり、
 日本でいえば秋ぐらいの気候のロシアでは、
 さすが海水浴客はいないようだ。
 この穏やかな海面も、冬には凍結するのかどうか、
 冬のフィンランド湾とバルト海は、
 全く違った様相を見せるのだろうか。


 ネヴァ川クルーズ

 ネヴァ川の河岸にある観光名所をほぼ見ることができる、
 ネヴァ川の両岸を結ぶ「シュミット中尉橋」と
 「リチェイヌイ橋」の間、
 その両橋の内側には
 ペトロパヴロフスク要塞を挟んだ形で
 同様に両岸を結ぶ「宮殿橋」と
 「トロイツキー橋」があり、
 この4つの橋の間の両岸に立ち並ぶ名所巡りをする。

 なお、リチェイヌイ橋を渡った右岸には、
 11月革命に際して、
 ドイツの封印列車を利用してロシアに帰国した
 レーニンら一行が到着した「フィンランド駅」がある。

 ネヴァ川の両岸には、
 それぞれ名前が付けられた河岸通りがあり、
 例えば、
 ヴァシリエフスキー島の河岸には「大学河岸通り」と名付けられ、
 美術アカデミーや科学アカデミー、
 その奥にサンクトペテルスブルグ大学があり、
 河岸にはエジプトから持ってこられたスフィンクス像がある。

 さらに、ネヴァ川に臨むエルミタージュ美術館(冬宮)の薄緑の壁や、
 イサク寺院の金色に輝く円屋根、その他の建物や公園の木立など、
 ネヴァ川左岸の景観はなかなか良い。

 そこには、戦艦オーロラ号が係留されている。
 オーロラ号は、
 かつて11月革命の合図となった砲声をとどろかせた。
 もともと、バルチック艦隊に所属し、
 日本海海戦で被弾し損傷を受けたこともある
 現在は、復元(本物はもう廃船)され、
 係留されて博物館になっている。
 ただ、現在の軍艦の規模としては駆逐艦ぐらいか。


 そして、もちろん、ペトロパヴロフスク要塞がある。


 ペトロパヴロフスク要塞

 ネヴァ川クルーズ後、ペトロパヴロフスク要塞見学。
 サンクトペテルブルグの発祥は、
 この要塞建設から始まった。
 ピョートル自ら陣頭指揮に立ってこの要塞をつくり、
 バルト海の覇権を確保するため海港都市を建設した。
 この要塞自体は<兎島>という名の
 小さな島全体を要塞化したもの。

 要塞の中には、ペトロパヴロフスク聖堂があり、
 この聖堂は、
 ピョートル大帝など歴代の皇帝が埋葬されていて、
 ロシア皇帝の聖堂でもあって、内部装飾も見事なもの。
 また付属の尖塔は高さ121m強と市内一の高さで、
 そばから見上げるとめまいがしそう。

 また、造幣局もあって、現在も活動中で、
 ロシアのコイン類はここで製作されているという。
 
 要塞内には<監獄>もあった。
 この監獄は帝政時代には政治犯を収容した。
 例のデカブリストレーニンの兄ウリャーノフ、
 ドストエフスキーもこの監獄に閉じこめられたわけで、
 死刑の執行が決まった政治犯は、
 要塞のネヴァ川に面した船着き場から死刑場に送られたという。
 現在もこの船着き場がある。
 ただし、今は、この監獄跡も観光場所となっているようだ。

 また、この要塞には
 ピョートルの椅子に腰掛けた「等身大の彫像」もあった。
 この彫像は、妙なことに、いやに頭が小さく手足が長い
 いかにもアンバランスなもので、
 この像が実際のピョートル大帝であるとすると、
 彼は2mを超える身長の割には
 <小頭の怪人物>ということになる。


 ロシアの昼食

 また、要塞内には、レストランもあり、
 ここで「ストロガロフ」を食べた。
 「ストロガロフ」といっても、
 要するに、牛肉をホワイトソースで味付けして焼いたものと、
 (「スメタナ(サワークリーム)」や生クリームなど)
 ほかにポテトや野菜を添えているもので、
 日本でいえば単なる「牛肉野菜料理」というほかないが、
 これはやはり伝統的なロシア家庭料理で、
 スメタナを調味料として使用する一品といえる。
 また、レストラン「アウステリア」は、
 ロマノフ王朝風の装飾を演出していた。

 日本と比べてロシアの昼食は重い。
 といっても、食べきれないということでなく
 <夕食としてもいい>という意味。
 ロシアでは、夕食より昼食の方がメインであるという。
 考えてみれば、労働する日中のエネルギー源補給としては
 昼食がメインとなるはずで極当たり前のことだろう。
 むしろ、日本の食習慣方が不思議といえるが、
 歴史的にいって日本では
 昼食から夕食へ比重が高まった時期は何時なのだろうか。
 また、かつては二食で済ませていた時代がある。
 食習慣についても各時代・各地域の異なりがあって、
 それなりの意義をつかむことは面白い。


 サンクトペテルブルグ郊外

 ピョートル大帝「夏の宮殿」に向かうバスの中で、
 郊外の様子を見ることができた。
 市街をはずれる途中、
 勤労者向けアパート群がいくつか見られた。
 ロシア人ガイドさんによれば、
 サンクトペテルブルグの人口400万人中、
 年金生活者の割合が高く、
 むしろ人口の目減りによって都市としての発展は低下している
 というのが現状だそうだ。

