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ルビャンカ広場~ロシア連邦議会ビル(ホワイトハウス)
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ロシア連邦議会ビル ゴルバチョフとエリツィン
ノヴォーデヴィッチ修道院 赤の広場
モスクワ郊外へ チャイコフスキー博物館
観劇
市内観光1日目
ホテル・コスモスからノヴォデーヴィッチ修道院まで、
モスクワのほぼ北から南西寄りの方向へバスで
縦断することになった。
途中、いろいろな通りを通っているが、記憶が定かでない。
モスクワの中心地は、
クレムリンを中心にした二重の環状道路からなっているようだ。
旧ソ連時代には、この中心部は、内務省とKGBの管轄地域で、
最も警戒厳重な地域であったようだ。
ルビャンカ広場
KGB(ロシア語では、КГБ(カー・ゲー・ベー))の本部のある
ルビャンカ広場を通った。この広場は、思ったより広くない。
ソ連崩壊の時、
広場にあったジョルジンスキーの銅像が倒される様子を
テレビ映像で見たが、そのときの映像から
この広場はもっと広いと感じていたのだが。
KGB本部は現在もなおロシアの諜報機関の建物のようだ。
窓もカーテンがかかり、入口も閉ざされてるというが、
意外にも、建物を隔てるような鉄柵などもなく、
全く普通の建物として道路に面して
「何事もない」という風情で立っている。
かつて、例えば、
ソルジェニツィンの『収容所列島』で語られた、
ルビャンカ収容所などの記憶は、
全くなかったのかのように。
ロシア連邦議会ビル(ホワイトハウス)
クトゥーゾフ大通り(注2)のカリーニン橋沿いの
モスクワ川を挟んだ向かい側に、
ロシアの「ホワイトハウス」がある。
ところで、このクトゥーゾフ通りには、
かつての共産党や政府の要人がたくさん住んでいて、
この通りの中央、対向2車線分(全部で4車線)は、
通称「ジル通り」といって、この通称は、
かつての共産党政治局員や政府要人たちが
高級リムジンに乗って、朝夕、猛烈なスピードで
クレムリンを行き来したことから由来する。
彼らの前には交通規則も何もなかったというわけ。
かのアンドロポフ書記長は
26番地のアパートに住んでいて、
それを示すブロンズの板もあるらしい。
<注2>
クトゥーゾフ大通り
この通りの名は、
かのナポレオンのロシア遠征を迎え撃った、
クトゥーゾフ将軍から由来する。
モスクワ川が蛇行するモスクワ市の西側にあって、
カリーニン橋を境にして、
(この橋の名もロシア革命時の人物、カリーニンから由来)
東側は「新アルバート通り」で、
この通りが現在のモスクワの中心的な繁華街となっている。
このクトゥーゾフ通りの西に、
ナポレオンを破った戦勝記念の凱旋門や
「ボロジノ会戦パノラマ館」がある。
ところで、このホワイトハウスは、
91年夏の保守派のクーデタ(あっけなく潰れた)の時、
現大統領エリツィンら改革派がたてこもり、
カリーニン橋から戦車が「ホワイトハウス」を砲撃し、
また、戦車隊を阻止しようとした若者が犠牲となった場所であった。
(現在も追悼の花束が置かれていた)
その後、改革派内のエリツィンの独裁的手法に対立した
反エリツィン・グループがたてこもり、敗北した。
<ゴルバチョフとエリツィン>
ここで、横路に逸れるが、
ゴルバチョフとエリツィンの関係について述べておこう。
現在(98年)のエリツィンは、ロシア民衆には不人気で、
ホワイトハウスに立てこもった当時の面影もないという。
また、かつてのエリツィンの好敵手、
ゴルバチョフもほとんど忘れられた存在であるようだ。
ゴルバチョフは、共産党書記長としてソ連の改革に乗り出し、
ペレストロイカ(改革)・グラスノスチ(情報公開)、
