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スペインの旅2
・・スペイン・ポルトガル旅行2
ラ・マンチャ地方~エル・トポソ
~プエルト・ラピセ
~カンポ・デ・クリプターナ
~コンスエグラ~グラナダ市内
~アルハンブラ宮殿~アルバイシン
~サクロモンテ
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①グラナダ ②グラナダ市内
③アルハンブラ宮殿
④アルバイシン
ラ・マンチャ地方
トレドを後にして、
アランフェスに立ち寄れなかったが、
次ぎのグラナダへ向かう途上に、
ラ・マンチャ地方が広がる。
ラ・マンチャといえば、
ドン・キ・ホーテにつきる。
セルバンテスの傑作の主人公、
だが実を言えば、私はこの原作は読んでいない、
というより途中で投げ出している。
ラ・マンチャ地方は、
何かスペインでも
取り残されたような地方である。
乾いた大地と荒涼とした景観の中に、
ポツン、ポツンと小さな町がある。
マドリッドからトレド、
トレドからラ・マンチャへと
バスから見る様子は、日本とちがう。
一番は、日本であれば、
道路沿いに途切れることなく家々が立ち並び、
あんな山の方にも住宅地があるという
いつも見慣れた風景であるが、
スペインでは町を離れると<何もない>。
あるのはPR用の看板、たまに工場らしきもの。
要するに、
町は<陸の孤島>になっているような感じがする。
特に、ラ・マンチャはそれが著しい。
スペイン名物のオリーブ園やブドウ畑なども
見あたらず(見えなかった?)、
どこまでも道が続き、
はっとすると小さな町に着く感じ。
エル・トポソ
ドン・キ・ホーテの
恋人ドゥルシネア姫が住んでいた
という<白壁の>小さな町。
スペインで目につく白壁の町並みは、
夏の日差しを反射させるためらしい。
また、家の窓は小さく、閉めきっている。
夏の暑気を避ける工夫のようだ。
プエルト・ラピセ
セルバンテスが何度も泊まったことがある
「旅籠屋」がある。
今は、レストランになっているが、
ここで小休止してついでに見学した。
葡萄酒作りの道具や大きな樽があっただけだが、
いかにもかつての旅館であった様子は分かった。
このとき、前に書いた、
アルジェリア難民らしき<物乞いの若者>に出会った。
彼は何かいいながら手を差し出しただけであるが。
カンポ・デ・クリプターナ
列車で行ける、唯一風車のある村、だそうだ。
私たちは、バス旅行のおかげで難なくやって来た。
ドン・キ・ホーテは、
この風車群を巨人ブリアレオと見間違えて、
槍を小脇に、愛馬ロシナンテにまたがって突進した。
彼を跳ね飛ばしたという風車が現在もある。
また、見学用に中に登れる風車もある。
風車群のあるこの丘に立つと、
周囲の荒涼とした風景は、印象深い。
(特に今回は冬の旅であったので)
360度地平線の見える風景は
日本では及びも付かないであろう。
日本では北海道の雄大な自然の広がりに
感動する(私も経験した)が、
北海道では山に遮られて
まず360度の地平線は無理。
北海道の自然の豊かさに比して、
この漠とした広がりと
むしろ「自然の貧しさ」という景観にも、
驚きを感じる。
コンスエグラ
ラ・マンチャ地方で
比較的大きな町(それでも8千人ほど)。
丘の上の風車がきれいに並んでいる。
ラ・マンチャ地方の風車は
1560年代ごろから作られたという。
粉ひき用であったが、
高原地帯のラ・マンチャでは有用であったのだろう。
グラナダ
ラ・マンチャからグラナダへ、
一路、南に降っていくバスは、
アンダルシア地方に入った。
アンダルシア地方は、
スペインの南の地方、地中海に臨み、
温暖な気候は、陽気なスペイン人の典型、
アンダルシア人を生み出した。
「闘牛」、「フラメンコ」、
情熱的なカルメンの祖国スペインそのものと、
私のようなお上りさん的な旅行者にとって、
あこがれの地である。
檀一雄など日本人作家や、
何年間かスペインに住み着いた人たちがいる。
また、スペイン人にも年金生活になったら、
この地の地中海沿いの村などに
住みたいという人々が多いという。
(私も、そうしようかな)
歴史的には、アンダルシア地方は、地中海を挟んで
古代から北アフリカと密接な関係がある。
また、中世には、
イスラム勢力がイベリア半島に侵攻するが、
レコンキスタでイベリア半島から追われるまで、
この地方を数世紀の間、定着・支配し、
このアンダルシア地方をその拠点としていた。
この間に、スペインの地は、
イスラム文化圏として文化的繁栄を遂げ、
ヨーロッパのキリスト教文化圏に多大な影響を与えた。
夕方頃、グラナダに着いてみると、
スキーを担いだ何組もの人々を見た。
何でこんな南に、と不思議であったが、
グラナダの南にはシェラ・ネバダ山脈があって、
そこにはヨーロッパ最南端のスキー場
「ソリニエベ」(太陽と雪)があるという。
また、山脈からわき出る天然水は
おいしくて人気がある、という。
スペインの料理
宿について荷物を下ろした一行は、
「オムレツディナー」を食べにレストランに向かった。
「オムレツ」と言えば、
日本では、タマネギと豚コマ他、と定番になっているが、
スペインではジャガイモとタマネギで作る
「スペイン・オムレツ」のほか、
(トルティーリア・エスパニョラ)
ピーマン、トマト、ハムを入れた
「ムルシア風オムレツ」や、
塩鱈を塩抜きして入れる「鱈入りオムレツ」、
ほかに、「鰯のオムレツ」などいろいろらしい。
魚と卵の取り合わせというのは