 若者はモスクワに出るという一点集中型の現象が、
 (かつて、あるいは今も日本にある)
 現在のロシアにも現れているらしい。

 また、「夏の宮殿」に向かう
 道路に沿って展開する風景といえば、
 かつて貴族の別荘地が立ち並んでいたという。
 現在もその名残のいくつかの邸宅が保存されていて、
 白樺などの木立が多く、別荘地の趣がある。

 そうこうするうちに、
 バスが走っている間に気づいてみると、
 100mぐらいの間隔で警官が立っている。
 何かあるなと思っていると、
 ちょうどこの日にベトナム大統領が訪ロ中で、
 「夏の宮殿」見学にやってきたということだった。
 ただし、大統領はこの道路を通ったのではなく、
 船で、フィンランド湾に面した
 「夏の宮殿」の船着き場に到着したようだ。
 その影響らしく、
 帰りのサンクトペテルブルグ市内の交通は
 いつもよりだいぶ渋滞していた。


 ピョートル大帝の夏の宮殿

 サンクトベテルブルグ市内にも「夏の宮殿」がある。
 市内のものは、ピョートル大帝が
 サンクトペテルブルグの建設中に住んでいた
 「ピョートルの小屋」。
 (ピョートルはこの丸太小屋から陣頭指揮していたようだ)

 サンクトペテルブルグ市内の「夏宮」と違って、
 ここは、「夏の離宮」(別荘)として
 1714年に郊外に建設が始められた。
 そして、現在の大規模なこの「夏の宮殿」は、
 (「ペトロドヴァリェツ」、「ピョートルの宮殿」の意味)
 ピョートルの、フランス・ブルボン王朝の「ヴェルサイユ宮殿」に
 <匹敵するもの>を、という意思の結果のようだ。

 この「夏の宮殿」はフィンランド湾に面した
 だんだん高くなるテラス状の丘を利用して作られ、
 「大宮殿」を中心にして上下の庭園に分かれている。
 フィンランド湾に連なる「下の庭園」は様々な噴水と彫刻で彩られ、
 「上の庭園」はそれこそ庭園風であり、このコントラストはいい。
 また、「大宮殿」は、明るい黄色の壁(「皇帝の色」)と
 屋根の両端の金色の「クーポル」で印象的。
 内部装飾や各部屋の調度品に見るべきものが多々ある。


 しかし、それよりむしろ驚くのは、
 この宮殿もナチス・ドイツの「レニングラード包囲戦」(注釈7)で
 焼き払われという事実と、1958年までに復旧されたという事実。
 前に書いたが、社会主義ソ連だったから可能になったのか、
 あるいはロシア人的意欲からか(おそらく両方ともにあるのだろう)、
 いずれにしても、
 「復元・修復」意欲はかなりのものがあると、私には思える。
 もちろん、ドイツ軍侵攻の前に、
 いち早く、ロシアの多くの美術品や貴重な文化財は、
 シベリアに<疎開>(注釈8)されていた。
 しかし、宮殿のような建築物は疎開するわけにはいかないし、
 とにかく
 「それがあったとおりに復元修復する」という意欲は驚きである。。


 <注釈7>
 レニングラード包囲戦はすさまじい攻防戦であったようだ。
 レニングラード包囲は、900日に及び、
 ナチス・ドイツ軍によって郊外は占領され、市街の大半が破壊された。
 そして、100万人に及ぶ犠牲者、
 そのうち何と40万人は餓死という悲惨なものであった。

 これを何と、復元・修復した結果、
 現在のサンクトペテルブルグがあるというわけで、
 まさに驚くべきことというよりほかない。
 日本では、関東大震災の例に見られるように、
 あるいは敗戦後の東京のように、
 復元・修復より先に焼け跡を新たな作り直す、
 <焼け太りの都市>東京となったわけである。

 <注釈8>
 ヨーロッパの戦争は、裏面でいえば、
 お互い同士、美術品やら文化財、
 あるいは金銀の奪い合いという側面がある。
 また、海外遠征にしても、
 有名なナポレオンの「エジプト遠征」もそうであったように。
 かくして、大英博物館・ルーブル美術館などの現在がある。


 バレー鑑賞

 日本でもしないクラシック・バレーの鑑賞。
 本場のバレーを1度見ておこうかという
 安易な興味でしかないのだが、
 有名なチャイコフスキー、「白鳥の湖」であった。
 劇場は、「アレクサンドリンスキー劇場」で、
 ロシアでも最も古い劇場の一つであるという。
 内部は、オペラの上演などで
 ヨーロッパの映画に良く出てくるような劇場模様で、
 確かに「本場の劇場」の雰囲気がある。
 事前にある程度のストーリーは分かっていたが、
 最後の場面は何か急テンポで終わってしまった感じであった。

 ホテルに帰り、
 いよいよ明日の夕方には
 今回のロシア旅行も終わりとなるので、
 ホテルのレストランで例の土産用の「キャビアの缶詰」を買い込み、
 帰りの準備をし、また、明日午前中の自由行動の計画を立てた。
 それは、『罪と罰』「ラスコーリニコフの下宿探し」とした。



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