また、<新思考外交>を展開して、
米ソ冷戦の終結を果たし、
国際的に高く評価される業績を残した。
しかし、国内的には改革は中途半端で、
所詮、「上からの改革」でしかなく、
ロシア民衆の支持はなかったようだ。
最後は、彼を支えた改革派に代えて保守派を登用した結果、
保守派による「宮廷クーデタ」が起こり、
ゴルバチョフがそれまで見向きもしなかった、
エリツィンらの「ロシア連邦」を拠点とした
改革派に救出されるしかなかった。
そこで、彼の命脈もつきたということだろう。
それでも、現在、ゴルバチョフは、
前大統領として処遇され、
彼の財団を活動の拠点としているようで、
その大きな建物もバスの中から見た。
ゴルバチョフもエリツィンも、
かつては独裁者ブレジネフ書記長に見込まれた共産党幹部。
ゴルバチョフが出世の頂点(書記長)に立った頃(85年)には、
エリツィンはモスクワ市党委員会から失脚して
追放状態にあったが、改革派として党外から人望を集めていた。
やがてゴルバチョフのペレストロイカ路線による
共産党一党独裁の廃止・大統領制導入などに乗って、
ロシア連邦を基盤にエリツィンは復活する。
ロシア連邦大統領となったエリツィンは、
ソ連邦大統領ゴルバチョフに対抗する権力を得て、
さらに、例の保守派の「宮廷クーデタ」(91年)によって
ゴルバチョフが保養地で監禁され、
モスクワに戦車師団が出動すると、
ホワイトハウスに立てこもって抵抗した。
保守派のクーデタがあっけなく崩壊し、
ゴルバチョフが救出されると、
エリツィンとゴルバチョフの立場は逆転し、
その後、ソ連共産党解体、
ソ連邦の崩壊(91年末)となるのである。
ノヴォデーヴィッチ修道院
元は、クレムリンの出城として、
モスクワ川の畔に建てられた。
タタールやリトアニア軍との攻防で知られる。
その後、女子修道院となり、
皇帝の寵愛を失った不遇な后妃が
閉じこめらるようなこともあったという。
現在のたたずまいは、
周囲の木々に守られて、ひっそりとした感じがある。
ここは、修道院のきれいなたたずまいを見ながら、
静かさの中で散策するにはもってこいの場所。
私たちバスの一行が着くと、犬を放して遊ぶ親子もいた。
土産物売りもいたが、彼らも、静かであった。
また、付属の墓地には、有名人の墓がある。
ゴーゴリー、チェーホフ、マヤコフスキー、
スタニフラフスキー、ショスターコヴィッチ、
シャリャーピンなど。
さらに、
クレムリンの城壁に
遺骨・遺灰を埋めてもらえなかったフルシチョフ…
ヴァラビヨーヴィの丘
旧名、レーニン丘。92年に、元の「雀が丘」に戻った。
ここからモスクワ市内が一望できる。
また、ロシアの新婚カップルが、
結婚式後に記念撮影をする場所らしい。
残念ながら、私たちパック旅行一行が着いたときには
ちょうど雨が降っていて、
それらしいカップルはいなかった。
この丘の展望台からは、モスクワ大学が見える。
また、横手に何とスキーのジャンプ台もある。
冬季にはここでジャンプ競技も行われる。
モスクワ大学は、もちろん、
旧ソ連そして現ロシアの最高学府であるが、
ゴチック建築を模倣した
「スターリン建築様式」(注3)の
中央校舎がこの展望台から見える。
また、モスクワ川対岸には、
「ルージニキ・大スポーツアリーナ」があり、
(10万人以上収容、
モスクワ・オリンピックのメインスタジアム)
モスクワ大学と同じ
スターリン建築様式の「ウクライナ・ホテル」や
先ほど見学したノヴォーデヴィッチ修道院の
鐘楼や金色のドームが見える。
ヴァラビヨーヴィの丘から、赤の広場へ向かうバスの中で、
例えば、トルストイの家(現在、博物館)のある通りなどを見ながら
モスクワ市内の様子を見て回ったのであった。
その中で、どこであったか思い出せないが、
(ルージニキ・アリーナの隣?)