日本では余り聞かないだろう。
このとき、何を食べたか私は忘れた。
スペイン料理のベースは
オリーブ油とニンニクだそうだが、
案外、口にあってうまかった。
ただ、どこかで出た
「魚のスープ」(ソパ・デ・ペスカード)
だけは、何とも生臭くダメだった。
グラナダ市内
朝食後、出発前の時間に、町に出た。
目的は、水を買うこと。
こんなことは日本では考えられないが、
水がワインより高い?国である。
よく知られるようにヨーロッパの水は
アルカリ分が強く、飲料水に適していないらしい。
そこで、
旅行前に何かと注意されていたことを忠実に守り、
蒸留水を飲んでいたのである。
これにも炭酸入りとないものがあり、
求めるのは炭酸が入っていないもの、
「ノン・ガス」とか「アクア・ミネラル」という。
ホテルやレストランの食事でも、それを忠実に守って、
私の同行者は常に水の補給を気に掛けていた。
ホテルより町の「バル」で買った方が
はるかに安いというので、
早朝に出かけたのであった。
「バル」というのは、
要するにバーという意味だが、
スペインでは喫茶店兼飲み屋兼軽食堂
またはコンビニといった感じであり、
気軽に入ることができる。
そこで、
ホテル近くで見つけた「バル」に入って
ノン・ガスの水を買った。
店には、すでにお客がいて、
珍しげにわれわれを眺めている。
われわれはここでは外人、
特に東洋のチャイナかヤポンか。
そこで、
目的の水を多めに買いそのまま店を出たが、
それだけでは物足りないので
町を散歩することにした。
地図でちょうど近くに、
「ガルシア・ロルカの記念館」があるので、
(ロルカの家)
そこを目指したが、よく分からずいると、
犬をつれて散歩している婦人に出会い、
何とか方向を教えてもらったのであった。
そこは公園になっていて、他の人はいなかった。
しばらくベンチに座り
早朝のスペインの空気を吸い込んで、
ホテルを地図で探しながら、帰った。
アルハンブラ宮殿
グラナダは、レコンキスタに追われた
イベリア半島最後のイスラム王国の首都であった。
このグラナダ王国の繁栄と終末を象徴するのが、
このアルハンブラ宮殿である。
「グラダナスの門」を入り、
(グラナダとは「ザクロ」のこと)
アルハンブラの森を歩くこと5分、
宮殿最初の門、「裁きの門」に出る。
馬蹄形アーチの上部には
コーランの五戒を表す5本の指が彫られている。
広場を過ぎると、
「王宮」(カサ・レアル)に着く。
中にはいると、
「メスアールの宮殿」、「アラヤネスの庭」、
「コマレスの塔」と続く。
この塔は、かつての城塞で、
この中の「大使の間」のベランダから、
サクロモンテやアルバイシンが一望できる。
こうして見て回ると、王国盛時の面影、
イスラム特有の彫刻や彫金の
細密な模様、装飾に圧倒される。
さらに行くと、
有名な「ライオンの庭」に出る。
この庭を中庭とした宮殿が
王のハーレムで、
王以外の男にとっては禁断の場所。
この中庭に面して三つの部屋があり、
東に「王の間」、
また、南に「アベンセラッヘスの間」、
この部屋の名の由来は、アベンセラッヘス家の者が、
ハーレムの女性に手を出し、首をはねられ、
その首から流れた血が、
部屋の中央にある噴水から
ライオンの庭の噴水まで流れたということ。
よく見ると、三つの部屋には、
ライオンの庭の噴水の池に通じている溝がある。
宮殿の水は、遠くシェラ・ネバダ山脈の流水が
巧みに利用されているという。
なお、アルハンブラ宮殿内には、
グラナダ王国滅亡のレコンキスタ完了後に建てられた
「カルロス5世宮殿」が残っているが、
何ともイスラムの色彩の強い宮殿の雰囲気に
マッチしないものである。
フェネラリーフェ庭園
アルハンブラ宮殿の隣にある。
王の夏の別荘があり、広いイスラム式の庭園。
静かで気持ちがよいところという。
(観光客が多すぎて実感はわかなかった)
アルバイシン
グラナダで最も古い地区という。
白壁の家が建ち並び、
現在その景観は保護されている。
レコンスキタによるグラナダ陥落の際、
アベン・ユメヤに指揮された
アラブ人の最後の抵抗拠点となり、
その白壁と石畳は夥しい流血に染められたという。
サクロモンテ
山(丘?)の中腹に、家が建ち並ぶ。
よく見ると、家の玄関口だけが姿を見せ、
居住地域は中にある。
これがジプシーの<洞窟住居>である。
ジプシー(ヒターノ)の一部(ロマ族)は、
イスラム時代に
こうしてサクロモンテの丘に定住を許され、
定住ジプシーとなったという。
このロマ族が、ジプシーの踊りを、
フラメンコとして作り上げたという。
現在は、
このクエバ(洞窟)内で
フラメンコを見せる店もある。
洞窟住居は、夏涼しく冬暖かいらしい。
ところで、ジプシーといえば、
アルハンブラ宮殿の見学後、
駐車場付近の土産物店などに立ち寄って
バスで出発しようという頃、
ジプシーの男女が、
レースのテーブル掛けや何やらを売りに
バスの周りにまとわり、
口々に「……円」、「……ペセタ」と、
レースの品物の値段をバスに呼びかけていた。
いかにもジプシーの民族衣装で、
初めて実物のジプシーの人々を見た私は、
それだけで感動したわけだが、
突然、警官がジープで乗り付け
彼らを追い払っていたのは逆に驚きであった。
正式な営業許可を取っていない、
ということだろうが、
彼らも追い払われながら何か警官に叫んでいた。
警官がジープで行ってしまうと、
またバスに近寄り彼らは物売りに励んでいた。
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