モスクワの<自由市場>の様子をバスの中から見た。
車が所狭しと駐車し、人の波で混雑していた。
女性ガイドによれば、
とにかく、自由市場は通常の3分の1程度の値段で売買されるので、
1日1回は、モスクワっ子は自由市場で買い物をするという。
確かに、この賑わいならば、モスクワ第1のこの自由市場には、
1日でモスクワっ子の3分の1は来るに違いないと思った。
<注3>
スターリン建築様式
この名は、当然、独裁者スターリンの名から由来する。
これは、ゴチック建築をまねた、
中央の尖塔を持った高い建物と、
(モスクワ大学が1番高く、240m、30階建て)、
それをつなぐやはり尖塔のある建物(モスクワ大学では17階建て)からなる。
スターリンによる社会主義ソ連の宣伝と
彼個人の偉業を誇るために建てられたもので、
モスクワに7つ建築された。
赤の広場(クラースナヤ・プローシャチ)
「ここがかの有名な赤の広場か」と、
私は何となくため息が出たのであった。
ソ連社会主義の象徴がクレムリンであり、
赤の広場(注4)であったことは、言わずもがなである。
いつだったか、ドイツの青年が
この赤の広場に飛行機で着陸したこともあったが、
(実は、赤の広場中央よりはずれた、
モスクヴァレツキー橋付近であったらしい)
この事件は国際的なビッグニュースとして当時報道された。
それにしても、
警戒厳重なはずのソ連社会主義のど真ん中であって、
その後のソ連の凋落を象徴する出来事であったのか?
とにかく、私はこの広場に立ち、
周囲のレーニン廟・クレムリンや
聖ワシリー聖堂、グム百貨店を見ながら、
何となく違和感も感じたのであった。
それは、広場の石畳を踏みながら、
かつてここで、ソ連のメーデーや革命記念日の式典が
行われていたという印象と、
(もちろん私にとってテレビなどの映像でしかないが)、
実際に目にしたそれとの違いが明らかであったから、と思う。
ここで行われた、ミサイルなどの軍事パレードや、
ピオニール・労働者などの行列・行進。
また、レーニン廟の上のお立ち台に立った
党や政府要人の序列の話題など、
第2次大戦後の冷戦時代の「ソ連社会主義」という魔力は、
雨上がりの日差しの中で消え失せてしまっていた。
西側のマッカーシズム(赤狩り)の宣伝系列に沿った
映画(「007」など)や、スパイ小説の世界で描かれた
「クレムリンの悪魔・陰謀」は、雨散霧消していた。
また、そうした幻影が消失すると、
意外に<赤の広場は狭い>という印象が残った。
聖ワシリー聖堂と国立歴史博物館とがつくる縦、
グム百貨店とレーニン廟との横、
これはざっと見てせいぜい400m×150mぐらいか?
また、「赤の広場」には、処刑台の跡が残っている。
「ロブノエ・メスト」というが、
現在周囲を石柵で囲まれた円形の台がある。
これはもともとクレムリンの皇帝からの布告を
読み上げる場所でもあって、
重罪犯罪者の判決と処刑もここで行われた。
日本でも知られるロシア民謡
「ステンカ・ラージンの歌」の主人公、
農民反乱の指導者、ステパン・ラージンが
処刑されたのもここである。
<注4>
「赤の広場」というと、
社会主義の「赤」、労働運動の「赤」をイメージするが、
もともと「クラースナヤ」とは、
「美しい」という意味の形容詞で、
ロシア語で「赤い」と「美しい」とは、同義語であるという。
「赤の広場」と呼ばれるのは17世紀からで、
その前は、
15世紀頃には「キタイ・ゴーラット」呼ばれていた地区で、
(現在もメトロの駅名として残っている)で、
商人たちの露天が開かれ、活発な商業活動が行われていたという。
ここを<美しく>模様替えしたということから、
この名が生じたという。
聖ワシリー聖堂(寺院)
ロシアの観光写真で必ず出てくる「ネギ坊主」の寺院。
この聖堂については、リンク先のページを参照。
聖ワシリー聖堂ヘのリンク
モスクワ郊外へ
赤の広場付近のレストランで
昼食に「キャビア料理」をとった後、
モスクワ郊外にあるチャイコフスキー博物館に向かった。
昼食は、有名なロシアの「キャビア」料理であったが、
格別なことは思い出さない。
もともと、キャビアは必ずしも日本人にとっては、
そんなに目に色を変えるほどのものではないと思う。
「タラコ」や「スジコ」に慣れた私たちにとって、
キャビアがいかほどのものであろうか、ということ。
チャイコフスキー博物館は、
モスクワからバスで2時間ほどかかる。
この間に、モスクワ郊外の様子を見ることができた。
前回のスペイン・ポルトガル旅行でも同じ印象だが、
ヨーロッパの都市は、
煉瓦やブロック、あるいはコンクリート造りの、
いわゆる「石造建築物」でできあがっており、
日本でば「築10年」といえば
「中古物件」という相場に対して、
ヨーロッパでは「100年単位の物差し」なのかと思う。
そして、金持ち・資産家は、
(ヨーロッパでは、いまだ貴族階級が存在する)
都市郊外に広大な邸宅を構えいるが、
一般の中産階層以下の庶民は、
石造建築物の「アパート」で生活しているようだ。
そして、その国の豊かさに応じて、
中産階層でも、郊外や田舎に別荘を持ち、
週末や長い休暇(夏休みは1ヶ月以上!)を
そこで過ごすということらしい。
ダーチャ
ロシア・モスクワ市民も同様に、
モスクワ郊外に別荘(ダーチャ)を持ち、
週末や休みにここで過ごすようだ。
ただし、政府要人の「高級別荘地」とちがって、
別荘といっても、
むしろ小さなバンガロー風の木の家と家庭菜園からなるようだ。
チャイコフスキー博物館への往復で
バスの中から見たものは、そうした感じであった。
また、モスクワ郊外の農家も木造の粗末な造りであった。
道路沿いには、取れた野菜や果物類を並べて直販する光景もあった。
そこに売る人が見あたらないので、
こうした郊外では<かっぱらい>の心配はないらしい。
道路事情
郊外では車道だけが舗装されており、道路は埃が多い。
そのせいか、モスクワ市内を走る
乗用車・バス・貨物自動車なども、埃にまみれている。
前回のスペイン・ポルトガル旅行でも感じたことだが、
特に一般の乗用車は、ほとんど洗車していない様で、
日本の<きれい好き>な状態からは想像も付かない。
ただ、モスクワ郊外の道路事情から見ると、
おそらく洗車してもすぐ埃まみれになるからだろう。
また、モスクワ市内でも、
一般の乗用車で大型はほとんど見かけなかった。
ロシアの国産車(ジル他)が8割以上で、
新車らしきものもほとんど見かけない。
日本でいうと、とっくに<車検切れの車>が
走り回っているようだ。
チャイコフスキー博物館
特別に目新しいものはなかった。
ただ、モスクワ郊外にある(現在はクリン市)このあたりは、
当時の、白樺や針葉樹の深い木立に囲まれた
貴族の邸宅があったような雰囲気が現在も残っている。
チャイコフスキーの小コンサートホールのある建物(カッサ)から、
さらに奥に彼が晩年を過ごした「2階建ての家」がある。
ここから彼は当時の首都ペテルブルグへ馬車に乗って通っていた。
この家にはいるとき、おもしろいことに、
ロシア式の古風?な入場の方法を体験した。
日本では靴を脱いでスリッパ等に履き替えるのだが、
ここでは靴を履いたままその上に
布製の草鞋(日本風に表現すると)を履く。
これはごく単純なことだが、結構面倒くさく、
また、見物中に途中で脱げそうになるなど意外に難儀なもので、
やはり「古風」と言えると思う。
別の時にもこれを体験したが、
もともと「靴を脱がない習慣」(注5)?のヨーロッパでは、
この方法も有効なのだろう。
靴を脱ぐことは、不意の敵の襲撃に対して、
ある意味では弱点をさらけ出すことになるのだから。
女学生風な博物館のガイドさんの話を聞きながら、
きれいに整頓された各部屋を見て回った。
有名な『悲愴』を書いた小部屋など。
ただ書斎兼応接間の中心の部屋で、
周囲の壁一面に家族や親類の写真や友人たちの写真やらが
掲げられているのを見て、異様な感じがして、
(チャイコフスキー・ファンの人には失礼と思うが)
それが「この部屋は彼の生前の部屋の様子そのまま」
という説明を聞くと、なおさら、
何とも違和感を感じたのであった。
<注5>
「靴を履いたまま」ということには、
欧米の習慣であるといっても、
現在の私たち日本人にとっては、
依然としてかなり、違和感を感じるものである。
映画やテレビの劇で見る欧米の生活や、
海外旅行中のホテルでの体験から。
(日本の洋風ホテルでは、室内用のスリッパが出る)
最近読んだ『メルヘンの深層』のペローや
グリムの「長靴をはいた猫」の解説によれば、
ヨーロッパの靴の歴史には
ラテン・ローマ的<サンダル>の伝統と、
ゲルマン的<長ひも靴>との両系統があるという。
古代以来のヨーロッパでは、奴隷や囚人、懺悔者などは
裸足で過ごすことが強いられていたようで、
(ルドルフスキー『みっともない人体』)
そうすると、ヨーロッパ的深層心理には、
この差別意識が潜んでいるかも知れない。
なお、長靴はヨーロッパ中世では王侯貴族・騎士身分のもので、
一般の民衆にとっては履きにくい木靴や短靴、
そして、16世紀の農民戦争(農民一揆)では、
長い靴ひもの付いた<農民靴>を旗印とした。
(「ブントシュー」が反乱を起こしている)
木靴・短靴から革製長靴への転換がこのころから起こり、
「長靴をはいた猫」のメルヘンは
こうした時代背景から生まれたようだ。
観劇
チャイコフスキー博物館から帰って、
当初企画されていた
「ボリショイサーカス」見物(注6)が変更され、
ロシア民衆劇の観劇を行うことになった。
説明を聞き漏らしたか、後になって気づいたことだが、
そこは帝政時代に農奴によって建てられた
「オスタンキノ宮殿」の劇場であったらしい?
面白いことに、
この劇場の座席は10人掛けぐらいの長椅子になっていて、
これを取り払えばそのまま舞踏会のホールになるようだ。
かつてはこの劇場で
全員<農奴>の俳優や歌手、踊り子、音楽家によって
劇・芝居が行われたという。
今回の観劇では、
コサックダンスやらの主として観光旅行客用の
「ロシア民衆の歌や踊り・芝居」であったので、
特に印象深いものはなかった。
<注6>
サーカス見物
本場でサーカスを見るというのは、
私たち(私と同行者)にとってこの旅行中に一つの楽しみであった。
サーカスを楽しみだというと笑われるかも知れないが、
私のような年代にとっては、
子供の頃にはサーカスも
今風に言うとエンターテインメントであって、
案外主要なものの一つだったといえる。
私の子供の頃の楽しみは、
場末の映画館で3本立ての映画を見たり、
(嵐寛の鞍馬天狗やターザンなどなど)
近くの広場に時折小屋掛けする
「ドサ回りの芝居」(国定忠治、などなど)、
縁日の興業(お化け屋敷や蛇女の出し物など)というたぐいのものを
見ていたので、むしろサーカスは<高尚なもの>であった。
「木暮サーカス」や「木下サーカス」の
空中ブランコやオートバイの演技、
ピエロなど、胸を弾ませて見ていた感じが今でも蘇る。
というわけで、私には、案外、
江戸川乱歩などの「曲馬団」のオドロオドロシキ物語とともに、
サーカスは記憶に刷り込まれているようである。
そして、また、私の同行者(妻)の記憶にも
違った形での刷り込みがあるようで、
今でも「ピエロ人形」のコレクターとなっている。
前回のスペイン・ポルトガル旅行では、
トレドの町で偶然立ち寄った土産物店で見つけた陶芸品のピエロ人形を、
「これは有名な作家・工房の作品だ」からといって、
そして、「日本で買うと10万円ぐらいはするのだ」からと主張して、
衝動にまかせて数万円の人形を買った。
たかが、人形に数万円かけるのか、
という私の反対にもかかわらず。
夜の見学
ホテルのレストランで夕食(魚料理だったか?)をとり、
再び私たち(同行者)は、メトロのある広場に出かけた。
多少気持ちに余裕ができて、また水を求めていたからであった。
前日と同様の広場の賑わいを見ながら、
さらに奥に何があるか好奇心を持って、
そして何と写真を撮ったりして!
周囲のロシア人はきっと<変な奴ら>と思っただろう。
花屋の前などで写真を撮ったりする
そうした「外人旅行者」はいなかったから。
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